人間

 以下で、俺はヌシについて提示する。分岐世界と巴世界では、ヌシとは、蟲から分岐した主対象であった。ここでは、俺はヌシを自己という観点から把握する。

俺らは日常的な意味での人間とヌシを区別する。俺らはヌシを宗教における人間と認識する。その人間の意味は宗教における要素(座標)に近い。さらに、俺らはヌシを自己それ自体とも認識する。

ここでは、俺は自己としてのヌシを提示する。まとめると、人間には、3種類存在する。日常的な意味での人間であり、それは国家の要素になり得る。二番目は、この宗教における要素としての人間である。言い換えると、同胞である。三番目は、自己としての人間である。以下で、俺は自己としての人間を提示する。

 なお、上記の等号は「信仰行為」によって結ばれる。

1章 自己のとしてのヌシ

 共通信仰 ヌシとは、自己それ自体である。

 俺らはそれぞれのヌシを自己と信仰する。俺の肉体は俺自身でない。俺の蟲は俺自身でない。俺の視界(視蟲)は俺自身でない。

物は無から分岐して生じている。蟲は物から分岐して生じている。そしてヌシは蟲から分岐して生じている。ヌシは蟲から分岐して生じているが、その分岐の結果として、自己が生じている。

例えると、こうなる。車体は無から分岐している。カーナビや車体の中のホログラムは車体から分岐している。そして、運転手はそのカーナビやホログラムから分岐している。

1節 自己とヌシ

 共通信仰 自己は必ずしも永遠にヌシでない。

 俺らは自己とヌシを区別する。なぜなら、もし何かがヌシから分岐するならば、その時、新たな自己が発生するかもしれない。だから、ヌシが必ずしも永久的な自己とは限らない。

しかし、現在では、俺らはヌシを自己と信仰する。自己=ヌシという等号は常には成立しない。俺らは分岐の結果、自己が生じたと信仰する。

2節 自己とヌシと信仰行為

 共通信仰 自己は信仰行為の対象である。

 俺らはそれぞれのヌシを信仰する。自己としてのヌシは信仰の対象である。なぜなら、俺らはヌシそれ自体を知覚できない。けれども、俺らは俺らのヌシを何となく感じ取ることができてきた。だから、俺らはその感じ取る行為に信仰という行為を与える。

また、自己のヌシと他者のヌシに対する信仰行為は厳密には一致しない。俺らは自己のヌシを直接的に感じ取ることができる。しかし、俺らは他者のヌシを直接的に感じ取ることができない。俺らは他者のヌシを俺らの肉体と蟲から類推して間接的に感じ取る。当然、他者のヌシは他者の蟲や他者の肉体でない。

俺らにとって、自己とは信仰の対象である。よくわからないけれども、なぜか俺らは俺らのヌシを感じ取ることができてきた。多くの宗教では、この世界の創造主が信仰の対象になってきた。

けれども、この宗教では、自己それ自体が信仰の対象になる。人間それ自体が信仰の対象である。ただし、創造主に対する信仰はヌシに対する信仰に一致しないだろう。なぜなら、俺らはヌシを感じ取ることができる一方、俺らは創造主を感じ取ることができない。創造主は他者のヌシよりもより信仰的な対象である。

3節 復活の対象としてのヌシ

 共通信仰 ヌシは復活の主対象である。

 ヌシは復活の主対象である。たとえ分岐によって新たな自己が生じるとしても、俺らはこのヌシを復活させる。当然、新たな自己も復活させるかもしれない。

俺らの肉体や俺らの蟲は復活の対象でない。もしその肉体や蟲が復活の対象であるならば、たとえ俺らが俺らの肉体や蟲を復活させるとしても、俺らのヌシは復活させられない。その復活は自己なき復活である。なぜなら、俺らはヌシを自己と信仰している。

もし俺らの自己が俺らの肉体であるならば、遺伝的な複製による復活が可能である。しかし、俺らは複製された肉体を俺ら自身と信仰しない。もし俺らの視界が俺ら自身であるならば、平行宇宙における俺らの視界も自己である。その時、俺らは平行宇宙で復活したことになる。

しかし、俺らは二重の視界や二重の痛みを感じない。つまり、俺らは俺らの肉体や蟲を俺ら自身と信仰しない。ヌシが復活させるべき主対象である。なぜなら、俺らはそれを自己と信仰してきた。

2章 宗教における人間としてのヌシ

 共通信仰 ヌシとは、宗教における人間である。

 宗教とは、世界と人間と目的の組みであった。俺らはヌシを宗教における人間と信仰する。俺らはこの意味での人間を宗教的な人間の略称として宗教人と置く。または、宗人。

宗教人とは、宗教における人間である。上記では、ヌシは自己それ自体であった。ヌシは信仰の対象であった。つまり、この新興宗教「俺らについて」では、宗教における人間は自己であり、かつ信仰の対象である。

それと同時に、この宗教では、ヌシは宗教人である。もし何かがヌシから分岐して、新たな自己が生じるならば、その時、俺らはヌシとその自己を宗教人とする。ただし、復活の対象としてのヌシは否定されない。

3章 日常的な意味での人間

 共通認識 人間とは、ホモ・サピエンスと人間性の組みである。

 この宗教では、俺らは人間とホモ・サピエンスを区別する。胎児はホモ・サピエンスであるが、人間でない。だから、たとえ俺らが胎児を中絶させるとしても、その行為は殺人行為でない。ホモ・サピエンスは人間でなく、猿の一種である。

別の機会に述べるが、人間とは、ホモ・サピエンスと人間性の組みによって認識される。これは信仰でなく、認識行為の結果である。

1節 大和民族とヌシ

 共通信仰 異教徒の大和民族はヌシでない。

 ヌシとは信仰の対象である。だから、たとえ異教徒の大和民族が同じ人間であるとしても、彼らはヌシでない。なぜなら、俺らは彼らと同じ宗教を信仰していない。

ヌシとは、あくまでも信仰の対象であった。俺らはこの意味を把握しよう。俺らは同じ宗教を信仰しているからこそ、俺らは互いのヌシを信じ合える。

2節 大和民族と宗教人

 共通信仰 異教徒の大和民族は宗教人でない。

  宗教人とは、宗教における人間である。だから、宗教が異なるとき、宗教人も異なる。異教徒の大和民族は俺らについてにおける人間でない。だから、彼らは宗教人でない。

しかし、俺はこの2つのどちらも俺自身の復活と信仰しない。俺は俺の肉体や俺の視覚を人間の本質、つまり俺自身と信仰することに強烈な違和感を覚える。俺が俺自身や人間の本質を俺のヌシ(俺=俺のヌシ)と信仰する時、俺は俺の復活を違和感なく信仰できる。

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