善悪

https://ja.wikipedia.org/wiki/陰陽

 以下で、俺は善悪を創造する。現時点で、俺は善悪と真実と真理を区別できない。善悪の創造は真実の創造であるかもしれない。

バラバラの狩猟民族が人間社会を形成する時、何が善であり何が悪であるかが問題になる。例えば、男女公平が善か、男女平等が善かである。物質的世界には、善悪の判断は存在しないので、これは信仰の問題に帰着される。

善悪の判断に対する魚拓(image)は球蹴りの試合におけるレッド・カードが適切である。人間が善悪の判断を持つとは、人間が彼ら自身のレッド・カードを持つことである。この信仰では、物事の善悪は分岐によって正当化される

1:分岐正当性と分岐正当観

 共通認識 分岐正当性とは、ヌシがより分岐された物事を正当であると判断する人為である。分岐正当観とは、分岐正当性が正当である正当観である。

1:分岐正当性

 この信仰では、俺らは分岐を物事の正当性と認識、または進行する。なぜなら、世界観と信仰の目的人間の本質であるヌシが分岐に関係する。簡単にいうと、俺らが正当性を分岐の中に見るとき、俺らの信仰がうまく機能する。

分岐という正当性は分岐世界観及び巴世界観と分岐という信仰の目的、そして分岐存在であるヌシから導かれる。俺らは人工的な世界の基本的な骨格が分岐正当性を内在的に肯定していると認識、または進行する。

キリスト教では、男女平等は善である。なぜなら、彼らの創造主がこの世界をその創造主の意志でそのように創造した。この信仰でも同様に、俺がこの人工的な世界を俺の意志でそのように創造した。だから、分岐は正当である。

2:審判と判断

 共通認識 審判するとは、蟲がある物事に蟲的世界における物事(主に状態)を対応させる行為である。判断するとは、ヌシが蟲的世界における物事に正当性を対応させる人為である。

1:審判行為

 例えば、哺乳類もまた人間と同様にある状態を審判する。鹿などの草食動物はある状態やある存在を危険と審判して、その場から逃走しようとする。しかし、機械はある状態を危険と審判せずに、機械的な命令にしたがって動き続ける。

なぜなら、動物は物質的世界から分岐している。この分岐が審判という行為をもたらす。ここでは、俺らはこの審判行為を蟲的世界における行為に対応させる。

機械は物質的世界から分岐していないので、何も審判できない。

2:判断人為

 一方、何かを判断するのは人間に特有な人為である。例えば、俺は鹿による危険の審判行為を審判の例として提示した。しかし、鹿は危険が正当でないかを判断できない。

なぜなら、鹿は物質的世界や蟲的世界から分岐していない。または、鹿の肉体の中には、ヌシが存在しない。だから、鹿はヌシ的世界に対応する人為を行えない。

一方、人間は物質的世界や蟲的世界から分岐している。だから、より分岐された行為や人為を行うことができる。その証拠として、判断という人為が存在する。その人為は人間のヌシが物質的世界や蟲的世界から分岐していることを間接的に示している。この信仰では、俺らは審判と判断をこのように考える。

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