人家と文明

 信仰とは、世界と人間と目的を持つ人家(system)である。以下で、俺はなぜ世界観と人間と目的をこの信仰に組み込んだかを述べる。俺らが異なる文明に接するとき、俺らは異邦人の世界観と人間観と人生の目的観が俺らと完全に異なることに気づく(ただし、日本人の大学教員を除く)。

1 世界観と文明

 俺らが敬虔なユダヤ教徒やキリスト教徒やイスラム教徒、あるいはインド人を見る時、俺らは彼らの生きている世界は俺らと完全に異なると感じる。その違いこそが文明の違いである。

一神教

 一神教では、この世界は創造主によって創造された。俺らの肉体も視界もウイルスも創造主によって創造された。この世界のあらゆる現象には、創造主の意志が関係している。

科学的世界観

 現在の世界観では、世界はビッグバンによって生じた。創造主はこの世界を創造していない。この世界には、創造主の意志は存在しない。

この世界はまるで機械のように自動的に運動する。これが科学的世界観である。この世界観はしばしば機械論的自然観と呼ばれてきた。

科学的世界観も一つの世界観である。科学的情報は科学的行為によって製造されてきた。もしある人間が科学的な行為に正当性を見出さないならば、その行為によって製造された情報もまた正当でない。

時間と世界観

 俺らは現在の物事の身を知覚できる。過去も未来も現在の状況から適切な推論によって復元される。しかし、俺らは過去→現在→未来という世界観を持っている。

2 人間と文明

 人間とホモ・サピエンスは互いに異なる。俺らが家畜を扱ったり、法律の適用対象を思考するとき、俺らは誰が人間であるかを定義する必要がある。ある種の教徒が異教徒を人間扱いしないのは、歴史的に自然である。

人間観の違いは文明の違いである。俺らがコーカサス人種に接する時、俺らは彼らの人間と俺らの人間観の違いに驚かされる。また、インドや中国のような巨大人口国家の人間観も俺らと異なる。

さらに、牧畜民と農耕民の人間観も異なる。牧畜民の人間観は人間を家畜と扱うような無慈悲な人間観である。

イスラム教

 俺の観察では、イスラム教では、イスラム教徒のみが人間である。

ユダヤ教

 俺の観察では、ユダヤ教では、人間とは彼らの創造主と契約した対象である。

キリスト教

 現在のキリスト教は人類愛を重視しているので、非キリスト教徒も人間扱いされているように思える。西側白人は黒人奴隷を所有した。なぜなら、彼らは黒人をホモ・サピエンスと定義したが、彼らは黒人と定義しなかった。

3 目的と文明

 物質的世界には、目的が存在しない。だから、人間の人生の目的は文明の違いによって異なる。俺らがコーカサス人種を見る時、俺らは彼らの生きる目的と俺らの生きる目的は非常に異なっていると感じる。それこそがまさに文明の違いである。

イスラム教

 俺の観察では、イスラム教徒のアラブ人は彼らの創造主の意志に沿って忠実に生きてきた。なぜなら、それが彼らの人生の目的である。

ユダヤ教

 俺の観察では、ユダヤ教徒の白人は彼らの創造主との約束に沿って生きてきた。なぜなら、それが彼らの人生の目的である。

仏教

 俺の観察では、仏教徒は修行によって悟りを開くことを目的としてきた。なぜなら、それが彼らの人生の目的である。

 

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