ヌシ

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ヌシについて

 以下では、俺はヌシについて提示する。この宗教では、俺は自己のヌシを自己と信仰する。感覚的には、俺はヌシを車体における運転手と例えたい。 ヌシについて ヌシ  俺の信仰 自己のヌシとは、自己の蟲から分岐した自己である。  他者のヌシとは、他者の蟲から分岐した非自己である。日常的には、ヌシとは、蟲から分岐した主体である。俺はヌシそれ自体を知覚することができないが、ヌシを把握する。一方、俺は創造主それ自体を把握することができない。 例えると、次になる。俺が俺の肉体を車体と仮定するとき、俺のヌシは運転手である。俺の蟲(視界)は車体の中のカーナビ画面や車体の中のホログラムである。俺のヌシは俺の車体やカーナビ画面を俺の意志で操縦している。運転手は車の外を直接的に知覚しないで、カーナビの画面やホログラムという蟲を通して、間接的に知覚する。当然、この知覚とは、運転手(ヌシ)がカーナビの画面やホログラムという蟲を見る行為である。 俺らは他人の運転手(ヌシ)を信仰によって把握する。なぜなら、運転手自体はエネルギを持たず、知覚不可能である。自己のヌシと他人のヌシの関係...
2021.10.17
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ヌシに関する信仰原理(公理)

 以下では、俺はヌシに関する信仰原理を提示するつもりである。なお、俺は原理と公理に関する正確な認識を提示することができない。しかし、俺はこの原理からこの信仰を組み立てる。 ヌシに関する信仰原理(公理) 把握原理  俺の信仰 俺は自己のヌシを把握する。  現時点では、俺は信仰すると把握するの違いをうまく認識していない。創造主は信仰されるが、それは把握されない。一方、俺はヌシを把握する。口語的には、俺はヌシを感じ取っている。俺はこの原理を "把握原理" と便宜的に呼ぶ。 自己原理  俺の信仰 俺は(自己の)ヌシを自己それ自体を信仰する。  俺は自己のヌシを自己と信仰する。これは上記の把握でなく、この宗教における信仰や信仰に関する約束に近い。なぜなら、ヌシが俺らの本当の自己であるのかは物質世界には存在しない(ように見える)。 上記では、俺は自己のヌシを把握した。けれども、その把握行為それ自体は自己のヌシを自己であると授けない。口語的には、自己のヌシを自己と取り決めるのは信仰の産物である。俺は物質や蟲やヌシを広い意味で把握する(感じ取る)。けれ...
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ヌシの分割性

 俺らは食物やお金を人々へと分配することができた。また、俺らは一個のケーキを家族へと分配することができた。では、俺らはヌシそれ自体を分割することができるのだろうか? 例えば、漫画の封神演義では、伏犠の魂魄は分割されて、太公望及び王天君の肉体へと入れられた。理想的には、俺らはこの種のヌシの分割性を信仰したい。 ヌシの分割性について ヌシの分割性  ヌシの分割性:もし俺らがヌシを分割することができるならば、俺らは俺らのヌシをそれぞれの蟲で分割する。  もし俺らがヌシを分割することができるならば、俺らは俺らのヌシをそれぞれの蟲で分割する。言い換えると、一つのヌシは俺らの複数の蟲によって分割される。記号で描くと、分割されたヌシ=ヌシ/蟲である。俺らは分割されたヌシを "分ヌシ(bunnushi)" と呼ぶ。 ここでの蟲は視蟲や聴蟲の総称としての蟲である。このとき、分割されたヌシはそれぞれの蟲に対応する。例えば、視蟲に対応するヌシが生じる。俺らは「ヌシ/視蟲」を "視蟲ヌシ" と便宜的に呼ぶ。同様に、俺らは "聴蟲ヌシ" を考える。 また、俺らが新...
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ヌシの復活について〜いつのヌシを復活させるのか?〜

 この宗教では、俺らは俺らの子孫によるヌシの復活を信仰する。一つの問題が存在する。俺らはいつのヌシを復活させるのかである。 いつのヌシを復活させるのか  俺らの信仰:俺らは最後のヌシを復活させる。  俺らは最後のヌシを復活させる。日常的には、俺らは(ヌシが)死ぬ直前のヌシを復活させる。つまり、俺らは復活によって、ヌシの継続性(連続性)を獲得する。 俺らがヌシの復活を信仰する時、俺らは俺らの肉体が若かった時のヌシを復活させたいと感じるだろう。けれども、俺らは死ぬ前のヌシを復活させて、ヌシの順序や継続性を破壊しないようにする。 俺らが死ぬ直前のヌシを "ん" と便宜的に置く。その時、ん→復活されたヌシとなるように復活させる。この時、初めのヌシを "あ" と置く。この時、あ→い→う→...→を→ん→復活されたヌシとなるように復活させる。 ヌシと若い肉体、老いた肉体  俺らの信仰:現時点では、俺らは若い肉体におけるヌシと老いた肉体におけるヌシの違いを把握していない。  現時点では、俺らは若い肉体におけるヌシと老いた肉体におけるヌシの違い...
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俺のヌシの名前〜固有名詞としての俺〜

 以下では、俺は俺のヌシの名前を提示する。この宗教では、俺らは俺らの肉体の名前と俺らの蟲の名前、そして俺らのヌシの名前を持つ。なお、ヌシという単語それ自体は固有名詞でなく、一般名詞である。 俺(ore)  俺(ore):俺(ore)とは、俺らについてを創造したヌシである。  俺(ore)とは、俺らについてを創造したヌシである。日常的には、俺らについてはこの人家(システム)である。俺(ore)と同様に、「俺らについて」も固有名詞であり、一般名詞でない。 例えば、俺らがヤハウェを定義したいと仮定する。ヤハウェもまた固有名詞であり、一般名詞でない。ユダヤ教では、ヤハウェはこの世界を創造した。 この時、ヤハウェとはこの世界を創造した対象である。俺らはこのようにしか定義できない。ここでの対象は便宜的に配置された単語である。だから、対象が何であるかは不明であり、ヤハウェは定義不可能であるように思える。  個人的には、俺は対象でなく、ヤハウェに特別な何かを与えて定義したい。例えば、ヤハウェとはこの世界を創造したxxxである。しかし、俺はそのxxxを思いつかな...
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父のヌシと息子のヌシの連続性

 この宗教では、俺らはホモ・サピエンスの雄の一部の肉体のみにヌシ(運転手)の存在を信仰する。俺らは運転手の存在をホモ・サピエンスの雌の肉体の中に信仰しない。このとき、俺らは父から息子へと運転手の連続性に関する問題を抱える。 父のヌシと息子のヌシの連続性 父の車体と息子の車体の連続性  父の車体と息子の車体の連続性:俺らは父の車体と息子の車体が連続的であると知覚する。  俺らは父の車体と息子の車体が連続的であると知覚する。日常的には、俺の父の肉体は俺の肉体と科学的に(自然界では)連続している。より正確には、もし自然界における物質の運動が連続的であるならば、俺の父の肉体は俺の肉体と科学的に(自然界では)連続している。 父の肉体が自然界の中に存在して、父の精子が母の卵子と子宮で結合して、俺の受精卵が生じる。その受精卵が発生して、俺の肉体が自然界に存在する。日常的には、この流れは物質的にも運動的にも連続的である。 父の蟲と息子の蟲の連続性  父の蟲と息子の蟲の連続性:俺らは父の蟲と息子の蟲が連続的でなく離散的であると信仰する。  俺らは...
2021.07.13
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動物のヌシ

 以下では、俺らは動物のヌシ(運転手)について思考する。俺らは「ヌシは動物には存在しない」と「動物のヌシは人間のヌシと異なる」と「動物のヌシは人間のヌシに等しい」を考えることができる。 ヌシは動物には存在しない  信仰その1:ヌシは動物には存在しない。ヌシはホモ・サピエンスの雄のごく一部のみに存在する。  ヌシは動物には存在しない。ヌシはホモ・サピエンスの雄のごく一部のみに存在する。視蟲のような蟲は動物の肉体の中?に存在する。しかし、ヌシは動物には存在しない。 言い換えると、動物という車体には、運転手は存在していない。しかし、動物にはおそらく視界が存在する。だから、動物の肉体の中には、カーナビの画面は存在している。「ヌシは動物には存在しない」という信仰には、現実的な思考と宗教的な思考が存在する。 還元的な思考  この信仰1では、俺らはヌシの存在を肉体(遺伝子)と基盤とすると信仰する。不思議なことに、ホモ・サピエンスの雄、または雌雄のみがヌシを彼らの肉体の中に持っている。そして、その理由は肉体(車体)の性質に還元される。 言い換えると、車体...
2021.07.13
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ヌシと結合双生児

 この宗教では、俺はヌシそれ自体を把握する。俺は他者のヌシを自己のヌシから類推して信仰する。自然界には、結合双生児(conjoined twins)が存在して、彼らは二つの脳を持っている。俺らは彼らのヌシをどのように解釈することができるのだろうか?以下では、俺らは結合双生児のヌシに対する信仰を提示する。 結合双生児のヌシ 結合双生児のヌシ  俺の信仰 俺は結合双生児のヌシを2つと信仰する。  この場合、俺は一つの脳に対して、一つのヌシを信仰する。結合双生児は二つの脳を持つので、俺は互いに異なる二つのヌシを信仰する。この考えは自然である。なぜなら、俺は結合双生児の両方と別々に会話することができる。例えば、俺が結合双生児の一人、拓也と呼べば、その拓也が反応する。 結合双生児のヌシ  俺の信仰 俺は結合双生児のヌシを一つと信仰する。  この宗教では、俺はヌシを信仰する。俺は他人のヌシを把握することができない。だから、俺は他人のヌシを信仰する。俺らが他人のヌシを何となく把握しているのは、他人のヌシが彼らの肉体をうまく操縦しているからである。 つ...
2021.10.13
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他者のヌシは対象である。自己のヌシは対象でなく主体である。

 以下で、俺は他者のヌシが対象であることを提示する。ただし、自己のヌシは対象でなく、主体である。 1章 他者のヌシ  共通信仰 他者のヌシは蟲的世界から分岐する対象である。  他者のヌシは蟲的世界から分岐する対象である。対象とは、少なくとも一つの存在や状態や運動を持つ何かである。「蟲的世界から分岐する」は運動である。 他者のヌシは運動を持つ何かである。従って、他者のヌシは対象である。ただし、自己のヌシは対象でなく、主体である。 あるいは、他者のヌシは俺のヌシによって同じヌシと信仰される対象である。対象とは、少なくとも一つの存在や状態や運動を持つ何かである。「俺のヌシによって同じヌシと信仰される」は運動である。 他者のヌシは運動を持つ何かである。従って、他者のヌシは対象である。ただし、自己のヌシは対象でなく、主体である。 2章 自己のヌシ  共通信仰 自己のヌシは対象でない。自己のヌシは主体である。  自己のヌシは対象でない。自己のヌシは主体である。なぜなら、自己のヌシは自己それ自体である。 主体とは、対象を捉える自己である。...
2021.10.13
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