世界

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 多くの宗教は世界の成り立ちを授けてきた。俺らの宗教もまた世界に対する俺らの認識や信仰を授ける。俺が俺らの宗教を実際に創造する前に、俺らは現在の世界に対する俺の “認識” をざっと提示する。俺は俺の知識の全てを忘れて、生の知覚や認識を神話的に提示する。日本神話では、海が描かれて、北欧神話では、霧と暗い世界が描かれる。セム神話では、砂漠の世界が描かれる。

基本的な世界

 以下では、俺は基本的な世界を提示する。まず始めに、俺らはこの世界の構成を感覚的に提示する。次に、俺は昼と夜を提示する。さらに、俺は天候を提示する。最後に、俺は季節を提示する。

世界の構成

 経験的には、俺らは世界は土と水と風と火と空(天)から構成されていると感じる。感覚的には、俺らは土っぽいものと水っぽいものと風っぽいものと火っぽいもの、そして空(天)っぽいものを捉える。しばしば、俺らは植物や動物をこの中に組み込む。ある種の人々は人間を動物から明確に分離する。ただ、植物や動物は土からできてくるように感じる。

その他には、光と闇が組み込まれる。光は昼の明るさや太陽や月の光である。闇は夜の闇である。科学的には、光や闇は土と水と風と火と空と異なるかもしれない。けれども、神話において、光と闇もまた土と水と風と火と空(天)と同様に世界を構成すると感じたのはそれほど不自然でないだろう。さらに、俺らは砂漠や氷や岩や砂、雪やマグマや金属(鉱物)、雷なども世界の構成要素と感じるかもしれない。

また、これらの中に、俺らは色や形や数、音や匂いや暑さ寒さや乾燥や湿度を見出してきた。これらに加えて、俺らは触感や味や重力を感じてきた。例えば、土は深緑である。水は青い、深い青、透明である。風は無色であるが、しばしば煙として白や黒になる。雲を風と仮定すると、風が白くなる。火は黄い、または赤い。空は昼や朝には青い、夕方には赤い、夜には黒い。

昼と夜~空(天)の状態~

 夜になると、空(天)は暗くなり、黒色になる、月が空(天)の中を移動する。月は白く発光する。星も発光する。しかし、星は月や太陽のようには移動しないように見える。夜になると、俺らは寒さを感じる。雲も見られる。

夕方になると、空(天)は橙色になる。太陽の位置は低くなり、太陽の色も橙色である。昼になると、太陽の位置は真上である。太陽の色は白い。空(天)は青色である。雲が浮かんでいる。雲は白い。俺らは暑さを感じる。朝になると、太陽の位置は低い。太陽と山が近くなっているように見える。太陽の色は白い。空(天)は青色である。雲が浮かんでいる。雲は白い。

まとめると、空(天)の色は毎日毎日規則正しく変化しているように見える。土や水の色はここまで規則正しく変化しない。現在の世界では、空(天)の色が変化しているのか、風(空気)の色が変化しているのかは科学的に説明される。また、夜になると、俺らは土の色や水の色を緑や青と見ることはできない。俺らはそれらを黒く見てしまう。なお、電子機器の発達により、日本列島における昼夜はアラビア半島における昼夜と異なることがわかった。

天候~風の状態または空(天)の状態~

 晴れでは、空の色は青い。太陽が光っている。雲が浮かんでいる、または雲はない。雲の色は白い。風はあまり吹いていない。風や空気はカラッとしている。曇りでは、太陽は雲や霧で隠れている。空や雲や霧は濁っている。風や空気は湿り気を持ち、どんよりとしている。雨が降っている。

嵐では、太陽は雲や霧で隠れている。空や雲や霧は濁っている。風や空気は湿り気を持ち、荒れている。雷が落ちる。雷の色は白い。嵐の場合、海や川や水が非常に荒れる。吹雪では、雪が降っている。雪の色は白い。空の色も白い。太陽は隠れている。俺らは寒さを感じる。

季節~風の状態〜

 冬では、俺らは雪を見る。俺らは寒さを感じる。俺らは感想を感じる。夏では、俺らは暑さを感じる。俺らは湿度を感じる。俺らは強い日差しを浴びる。春では、俺らは暖かさを感じる。俺らは植物の発生を感じる。なお、電子機器の発達により、日本列島における季節はニュージーランドにおける季節と異なることがわかった。

俺らの世界

分岐世界

 分岐世界:俺らは物質が無から分岐して、蟲が物質から分岐して、ヌシが蟲から分岐していると信仰する。

 俺らは物質が無から分岐して、蟲が物質から分岐して、ヌシが蟲から分岐していると信仰する。分岐の方向は無からへ、から蟲へ、蟲からヌシへである。なお、縮小が成立して、無からヌシへが成立すると仮定する。世界(物質的世界)も人間(ヌシ)も分岐によって生まれてきたと信仰される。世界(物質的世界)も人間(ヌシ)も分岐によって生まれてきたと信仰される。

物質は機械に対応して、蟲は動物に対応して、ヌシは人間に対応する。その時、機械は無から分岐して、動物は機械から分岐して、人間は動物から分岐した。後述するように、俺らは今実行世界を採用するので、俺らは物質世界は無から今分岐していると信仰する。

巴世界

 巴世界:俺らはこの世界をと蟲とヌシの組みであると信仰する。

 俺らはこの世界を物と蟲とヌシの組みであると信仰する。例えると、巴世界とはこうである。俺らの肉体が車体(物)である。俺らの視界が車体の中のカーナビやホログラム(蟲)である。俺ら自身が車体の中の運転手(ヌシ)である。

つまり、巴世界とは、車体とカーナビと運転手が同時に三重に成立している世界である。俺らは物と蟲とヌシを明確に区別する。俺らはそれらを同じ物質と認識しない。簡単にいうと、俺らの世界は物質世界と蟲世界とヌシ世界という三重の世界である。

今分岐世界

 今分岐世界:俺らはと蟲とヌシが今分岐していると信仰する。

 俺らは物と蟲とヌシが今分岐していると信仰する。俺らは物が無から今分岐して、蟲が物から今分岐して、ヌシが物から今分岐していると信仰する。過去や未来における物は現在における物や記憶から人為的に構成される。

俺らは俺らの世界をyoutubeにおける動画のように毎日毎日投稿され続けていると信仰する。俺らの世界は今投稿されている。言い換えると、物と蟲とヌシは今現在分岐されている。俺らは物質世界は毎秒毎秒、無から分岐していると信仰する。

多くの宗教では、創造主が過去に世界を創造したと信仰するが、俺らの宗教では、俺らの世界は現時点で毎秒毎秒分岐していると信仰する。

巴世界

 :俺らはを無から今分岐していると信仰する。

 俺らは物を無から分岐していると信仰する。物とは無から今分岐している対象である。脳も一つの検出器と置くと、日常的には、物質とは、エネルギを持つ対象である。

または、物質とは、肉体や検出器によって検出される能力を持つ何かである。俺らはその能力の発現を知覚する。能力とその発現はほぼ一致しているかもしれないけれども。また、肉体や検出器によって検出される対象は現在における物のみである。

つまり、過去における物や未来における物は上記の意味での物でない。なぜなら、それらは検出器によって実際に検出されない。これは蟲やヌシにも応用される。俺らは現在における物を拡張して、過去における物や未来における物を実際の対象をみなす。物とは、検出器によって検出される対象である。

 :俺らは蟲をから今分岐していると信仰する。

 俺らは蟲を物から今分岐していると信仰する。蟲とは、物から今分岐している対象である。物が肉体によって知覚される時、蟲がその肉体に対応して生じる。蟲は肉体の内部にあるように感じる。この宗教では、俺らはその対応を分岐と信仰する。

蟲には、視覚や聴覚や味覚や痛覚や重力覚、性欲や感情が含まれる。記憶や脳内映像も蟲である。俺らのヌシは俺らの蟲を知覚するが、他者の蟲を知覚できない。

注意点として、君の視覚は君自身でない。ホモ・サピエンスのほとんどは彼ら自身の視界を彼ら自身と誤認識しているように見える。それはあくまでも車体におけるカーナビや車体の中のホログラムである。蟲はヌシによって知覚される対象である。

ヌシ

  :俺らはヌシを蟲から今分岐していると信仰する。

 俺らはヌシを蟲から今分岐していると信仰する。ヌシとは、蟲から今分岐している主体または対象である。ヌシとは、君の蟲を捉える君自身である。ここで、知覚運動?とは、ヌシが自己の蟲を捉える運動?である。はてなの意味はヌシそれ自体が運動しないことである。

物が脳によって検出された後、蟲が立ち上がる。ヌシはその蟲をほぼ自動的に捉える。俺らはその運動?を知覚と便宜的に呼ぶ。俺らは自己のヌシを感覚的に把握できる。しかし、俺らは他者のヌシを直接的に把握できない。だから、俺らは他者のヌシを俺らのヌシから類推して把握する。ヌシとは、蟲を知覚する主対象である。

なお、ヌシなき蟲が存在するのかは不明である。ただし、肉体が存在しないと、蟲が存在しないように、蟲がないとヌシが存在しないように感じる。脳が存在する時、蟲が発生して、ヌシも同時的に発生する。俺らはこれを分岐と解釈する。ヌシと蟲との違いは次である。ヌシは肉体や蟲に一対一に唯一に対応しない。それに対して、蟲は肉体に対してほぼ一対一に唯一に対応する。日常的には、なぜ俺が俺であるかは誰にもわからない。