宗教

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 以下で、俺は新興宗教「俺らについて」の骨格を創造する。始めに、俺はこの宗教における宗教に対する俺の認識を提示する。その後、俺は世界観と人間と目的を与える。さらに、俺は死生観と性規範と富の規範と善悪と契約観と刑罰を与える。

0 はじめに

 以下で、俺はこの宗教における宗教への認識を提示する。以下では、俺らは人間社会や文明を形成する意志を持つと約束する。

宗教は人間社会の形成や文明の発生を人間に促す。もし人間が宗教や文明を持たないならば、人間社会や文明は形成されない。つまり、宗教の機能とは、人間社会の形成や文明の創造である。

もし俺らが建築物や家族や家族の目的を持たないならば、俺らは家を形成できない。同様に、もし俺らが世界と人間と目的を人工的に創造できないならば、俺らは人間社会を形成して、文明を創造できない。

1 宗教

 共通認識  宗教とは、世界と人間と目的の組みである。

 俺らはこの組みを宗教を呼ぶ。日常的には、俺らはこの組みを家と呼ぶ。家の例えを用いると、世界観は建物であり、人間観は建物の中の家族であり、目的は家族の目的(原動力)である。世界を宇宙と仮定すると、人間は物質であり、目的はエネルギ、または力である。

世界(世界観)

共通認識 世界とは、物質世界(自然界)の上に人工的に築かれる対象である。または、世界とは、人工的な対象である。

 何が物質世界であるかは宗教によって異なる。もし俺らが自然界の創造主を信仰するならば、俺らは物質世界それ自体もある種の創造主による人工的な対象である。一般的に、人工物とは、人間や創造主の意志が介在する対象である。人工的とは、意志が介在する状態である。

俺らは現在における物質世界のみを知覚できる。俺らはその物質から過去や未来を人工的に構成している。俺らが自然界を過去から現在、そして未来と捉えるとき、俺らは自然界に対するその認識それ自体が人間の意志が介在する人工的な対象であると認識する必要がある。

一般的に、自然界は知覚のみの対象である。自然界は痴呆老人が見ている日常に等しい。彼らは彼の息子を知覚できるが、その対象を彼らの息子と認識できない。認識によって生じる対象や認識それ自体はほぼ自動的な知覚運動と異なり、人間の意志が介在する。だから、その対象は世界である。

 日常的な具体例としては、言語や法律も(人工的な)世界である。加えて、人生の意味や目的、善悪や世界観や約束、お金も世界である。もし推論行為も計算行為も意志が介在する行為であるならば、それらは世界である。簡単に言うと、人間やその他の対象の意志が介在する対象の全てが世界である。もし創造主がエネルギをその意志で創造するならば、エネルギ自体も世界である。

人間(人間観)

共通認識  人間とは、自己それ自体である。

 自己は俺や主体とも呼ばれる。上記の世界と同様に、異なる宗教は異なる人間を与える。なぜなら、異なる宗教では、何を自己と定義するか、または信仰するかが異なる。

中世社会では、異教徒は人間でなかった。だから、彼らは単なるホモ・サピエンスや物体として虐殺された。人間はホモ・サピエンスでない。

 例えば、何を自己とするかは非常に難しい。昨日の俺(自己)は今日の俺と同じ自己か、そもそも、昨日の俺は自己であるか?俺は昨日の俺を知覚できない(世界参照)。さらに、俺が俺の自己を捉えるとき、俺と俺の自己の違いは何か?どちらが本当の自己か?自己の存在に気づく俺(自己)とは何か?

また、俺の肉体が俺の自己なのか、俺の視界が俺の自己なのか。それとも、俺の肉体と俺の自己の和が俺の自己なのか?日常的には、「自分とは何?」である。

宗教は自己だけでなく、他者も与える。他者は宗教によって与えられる自己を応用して、与えられる。

目的

共通認識 目的とは、信仰者(俺ら)が実現するべき主体及び対象の存在及び状態及び行為である。

 俺らの経験則によると、物質世界には、人生の意味も人生の目的も存在しない。そのために、異なる宗教は異なる目的を持つ。宗教によって、信仰者が実現すべき状態や行為が明確に異なる。

ある宗教はこの世界の創造主の意志を実現させることをその目的とするだろう。実現すべき状態や行為が異なるとき、当然、法律のあり方も宗教によって異なる。一般的に、目的が異なる時、善悪や法律のあり方や国家や文明のあり方、そして人間存在のあり方も異なる。

目的は存在や状態や行為への善悪も導く。男女平等や人種平等が実現されるべきかは宗教が与える目的によって異なる。

家(system)としての宗教

 宗教に対する異なる捉え方として、次が存在する。俺が集合と要素と決まりの組みを家(system)と呼ぶ。俺はその家を家=(集合、要素、決まり)のように置く。

俺が決まりを目的に置き換えるとき、宗教は擬似的な家になる。例えば、家systemには、運動競技や国家や物質世界が存在する。運動競技は競技場(集合)と選手(要素)とルール(決まり)の組みであり、国家は領土(集合)と国民(要素)と法(決まり)の組みである。そして、物質世界は宇宙(集合)と物質(要素)と自然法則(決まり)の組みである。

このように、俺らが宗教を運動競技や国家のようなある種のsystem(家)とみなすとき、俺らは宗教を感覚的に把握できる。俺らは宗教を物質世界に関連づけれる。この認識では、宗教とは、物質世界というsystem(家)の上に人工的に創造された人工世界(人工system、または人工家)である。

2 宗教機能

共通認識 宗教機能とは、死生観と性規範と富の規範と善悪と契約と刑罰の集まりである。

 宗教のみは現実世界や実際の世界で正常に機能しない。例えば、たとえ俺が建物と家族と目的を獲得するとしても、もし俺がお金の規範や性規範を持たないならば、その家は借金し放題や浮気しほうだいとなり正常に機能しない。

その家族は崩壊する。同様に、たとえ俺が宗教を創造するとしても、もし俺らが宗教を実際に正常に機能させる何かを与えないならば、その宗教は正常に機能しない。その宗教は生存競争に弱くなり、淘汰される。

従って、俺は宗教を実際に機能させる何かを宗教に付け加える必要がある。そこで、俺は上記の宗教機能を宗教に付け加えて、宗教を実際に機能させる。機能宗教とは、宗教機能を持つ宗教である。

死生観

 共通認識 死生観とは、自己の死及び他者の死に対する認識状態、または信仰状態である。

 言い換えると、死生観とは、信仰者が自己の死及び他者の死を認識している、または信仰している状態である。自己の死に対する認識は他者の死に対する認識に一致しない。自己や他者は上記の「人間」によって認識、または信仰される。

例えば、イスラム教やキリスト教では、彼らは死後の天国や審判を信仰する。そこでは、彼らは永遠の命を獲得するのかもしれない。東洋では、東洋人は彼らの子孫の繁栄を願う。

たとえ彼ら自身が死ぬとしても、彼らは自己でなく子孫の永続性を願う。彼らは自己の子孫を自己と認識、または信仰する。一般的に、死生観は永続性を自己や自己の子孫に与える。信仰者はその永続性を信仰する。

性規範

 共通認識 性規範とは、対象の性に対する存在及び状態及び運動に対する認識状態、または信仰状態である。

 性に対する存在及び状態及び運動は、具体的には、恋愛や性行為や結婚や家族、出産や子孫、強姦などである。言い換えると、性規範とは、信仰者が性に対する存在及び状態及び運動を認識している、または信仰している状態である。簡単にいうと、性規範とは、生殖や性の在り方に関する物事の規範である。

例えば、キリスト教では、性は汚いものとして忌避されている様に見える。この考えから、会社や政治組織での性規範(コンプライアンス)が導かれる。その宗教では、結婚とは、個人間の愛と契約で定義される。そして、同性愛は罪である。

一方、東洋世界では、結婚は個人間の愛や契約でなく、家同士のつながりや情によって結ばれる。加えて、東洋人における結婚は子孫の繁栄を非常に重視する。

 宗教や文明は家族の在り方をしばしば与える。なぜなら、家族は持続可能な人間社会や文明の基本的な構成単位である。性規範は家族の正当な在り方を提示する。

富の規範

 共通認識 富の規範とは、富に対する認識状態、または信仰状態である。

 言い換えると、富の規範とは、信仰者が富を認識している、または信仰している状態である。「富を認識している」とは、信仰者が何が富であるか、信仰者が富をどの様に認識しているかである。

例えば、キリスト教や仏教では、富は汚いものとして忌避されている。ユダヤ教では、富はその様に考えられていない様に見える。また、俺の記憶では、イスラム教は利子を取らなかったかもしれない。

また、何を富とするかも宗教や文明によって異なる。当然、富はお金のみでない。俺が俺の肉体を車体と仮定するとき、俺は俺の肉体を俺自体から分離させて、それを動産や機械の様な富と認識することができる。つまり、俺自身が俺の肉体を俺の一次的な車体をとして所有していると認識する。

 富の規範は所有や土地の所有行為を認識させる。加えて、富の規範は何が利益であり、何が損害であるかも認識させる。人種や宗教が異なるとき、何が名誉を侵害するかも異なるように、何が利益であり、何が損害であるかも異なる。

善悪観

 共通認識 善悪観とは、対象の存在及び状態及び運動の判断に対する認識、または信仰である。

 言い換えると、善悪観とは、信仰者が対象の存在及び状態及び運動の判断を認識している、または信仰している状態である。日常的には、善悪観は何を善や悪とするか、何にレッドカードを出すかである。物質世界には、善悪、つまりレッドカードが存在しない。だから、人間がそれを人工的に作る必要がある。

例えば、西洋文明では、善悪観は善悪二元論である。彼らは自己を善と置き、他者を悪と置いて、断罪する。東洋文明では、善悪観は陰陽一体である。そこでは、陰と陽が大局的な秩序を形成している。

また、人間がレッドカードを他者の存在や状態や行為に提示するとき、人間は善悪をだす根拠を必要とする。西洋では、その根拠は罪であり、東洋では、その根拠は礼である。西洋では、殺人行為は罪な行為であるので、レッドカード。東洋では、殺人行為は無礼な行為(または非礼)であるので、レッドカード。

契約観

 共通認識 契約観とは、自己及び他者との約束に対する認識、または信仰である。

 言い換えると、契約観とは、信仰者が自己及び他者との約束を認識している、または信仰している状態である。日常的には、契約感とは、人間が他者との約束をどのように捉えるかである。他者との約束には、言語や単語の定義や法律、そして会話作法まで広く存在する。

例えば、アブラハム系宗教における契約観は、まるで自然法則や機械に対するプログラムや戒律のようである。そこでは、この世界の創造主の命令は絶対である。信仰者はその命令に逆らえないので、機械のように運動する必要がある。まるで物質が自然法則に逆らえないように。

信仰者は機械のように運動するので、彼らは相互的に信用してきた。加えて、彼らの契約には、他者や契約の意味が存在しない。一方、東洋人はその種の契約観を持たない。彼らは相互的な信頼関係や自己の認識を優先する。

刑罰観

 共通認識 刑罰観とは、刑罰に対する認識、または信仰である。

 言い換えると、刑罰観とは、信仰者が刑罰を認識している、または信仰している状態である。日常的には、刑罰とは、正当な手続きを持つ罰である。それに対して、罰はお仕置きである。あるいは、罰は制裁や懲らしめである。

例えば、西洋キリスト教の刑罰観は人道や慈悲が重視される。それに対して、イスラム教やユダヤ教や東洋文明の刑罰観はそうでない。当然、人種や文明や宗教が異なるとき、ホモ・サピエンスが何が正当な刑罰であるかを求める。

刑罰が何かを知りたいとき、俺らはイスラム教徒の落伍者とメキシコマフィアの殺害を比較する。前者はイスラム法に沿って捕虜を殺害する。それに対して、メキシコマフィアは彼らの気分で殺害する。前者は処刑に見える一方、後者は単なる殺害である。

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