生死

https://www.instagram.com/manami84808/

 共通信仰 復活死生観とは、俺らが俺らの子孫が俺らのそれぞれのヌシの復活を実現する死生観である。

 上記の死生観はヌシの復活に対する信仰を与える。だから、上記の死生観は俺らの永続性を与える。その時、俺らは人間社会や文明を形成することの無意味さを排除することができる。

復活死生観はこの宗教の世界観と人間と目的から導かれる。普通に考えれば、俺らは復活できない。しかし、俺らは分岐世界観を信仰して、ヌシを信仰し、そしてこの宗教の目的を信仰する。

その時、俺らは俺らの子孫が俺らのそれぞれのヌシの復活を実現することができると信仰する。なお、ヌシの復活とは、無の世界からのヌシの再分岐である。

1節 復活死生観における生

 共通信仰 生とは、ヌシが蟲世界から分岐している状態である。

 俺らは俺らの生を上記のように信仰する。分岐世界観では、物は無から分岐して、蟲は物から分岐して、ヌシは蟲から分岐している。巴世界観では、物と蟲とヌシは3重に成立している。そして、今分岐世界では、物は今無から分岐していて、蟲は物から今分岐して、ヌシは蟲から今分岐している。

俺らは俺らの生という状態をこのように信仰する。つまり、俺らの生は俺らの世界という分岐世界観と巴世界観と今分岐世界から導かれる。

さらに、俺らは俺らの自己をヌシと信仰するので、俺らの生は宗教の人間からも導かれる。上記を言い換えると、生とは、ヌシという自己が蟲世界から分岐している状態である。もし俺らが新たな自己を分岐によって創造するならば、その時、生とは、その自己がヌシから分岐する状態になるだろう。

2節 復活死生観における死

 共通信仰 死とは、ヌシが蟲から分岐されなくなる状態である、または蟲が物から分岐されなくなる状態である、または物が無から分岐されなくなる状態である。

 俺らは俺らの死を上記のように信仰する。要するに、死とは俺らのヌシが分岐されなくなる状態である。この死の考えもまた俺らの生は俺らの世界という分岐世界観と巴世界観と今分岐世界から導かれる。

日常的には、俺らが交通事故にあう時、俺らの肉体は破壊されて、俺らは死ぬ。これを復活死生観における死を用いて解釈すると、次になる。

俺らの肉体の状態は正常でなくなった結果、俺らの蟲の分岐状態が破壊された。ヌシの存在は蟲の存在に依存しているので、蟲の分岐状態がなくなると、蟲の存在それ自体が失われる。蟲の存在がなくなると、ヌシの存在も分岐状態も蟲の存在に依存しているので、ヌシの分岐状態もなくなる。つまり、ヌシが存在しなくなる。

 復活死生観における死は、あくまでも、ヌシの蟲からの分岐である。つまり、死とは、ヌシの分岐状態の喪失であり、その状態がなくなると、ヌシが存在しなくなる、つまりヌシが死ぬ。

この意味での復活とは、一度、分岐状態が失われたヌシを再び分岐させることである。死や生がきちんと認識、信仰された後、復活という行為がきちんと認識、または信仰される。当然、復活の対象もきちんと定められるべきである。

3節 いつどこにどうやって復活?

 俺らは俺らのヌシの復活を信仰する。しかし、俺らは俺らのヌシをいつどこにどうやっていつ復活させるのかもわからない。だから、俺らは復活を信仰するが、何もわからないと言う。復活したヌシがどうやって復活したことを認識するのか、記憶はどうするのか。しかし、俺らはそれを信仰する価値のあるものと認識する。

俺らは俺らのヌシを復活させるために、俺らはいつと言う時間やどこにと言う場所(空間)について調べる。俺らは俺らのヌシを現在のような同一の世界に復活させるのか、または平行宇宙のような世界に復活させて、別々に生きるのかも決めていない。

もし俺らが争いの原因たる他者を嫌うならば、俺らは別々の世界に復活させて、二度と会わないようにした方が良いのかもしれない。

 また、俺らは俺らのヌシの復活を信仰するので、俺らは俺らの肉体や蟲を復活させる必要はない。現時点では、俺らのヌシは俺らの肉体や蟲なしに存在しない。その状態は俺らのヌシは蟲や物と言う畑なしには存在しないことに似ている。

しかし、復活の際には、俺らはヌシを純粋に取り出して、ヌシのみで魂や魂魄のように生きれるようにしたい。また、ヌシは蟲と一対一に唯一に対応しないので、現在の対応は奇跡的に思える。だから、俺らは俺らのヌシをどうやって復活させるのかも不明である。

加えて、俺らは今分岐世界を採用するが、俺らはいつのヌシを復活させるのかも不明である。例えば、今のヌシと昨日のヌシが一致することも、ヌシが信仰的な対象と考えれば、その一致自体も俺らによって信仰される。では、俺らは昨日のヌシを復活させるのか、現在のヌシを復活させるのか、それとも死ぬ前のヌシを復活させるのか、これらも不明である。

俺らがヌシの連続性を信仰するからこそ、自己の連続性とその復活を信仰できる。俺が言いたいことは、俺は死にたくない、そしていつか俺自身が復活したいである。しかし、俺は復活させるべき俺の主体が何であるかをいまいちよくわかっていない。信仰者は俺の意志を汲んで、復活を実現させる。