人間

ジョン ローン https://bitex-cn.com
なぜヌシという単語が必要であるか
 この信仰では、俺らは俺のヌシや各自のヌシを信仰する。しかし、一部の信仰者は次の疑問を持つだろう。彼らはなぜ俺がヌシという単語を使用したのかと疑問に思う。彼らはヌシでなく、主体という単語を使用すれば十分であると感じるかもしれない。または、彼らはヌシという音の響きが和風である。だから、俺がその単語を使用したと憶測するかもしれない。しかし、俺は彼らの憶測と異なる認識を持つ。以下で、俺はなぜ俺がヌシという単語をわざわざ使用したかについて提示する。この信仰における信仰対象は「ヌシ」である。だから、俺らはヌシをきちんと対象化する必要がある。1:ヌシという単語の必要性 ヌシという単語は必要である。なぜなら、人間の大部分は「主体」を彼ら自身の肉体を誤認識している。または、彼らは彼ら自身の視界を誤認識している。彼ら自身の意識を誤認識している。だから、俺らはその種の誤認識をなくすために、「ヌシ」という単語を使用する。一般的に、俺らが主体という単語を使用するとき、俺らはその意味を「ヌシ」と約束する。つまり、主体は俺らの肉体や俺らの視界や俺らの意識でない。主...

 以下で、俺は人間を人工的に創造する。俺らはホモ・サピエンスと人間を異なる対象と捉える。ホモ・サピエンスは人間によって認識される対象である。人間は俺らのヌシによって信仰される主対象である。

ホモ・サピエンスの肉体は物質である。ホモ・サピエンスの視界や性欲や感情は蟲である。ホモ・サピエンスの肉体は車体に対応して、彼らの視界はカーナビの画面に対応する。

この項における創造という単語には、特別な意味が存在しない。読者の気をひくためになんとなく使用した。

1:人間とヌシそれ自体である

 共通信仰 俺らは人間をヌシと信仰する。

 上記で、俺は知覚や認識でなく、 ‘ 信仰 ‘ という単語を使用した。なぜなら、俺らはヌシそれ自体を知覚や認識できない。しかし、俺らは各自のヌシをなんとなく把握している。だから、俺は信仰という単語を使用した。

ヌシは知覚や認識されない。ヌシは俺らにとって信仰される主体や対象である。この信仰では、君はヌシを人間の本質を信仰する。つまり、人間の本質とは信仰される対象または主体である。

この時、俺らは人間とそうでない対象をきちんと区別できる。俺は信仰という単語を使用したが、ヌシに対する信仰と神に対する信仰は互いに異なる。なぜなら、俺らはヌシを把握できるが、神秘体験を経験しない限り、神を把握できない。

1:人間と自己とヌシ

 共通信仰 俺らはヌシを自己と信仰する。

 俺らは俺ら自身、つまり自己をヌシと信仰する。つまり、俺らは俺ら自身の肉体や視蟲を自己と信仰しない、認識しない。例えると、肉体が車体であり、視界がカーナビ画面、俺ら自身つまり自己が運転手である。

俺らはヌシと自己と人間を互いに区別する。なぜなら、世界がより分岐する時、分岐がヌシでない自己を創造するかもしれない。その時、自己=ヌシという等号は成立しない。

2:俺らの世界とヌシ

 俺らの世界では、ヌシは物質的世界や蟲的世界から最も分岐した主対象であった。この信仰の目的は分岐である。俺らが人間をヌシと信仰する時、その信仰行為は信仰の目的に適合する。だから、ヌシを人間と信仰する行為は正当である。

3:復活の主対象としてのヌシ

 もし君が人間の本質をヌシでなく、君の肉体や君の蟲(視蟲など)と認識するならば、たとえ君の子孫が君を復活させるとしても、君のヌシは復活されない。俺が復活したいのは俺のヌシであり、俺の肉体や俺の視蟲でない。

もし俺が俺の肉体を俺自身を知覚するならば、俺の復活とは俺の肉体の復活である。もしそうであるならば、人体を複製すれば、俺が復活したことになる。もし俺が俺の視覚(視蟲)を俺自身と認識するならば、平行宇宙を製造すれば、俺が復活したことになる。

しかし、俺はこの2つのどちらも俺自身の復活と信仰しない。俺は俺の肉体や俺の視覚を人間の本質、つまり俺自身と信仰することに強烈な違和感を覚える。俺が俺自身や人間の本質を俺のヌシ(俺=俺のヌシ)と信仰する時、俺は俺の復活を違和感なく信仰できる。

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