俺系統の世界認識

https://unsplash.com/photos/jVDbmshAl4o

 以下では、俺は俺系統の世界認識を提示するつもりである[意志]。多くの神話や宗教では、世界に対するホモ・サピエンスの認識が記録されてきた。同様に、この宗教でも、俺は世界に対する俺系統の認識を提示する。

この宗教では、俺は俺の認識を一種の味覚と例える。もし俺が味音痴でないならば、世界に対する俺の認識は “正しい” かもしれない。もし俺が味音痴であるならば、世界に対する俺の認識は間違いである。しかし、認識の正しさは何が最も美味しいかに似ている。その正しさは宗教にも関係する。

また、俺は世界に対する知覚(perception)を認識(cognition)と異なる運動と認識する。知覚はホモ・サピエンスによってそれほど異ならない。一方、世界に対する認識はホモ・サピエンスによって大きく異なる。例えば、何が侮辱と認識されるのか、何が失礼と認識されるのか、何が名誉毀損とされるのかは知覚でなく認識に関する問題である。

俺系統の世界認識

 この宗教では、俺は自己及び他者の運転手を信仰した。俺は他者の意識を信仰した。他者には、動物の意識や運転手も含まれる。以下では、俺はその信仰を世界に対する俺の認識へと応用して、俺系統の世界認識を提示するつもりである。この世界認識を父系で伝達させよ。

俺系統の世界認識(cognition)

 俺系統の認識 俺は物質と意識と運転手の組みを一つの世界と俺系統の認識で認識する。

 その世界=物質と意識と運転手の組みである。その世界=(物質、意識、運転手)。俺は物質と意識と運転手の組みを一つの世界として俺系統の認識で認識する。個人的な認識では、俺は物質と意識と運転手は互いに足されていない。なぜなら、俺は数と石ころを足すことはできない。だから、「その世界=物質+意識(蟲)+運転手」は俺に認識に反する。

俺は意識を物質でないと認識する。俺は運転手を物質でないと認識する。俺は運転手を意識でないと認識する。俺はこの世界には、互いに異なる3種類の何かが存在すると認識する。意識≠物質。運転手≠意識。運転手≠物質。便宜的に、俺は意識を蟲(mushi)と呼ぶ。

俺は物質と意識と運転手の組みをx-y-zの三次元空間と便宜的に例える。これは単なる例えである。物質はx軸に対応して、意識はy軸に対応して、運転手はz軸に対応する。この時、物質と意識と運転手の組みは3次元空間における1点に対応する。ただし、三次元空間では、それぞれの軸は同じ軸であるが、物質と意識と運転手は同じ軸ですらない。

関係(relation)

 俺系統の認識 俺は物質と意識と運転手の関係を不明と認識する。

 俺は意識は物質に対応して、運転手は意識、または意識及び物質に対応すると認識する。つまり、俺は物質と意識と運転手の関係を対応関係と認識する。俺は対応を関係に置き換えることができるかもしれない。現時点では、俺は対応(correspondence)と関係(relation)の違いをうまく認識することができない。関係には、x=yやx^2+y^2=1やxは有理数であるがある。対応には、f(x)=yがある。後者は規則に近い。その意味では、物質と意識と運転手の関係は対応(規則)に近い。しかし、f(x)=yでは、数を数に対応させた。それに対して、物質と意識と運転手は互いに異なる対象である。その対応は数を石ころに対応させる規則(f(数)=石ころ)のようである。

俺が睡眠や気絶する時、俺が麻酔を打つ時、俺の意識や俺の運転手は物質に連動して、一時的な休止状態になる。さらに、俺の目の色が黒から青に変化する時、俺の視界(視界意識、視界蟲)もまた変化する。俺がこの観察を使用する時、物質と意識と運転手の関係は対応にも連動(interlock or work together)にも見える。f(物質)=意識やf(物質)=運転手やf(意識)=運転手が成立するように見える。組みを使用すると、(物質、f(物質)、g(意識))。fはgに一致しない。g(意識)はg(物質、意識)である可能性もある。少なくとも、交換可能(⇄)や一致(=)や大小関係(<)は成立していない。

また、物質と意識と運転手の関係が原因関係であるのかも不明である。もし物質が意識の原因であるならば、物質は意識を創造する未知の力xを持っている。もし意識が運転手の原因であるならば、意識は運転手を創造する未知の力yを持っている。もし物質及び意識が運転手の原因であるならば、物質及び意識は運転手を創造する未知の力zを持っている。俺の認識では、物質は意識に必要な対象である。意識は運転手に必要な対象である。もし物質は意識に必要な対象であるならば、物質は意識の土壌である。もし意識が運転手に必要な対象であるならば、意識は運転手の土壌である。もし物質が運転手に必要な対象であるならば、物質は運転手の土壌である。

分岐(divergence)

 上記では、俺は物質と意識と運転手の関係を提示した。理論物理では、時刻と位置の関係f(t)=xが考えられた。その関係は対応に近い。この関係では、時間が位置を創造(create)しない。時間が位置を生成(generate)しない。俺は物質が意識を創造するのか、物質が意識を生成しているのかを認識する必要がある。俺は意識は物質によって生成、または創造されたのかを認識する必要がある。

もし物質が意識を生成するならば、意識は物質でないので、物質は物質を必要な対象として物質でない対象を創造したことになる。この場合、俺の日本語感覚では、俺は生成を創造に置き換えることができる。生成の場合、親が子供を生成するや2種類の薬品の混合が別の薬品を生成するに近いように感じる。この生成は発生(occurence)に近いかもしれない。生成や発生は物質から別の物質が作られるように感じる。それに対して、創造は無から新たな何かが生じる、またはある対象から完全に異なる何かが生じるように感じる。個人的には、俺は物質からの意識の創造に関しては新たな動詞を与えたい。それが運動であるのかも不明である。

俺は意識は物質から対応的に分岐していると認識する。俺は運転手は意識、または物質及び意識から対応的に分岐していると認識する。または、俺は分岐を創造と置き換えて、俺は意識は物質から対応的に創造していると認識する。俺は運転手は意識、または物質及び意識から対応的に創造していると認識する。俺の父の父の父の…の父は物質であったはずである。その時、その父は意識を持っていなかっただろう。しかし、父の父の父の…の父は動物の雄であった。その雄は自己の脳を持つので、その雄は自己の意識を持っていたはずである。その雄が運転手を持っていたのかは不明である。俺がこの世界を父系先祖と父系子孫で進化論的に捉えるとき、動物の進化が遺伝的な分岐であってきたように、俺は意識や運転手の生成もまた何らかの分岐であったと捉えたい。そこで、便宜的に、俺は意識や運転手を対応的な分岐と認識する。当然、対応的な分岐は対応的な創造でも良い。

時間(time)

 俺系統の認識 俺は意識や運転手は物質から今現在創造的に分岐していると俺系統の認識で認識する。

 この宗教では、俺は現在のみを知覚する。俺は知覚された情報を使用して、過去を現在から過去へと復元する。さらに、俺はその過去を過去から現在へと構成する。俺は未来を現在から予想する。俺は俺系統の時間感覚を上記の分岐にも応用する。その時、意識は物質から今現在創造的に分岐している。運転手は物質及び意識、または意識から今現在創造的に分岐している。これをさらに応用して、物質は無から今現在創造的に分岐している。

ただし、俺は空間や時間は物質世界に所属すると俺系統の認識で認識する。つまり、俺は空間や時間は意識や運転手の世界に所属しないと俺系統の認識で認識する。実際、時間や空間は理論物理の世界でその手法で分析されてきた。例えば、動画サイトでは、動画は今現在投稿され続けている。同様に、物質や意識や運転手は過去を時間的に必要な対象として今現在分岐し続けている。ただし、俺は時間や空間が数のように認識される対象である可能性を無視しない。

空間(space)

 俺系統の認識 俺は意識や運転手は物質世界におけるn次元空間に所属しないと認識する。

 意識や運転手は物質世界におけるn次元空間に所属しないので、意識や運転手は物質世界におけるn次元空間の位置を持たない。俺の肉体は三次元空間における位置を持つ。しかし、俺の意識や俺の運転手は三次元空間における位置を持たない。また、意識や運転手は三次元空間における広がりを持たない。空間や時間は物質世界における対象であり、物質やエネルギに物理的に関係する。時間や空間は物質と同様に意識や運転手と異なる。当然、意識や運転手が物質の影響を受けるように、意識や運転手は時間や空間の影響を受ける。

俺系統の世界認識〜運動〜

 以下では、俺はこの世界における運動に対する俺系統の認識を提示するつもりである。俺は物質の自動的な運動と非自動的な運動と目的的な運動を俺系統の世界認識で認識する。

俺系統の世界認識

 俺系統の認識 俺は自動的な運動と非自動的な運動と目的的な運動が物質の運動にはあると俺系統の認識で認識する。

 惑星の運動は自動的である。風の運動は自動的である。水の運動は自動的である。火山の運動は自動的である。それに対して、俺は動物の運動は自動的でなく非自動的であると認識する。また、ホモ・サピエンスの一部の運動は非自動的であり、かつ目的的であると認識する。彼らは自己の実現したい目的を持って目的的に運動する。俺が物理法則(自然法則)と仮定するとき、俺は物質は物理法則に沿って完全に自動的に運動すると認識する。それに対して、俺は意識を持つ動物は物理法則に沿って完全には自動的に運動しないと認識する。

 俺系統の思考規範 もしある主体が自己の意識を持つならば、その主体は完全には自動的に運動しない。

また、もしある主体が自己の運転手を持つならば、その主体は完全には自動的には運動しない。俺はこの思考の規範を上記の認識から獲得する。対偶をとると、もしある主体が完全に自動的に運動するならば、その主体は自己の意識を持たない。一般的には、もし俺が自由意志を持つならば、俺は完全には自動的には運動しない。俺は意識を利用して、この推論を書き換えた。

 俺系統の思考規範 もしある主体が自己の特別な運転手を持つならば、その主体は目的的に運動する。

自己の特別な運転手が何であるかは不明である。けれども、現時点では、俺は運転手が非自動的な運動に関係するのか、特別な運転手が非自動的な運動に関係するのかを審判することができない。ある主体が特別な運転手を持つ時、その主体が目的的な運動を実行するのか、またはある主体が運転手を持つ時、その主体が目的的な運動を実行するのかは不明である。また、俺は動物やホモ・サピエンスの雌が自己の運転手を持っているのかを断定することができない。

自由意志と目的意志

 俺系統の認識 俺は自由意志と目的意志を俺系統の認識で認識する。

 自由意志とは、意識を持つ主体が自己の自動的な運動を自己の非自動的な運動へと変化させる能力である。目的意志とは、特別な運転手を持つ主体が自己の非自動的な運動を自己の目的的な運動へと変化させる能力である。特別な運転手は運転手でも良いかもしれないが、現時点ではどちらが適切であるのかは不明である。

何がこの能力を持っているのかは不明である。俺は意識、または意識及び運転手、または運転手が自由意志を持っていると認識する。肉体は単なる物質であるので、肉体それ自体は自由意志を持たない。同様に、俺は運転手、または特別な運転手が目的意識を持っていると認識する。肉体は物質であるので、肉体それ自体は目的意志を持たない。

意識及び運転手の運動

 俺系統の認識 意識及び運転手は物質世界では運動しない。

 俺は運動の定義を物体の位置変化と認識するとき、意識や運転手は運動しない。なぜなら、意識や運転手は自己の位置を空間の中に持たないので、それらは位置変化しない。ただし、意識は肉体という物質に対応しているので、意識も物体につられて運動しているように見える。運転手も同様である。ただし、俺が運動の定義を対象の変化と認識するとき、意識や運転手は運動する。なぜなら、睡眠や気絶や麻酔の結果、意識や運転手は点滅を繰り返す。俺はこの点滅を意識や運転手の一種の運動と認識する。

物質世界

 以下では、俺は物質世界について述べるつもりである。俺は世界の定義を知らない。

構成

 俺系統の認識 俺は物質世界を空(天)と火と風と水と土の和と俺系統の認識で認識する。

 俺は和の意味を明確に認識することができない。和は組み立てであるかもしれない。俺は和を混合としばしば認識するが、水と天は混合されていない。この和はobjectul=objectal+objectal+objectalの意味での和である。それぞれのobjectalは必ずしも混合されていない。

物質世界=空(天)と火と風と水と土。天は空間であり、火はプラズマであり、風は気体であり、水は液体であり、土は固体である。岩や鉱石や金属や砂も土である。マグマは水と土と火の和である。氷は水の変形である。人体は皮と肉と骨の組み立てである。骨は土を固めたものであり、皮は土を薄く広げたものである。肉は土であり、臓器も土である。

口語的には、世界は空っぽいものと火っぽいものと風っぽいものと水っぽいものと土っぽいものからなっている。これらが部品であるか、要素であるのか、素材であるのか、成分であるのかは不明である。そのほかには、光がある。0という考えを使用するとき、俺は闇も認識する。このとき、俺は物質世界を空(天)と光と闇と火と風と水と土の和と俺系統の認識で認識する。さらに、時間を加えると、俺は物質世界を空(天)と時間と光と闇と火と風と水と土の和と俺系統の認識で認識する。ただし、俺は時間や空間が数のように認識される対象である可能性を無視しない。

運動

 俺系統の認識 俺は物質は完全に自動的に運動すると俺系統の認識で認識する。

 俺は物質は機械のようにプログラムに沿って自動的に運動すると認識する。自然界では、そのプログラムは自然法則(物理法則)である。運動の原因は力である。力には、重力と電気力と磁気力がある。また、圧力も存在する。細かいことを言うと、自然法則が自然界の中に埋め込まれているのかは不明である。俺が観測を実行するとき、俺は自己の肉体をある対象を観測するように運動させる。この行為が八百長でないのかは不明である。ただし、俺は自然界には、何らかの秩序やパタン(繰り返し)や安定性が存在していると認識する。

俺らについて