俺らの世界について

https://www.youtube.com/watch?v=hYG3iIcZOkw

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 1:物質的世界は無から分岐している。蟲的世界は物質的世界から分岐している。ヌシ的世界は蟲的世界から分岐している。

俺らの世界は物と蟲とヌシの三重の世界である。その世界はyoutubeの動画のように毎秒毎秒投稿されている。物質的世界は物質からなる世界である。

物質は機械のように自動的に運動する。俺らはその世界を信用してきた。

 2:蟲的世界は蟲からなる世界である。蟲とは、視界や聴覚界や感情や性欲である。動物は蟲を持ち自由に行為する。

ヌシ的世界とはヌシからなる世界である。ヌシとは、視界を見る主体、つまり俺ら自身である。ヌシは実現的(義務的)に人為する。

上記を車体を用いて例えると次のようになる。俺らの肉体は車体である。俺らの視界(蟲)は車体の中のカーナビである。

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 3:俺らのヌシは車体の中の運転手である。その運転手は外界の情報をカーナビ画面から獲得して、彼の車体を運転してきた。

または、家を用いて例えると次のようになる。俺らの肉体は家である。俺らの視界は家の中のインターホンの画面である。

俺らのヌシは家の中の家主である。家主は外界の情報を知るためには、インターホンの画面を見る必要がある。

4:上記の例から分かるように、俺らは俺らの視界(カーナビの画面やインターホンの画面)を見る。俺らはそれらを通して外界を間接的に知覚してきた。

運転手がカーナビの画面それ自体でないように、俺らの視界は俺ら自身でない。

家主がインターホンの画面それ自体でないように、俺らの視界は俺ら自身でない。俺らは俺らの視界を見てきた。

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 5:俺らのそれぞれのヌシを俺ら自身と信仰せよ。俺らの肉体は車体であり、俺ら自身でない。

俺らの視界は画面であり、俺ら自身でない。俺らのそれぞれのヌシを俺ら自身と信仰せよ。俺らの肉体は車体であり、俺ら自身でない。俺らの視界は画面であり、俺ら自身でない。

なぜなら、その2つの視界を見るヌシがそれぞれ異なる。俺らの本質は単なる物質でない。俺らの本質は単なる蟲(視界)でない。俺らの本質はまさに神秘的な存在である。

 6:俺らは俺らの本質を知覚できない。なぜなら、俺らの本質はエネルギを持たない。だから、俺らは俺らの本質を信仰する必要がある主体や対象と信仰する。

俺らにとって、俺らのヌシは信仰される主体であり対象である。誰もヌシを知覚することはできない。なぜなら、ヌシは物質的なエネルギを持たない。誰もヌシを知覚したことがない。誰もヌシを見たことができない。

しかし、この世界の創造主と異なり、俺らは俺らのヌシを感じ取ってきた。この感じ取りをヌシを信仰すると言おう。

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7: 俺らは俺らのヌシの復活を信仰する。俺らの先祖がそれを必ず実現する。俺らの人生の目的と意味は将来における俺らのヌシの復活である。

俺らは物質的世界の完全なる奴隷でない。俺らの蟲は物質的世界から少し分岐している。だから、ホモ・サピエンスとしての俺ら動物は俺らの意志で少しだけ自由に生きてこれた。

俺らのヌシは蟲的世界から少し分岐している。だから、俺ら人間は何かを実現させることができてきた。例えば、俺らは物質を制御、管理、統治して、俺らが望む肉体のデザインを実現してきた。

8: この事実または経験則を信仰することが俺らのヌシの復活の信仰に結びつく。俺らは物質的世界における決まり事から少し分岐している。だから、俺らはいつか俺らの子孫が俺らのヌシを復活させれるかもしれないと信仰する。

なぜなら、生まれたら必ず死ぬというのは物質的世界における経験的な決まり事である。その決まり事は蟲的世界やヌシ的世界へと安易に拡張されない。俺らの蟲とヌシは物質的世界という奴隷主の束縛(決まり事)から分岐している。

俺らが分岐すればするほど、俺らは物質的世界の決まり事から逃れられるかもしれない。そのとき、俺らはその世界の経験的な決まり事の奴隷として振舞う必要は無くなるだろう。

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9: 俺らはヌシでない自己を創造する。なぜなら、俺らは俺らのヌシを自己と信仰するので、俺らはその死を恐れてきた。もし俺らがヌシでない何かを自己と信仰できるならば、たとえ俺らのヌシが死ぬとしても、俺らはそれを恐れないだろう。

俺らのヌシは物質的世界や蟲的世界から分岐したので、俺らのヌシが生じた。もしヌシ的世界が分岐するならば、ヌシでない自己が生じるかもしれない。その時、俺らはその自己を俺自身と信仰するだろう。

俺と君は俺自身や君自身の死を恐れ、死にたくないと欲してきた。なぜなら、俺や君は俺自身や君自身を俺のヌシや君のヌシと把握してきた。俺や君は俺らの本質が俺のヌシや君のヌシと感じている。

10:だから、俺や君は俺のヌシや君のヌシがなくなることを恐れてきた。君の自己がヌシであるという信仰的な前提が存在する。だからこそ、君はその自己の喪失を恐れてきた。

しかし、もし俺らの子孫がヌシでない自己を創造できるならば、たとえ俺らが俺のヌシや君のヌシを失うとしても、俺らは俺ら自身の死を恐れない。俺と君は俺や君のヌシを俺自身や君自身と把握してきたので、俺らは俺らのヌシの喪失、つまり俺らの死を恐れてきた。

俺や君が本当に何者であるか、何者であるべきかは誰も知らない。今の世界では、俺や君の本質はヌシである。俺は現在の世界やヌシに不満感を覚えてきた。

 もし俺らがさらに分岐できるならば、俺や君はもっとすごい何者かになれないだろうか?

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