人誅

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 以下で、俺は人誅を創造する。俺は人誅がpenaltyかpunishmentかsanctionであるかを審判できなかった。だから、俺は人誅を誅として捉える。

バラバラの狩猟民族が人間社会を形成する時、損害を他者に与える人間が生じる。だから、君はその損害の賠償をその人間に要求して、刑罰をその人間に与える。刑罰の正当性は方法は文明や宗教によって異なる。

何が損害であるかも信仰によって認識される。この信仰では、君は刑罰を罰でなく誅と認識する。この信仰では、誅は他者の存在と損害を前提とする。さらに、損害は富にも関係する。

西洋文明は罪と罰の文明であった一方、東洋文明は礼と誅の文明であった。この信仰では、俺らは罰でなく、誅を採用する。

1:人誅刑罰観

 共通認識 人誅刑罰観とは、ヌシが人間の意志や怨念をその人間の代わりに現実世界に実現する刑罰観である。人誅とは、ヌシが人間の意志や怨念をその人間の代わりに現実世界に実現する人為である。

 人誅刑罰観では、俺らは神の下での裁きや罰でなく人間の意志を読み取りそれにしたがって罰を与える。罰の正当性は神の意志でなく個人の意志やなき意志(怨念)である。ヌシは物質的世界から分岐した分岐存在であるの、ヌシの意志を汲み上げることは正当である。

物質や動物には、明確な意志や怨念やヌシが存在しない。だから、たとえ俺らが損害をそれらに与えるとしても、俺らは彼らによって罰されない。日常的には、罰は損害に対して与えられる。しかし、この考えでは、物質や動物に対する損害が計算される時、俺らはその損害に対して賠償して罰されなければいけない。

しかし、俺らは森林破壊や地球温暖化に関して罰されるべきでないと強く感じる。なぜなら、森林は蟲やヌシを持たない。

1:人誅の正当性と分岐

 人間が罰を下す時、罰の正当性が問題になる。誰が誰をどの行為に関してどのような方法で罰するのが正当化である。この問題は物質的世界には存在しないので、人間が人工的に創造する必要がある。

一部の人間はそれを神に求めた。しかし、この信仰では、罰の正当性をヌシやその他の物質的世界から分岐した分岐物事に求める。要するに、俺らのヌシや蟲は物質的世界から分岐した存在であるので、それらが何かを罰することは正当であると認識する。

この時、俺らは神の存在なしに他者を罰することができる。ヌシが誰かの意志を物質的世界から汲み取って、他人を罰する。ヌシはヌシ的世界に住み、意志(状態)は蟲的世界の現象である。より分岐された存在(ヌシ)が物質的世界から分岐した状態(意志)を汲み取って誰かを罰するので、その行為は正当である。

2:物質的世界の劣等さについて〜背景〜

 経験則 たとえある対象が損害を君に与えるとしても、物質的世界は罰をその対象に自動的に下さない。俺らはこの状態を無誅状態と呼ぶ。俺らは無誅状態を非分岐状態と審判する。

 近代における西側の白人種は俺らモンゴロイド人種を虐殺、抹殺してきた。にも関わらず、彼らは物質的世界によって自動的に罰されてこなかった。俺はこの状態は正当でないと審判する。

なぜなら、物質的世界は劣等であり、不完全な世界である。だから、俺らは物質的世界の劣等さを憎悪して、絶滅させられたアメリカモンゴロイド人種に代わり、彼らの亡き意志を読み取り人誅を下す。人誅行為は不完全な世界の劣等さを穴埋めしてより良い世界を形成する。

俺らの蟲やヌシが分岐存在であるからこそ、俺らは劣等な物質的世界を穴埋めしてより良い世界を創造できる。自然界は劣等である。俺らはその自然界を憎悪する。

 たとえ君や君の家族が虐殺されるとしても、自然界は殺害者を自動的に罰さない。にも関わらず、自然界は地震や災害で君や君の家族を虐殺する。俺らは損害を俺らに与える物質的世界、つまり敵を憎悪する。

土人は自然界を美しいと賛美する。しかし、君は君や君の家族を虐殺してきた自然界を憎悪する。たとえ西側の白人は俺らモンゴロイド人種を虐殺するとしても、自然界は彼らを自動的に罰してこなかった。なぜなら、自然界とは君が最も憎悪すべき対象である。

自然界と呼ばれる物質的世界は劣等であるからこそ、俺らは人誅を対象に下して、幾分かマシで公平な世界を創造する必要がある。物質的世界の劣等さこそが人誅行為の背景である。もし物質的世界が劣等でなく、損害を与える対象に自動的に罰を下すならば、俺らは人誅という行為を実行する必要はない。

 しかし、現実はそうでない。だから、俺らは劣等な物質的世界と人間の意志の代わりに、人誅を下す。なぜなら、俺らは物質的世界と蟲的世界から最も分岐された主体である。

3:後始末及び現在及び未来における損害と人誅

 共通認識 損害応答人誅とは、ヌシが現在及び未来における損害に応答して人誅する人誅行為である。後始末人誅とは、ヌシが過去における行為または物事の後始末に応答して人誅する人誅行為である。

 俺らが刑罰の正当性を思考する時、俺らはいつ刑罰を下すかが問題になる。この信仰では、俺らは過去における行為及び物事と現在及び未来における行為に対する刑罰を区別して、思考する。

西洋では、彼らは文字と行為との不一致を利用して、罰を人間に下してきた。しかし、この信仰では、俺らは自己に対する損害を主に利用して、人誅を下す。

1:現在及び未来における損害と人誅

 対象が損害を俺らに与える、または与えるだろう時、俺らはその対象に人誅を下す。簡単に言うと、俺らが現在及び未来における脅威が存在すると認識した後、俺らはその対象に人誅を下す。

2:後始末と人誅

 俺らが刑罰について考える時、俺らは人間は過去における行為に関して罰されるべきであるかと思い巡らす。この信仰では、基本的に、俺らは過去における行為を罰しない。その代りに、俺らは後始末を彼らに義務的にさせる。

彼らはその義務を放棄する時始めて、俺らは人誅を彼らに下す。要するに、子供が部屋を荒らしたのに、片付けする義務を放棄するとき、俺らは人誅を子供に下す。もし子供が片付けする能力を持たないならば、俺らは代りに片付けを行う。

3:後始末人誅と責任

 俺らは後始末人誅にともなう後始末や責任を一切追わない。初期状態に戻す過程での犠牲や損害の賠償をしない。もし彼らが犠牲や損害を嫌うならば、彼らは後始末を彼ら自身でつける。

俺らがボケ老人のうんこを片付ける時、俺らはその片付けの過程で生じた損害や犠牲はそのボケ老人が負うべきであると審判する。俺らはボケ老人の行為の肩代わりをしてやってる。

例えば、南北アメリカの多様性は俺らモンゴロイド人種の一派の絶滅の結果である。俺らはその状態を悪いと判断して、初期状態に戻すべきであると審判する。もし俺らが後始末型を下すならば、その過程で大きな犠牲が生じるだろう。

しかし、俺らは犠牲や損害の賠償を行わない。もし人間が犠牲や損害を嫌うならば、彼らが彼ら自身で初期状態を形成すべきである。近代における西側の白人、特にイギリス人は紛争の種を世界中にばらまいてきた。

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