世界

 俺らについてでは、世界は分岐世界と巴世界と今分岐世界の和である。つまり、俺らの世界=分岐世界+巴世界+今分岐世界。以下で、俺は分岐世界と巴世界と今分岐世界を提示する。

1:分岐世界

 共通信仰 分岐世界とは、物質が無から分岐して、蟲が物質から分岐して、ヌシが蟲から分岐した世界である。

 多くの神話や宗教では、世界観の構築が重要であった。たとえば、神が世界を創造して、神が人間を創造した。または、人間は泥から生まれた、ビッグバン及び科学法則によって構成されたなどである。この信仰では、世界(物質的世界)も人間(ヌシ)も分岐によって生まれてきたと信仰される。

物質は機械に対応して、蟲は動物に対応して、ヌシは人間に対応する。その時、機械は無から分岐して、動物は機械から分岐して、人間は動物から分岐した。物質的世界の特徴は自動的(信用)であり、蟲的世界の特徴は自由であり、ヌシ的世界の特徴は義務的、実現的、または創造的である。

 蟲やヌシは後述する。世界とは、物質世界(自然界)の上に人工的に築かれる対象であった。この宗教では、俺らは世界を上記のように信仰する。

ただし、蟲やヌシが物質世界の上に人工的に築かれる対象であるかは不明である。蟲やヌシそれ自体はエネルギを持たないし、それらは物質でない。けれども、それら自体は知覚されないが、把握される。

実際、物質が無から分岐しているのか、蟲が物質から分岐しているのか、ヌシが蟲から分岐しているのかは不明である。物質が無に対応して、蟲が物質に対応して、ヌシが蟲に対応するのかもしれない。

 物質集合とは、物質を要素とする集合である。蟲集合とは、蟲を要素とする集合である。ヌシ集合とは、ヌシを集合とする要素である。

物質世界とは、物質集合と物質と決まりの組みである。蟲世界とは、蟲集合と蟲と決まり?の組みである。ヌシ世界とは、ヌシ集合とヌシと決まり?の組みである。ハテナの意味は、それぞれの世界の決まりが不明であるため。

1:物質世界と分岐

 現在の理論物理では、宇宙はビッグバンから始まったとされている。この宗教では、俺らはこの種の世界観を採用しない。俺らは物質は無から分岐したと信仰する。

ビッグバンでは、宇宙が過去でビッグバンして、宇宙が成長して、現在の宇宙になった。このように教わってきた。後述するように、俺らは今実行世界を採用するので、この種の世界観も採用しない。俺らは物質世界は無から今分岐していると信仰する。

言い換えると、俺らは物質世界は毎秒毎秒、無から分岐していると信仰する。無が何であるかは不明である。

2:蟲的世界と分岐

 蟲は視覚や聴覚や感情や性欲である。それら自体は科学的な対象でない。なぜなら、それらはエネルギを持たないし、人間の脳によって直接的に知覚されない。数理情報の正当な行為が明らかにするのは、物質世界がこの状態の時、意識や感情といったある種の蟲が対応することである。

俺らはこの状態を対応でなく、物質からの蟲の分岐と信仰する。感情や性欲という蟲は常には分岐していない。それらは不連続的な対象である。視界という蟲も睡眠によって不連続に分岐してきた。

蟲世界は物質世界と異なり、不連続に分岐する世界である。物質世界は連続的に無から分岐しているように感じる。物質世界も超局所的に見れば、蟲世界のように不連続に分岐しているのかもしれない。蟲世界は物質世界にほぼ一対一に対応する。

3:ヌシ的世界と分岐

 ヌシは俺ら自体である。ヌシは自己である。俺らはこの自己を蟲世界から分岐したと信仰する。ヌシそれ自体は蟲と異なり、物質世界に一対一に唯一に対応していない。

誰もなぜ俺の肉体や蟲に俺のヌシが宿ったのかを知らない。これが必然か、偶然か、神秘か不明である。俺らは自己それ自体を分岐された主体や対象と信仰する。

また、ヌシも不連続な主体や対象であり、毎秒ごとに蟲から分岐している。俺らは俺らのヌシが一貫性を持った一つのヌシであると信仰する。つまり、俺らの信仰が不連続なヌシに時間的な同一性を与える。

2:巴世界

巴世界

 共通信仰 物と蟲とヌシの組みである世界である。

 俺は組みと和と集まりの違いをうまく認識できなかった。ヌシと蟲と物は互いに足せないので、俺は和を除外した。俺が集まりを使用するとき、物と蟲とヌシが三重に同時に成立しているという印象を与えることができないと憶測した。だから、俺は組みを使用した。

例えると、巴世界とはこうである。俺らの肉体が車体(物)である。俺らの視界が車体の中のカーナビやホログラム(蟲)である。俺ら自身が車体の中の運転手(ヌシ)である。つまり、巴世界とは、車体とカーナビと運転手が同時に三重に成立している世界である。

俺らは物と蟲とヌシを明確に区別する。俺らはそれらを同じ物質と認識しない。簡単にいうと、俺らの世界は物質世界と蟲世界とヌシ世界という三重の世界である。

1:物質に対する認識

 共通信仰 とは、無から分岐している対象である。

 脳も一つの検出器と置く。日常的には、物質とは、エネルギを持つ対象である。または、物質とは、肉体や検出器によって検出される能力を持つ何かである。俺らはその能力の発現を知覚する。能力とその発現はほぼ一致しているかもしれないけれども。

また、肉体や検出器によって検出される対象は現在における物のみである。つまり、過去における物や未来における物は上記の意味での物でない。なぜなら、それらは検出器によって実際に検出されない。これは蟲やヌシにも応用される。

俺らは現在における物を拡張して、過去における物や未来における物を実際の対象をみなす。物とは、検出器によって検出される対象である。

2:蟲に対する認識

 共通信仰 とは、物から分岐している対象である。

 物が肉体によって知覚される時、蟲がその肉体に対応して生じる。蟲は肉体の内部にあるように感じる。この宗教では、俺らはその対応を分岐と信仰する。

蟲には、視覚や聴覚や味覚や痛覚や重力覚、制欲や感情が含まれる。記憶や脳内映像も蟲である。俺らのヌシは俺らの蟲を知覚するが、他者の蟲を知覚できない。

注意点として、君の視覚は君自身でない。ホモ・サピエンスのほとんどは彼ら自身の視界を彼ら自身と誤認識しているように見える。それはあくまでも車体におけるカーナビや車体の中のホログラムである。蟲はヌシによって知覚される対象である。

3:ヌシに対する認識

 共通信仰 ヌシとは、ヌシとは、蟲から分岐している対象である。

 主対象とは、主体と対象の総称である。ヌシとは、君の蟲を捉える君自身である。ここで、知覚運動?とは、ヌシが自己の蟲を捉える運動?である。はてなの意味はヌシそれ自体が運動しないことである。

物が脳によって検出された後、蟲が立ち上がる。ヌシはその蟲をほぼ自動的に捉える。俺らはその運動?を知覚と便宜的に呼ぶ。

俺らは自己のヌシを感覚的に把握できる。しかし、俺らは他者のヌシを直接的に把握できない。だから、俺らは他者のヌシを俺らのヌシから類推して把握する。ヌシとは、蟲を知覚する主対象である。

 なお、ヌシなき蟲が存在するのかは不明である。ただし、肉体が存在しないと、蟲が存在しないように、蟲がないとヌシが存在しないように感じる。脳が存在する時、蟲が発生して、ヌシも同時的に発生する。俺らはこれを分岐と解釈する。

ヌシと蟲との違いは次である。ヌシは肉体や蟲に一対一に唯一に対応しない。それに対して、蟲は肉体に対してほぼ一対一に唯一に対応する。日常的には、なぜ俺が俺であるかは誰にもわからない。

3:今分岐世界

共通信仰 今分岐世界とは、物と蟲とヌシが今分岐している世界である。

 実際に存在しているのは、現在における物である。蟲やヌシも実際に存在しているように感じるが、それらは科学的な対象でない。蟲やヌシが存在であるかも不明である。

過去や未来における物は現在における物や記憶から人為的に構成される。その時、俺らは過去における物や蟲やヌシが実際に存在したと把握する。

俺らは俺らの世界をyoutubeにおける動画のように毎日毎日投稿され続けていると信仰する。俺らの世界は今投稿されている。言い換えると、物と蟲とヌシは今現在分岐されている

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