ヌシ

俺らの信仰

ヌシと車体の関係について

 以下で、俺はヌシと車体の関係について提示する。俺らの蟲は俺らの物に依存的である。例えば、目の色は俺らの蟲に対応しているように思える。 しかし、俺らのヌシは俺らの肉体や蟲に対応していないように感じる。実際、たとえ俺らが同じ並行宇宙を無限個作り出すとしても、俺らのヌシは重複してないように感じる。たとえ俺らが世界を一度滅亡させた後、俺らは同じ世界をまた創造するとしても、生じたヌシが同じヌシであるかは誰にもわからない。 つまり、俺らのヌシは俺らの肉体や蟲から導かれないように思える。言い換えると、俺らのヌシは俺らの肉体や蟲に全く対応していない。 1章 偶然と必然と奇跡  俺らは今分岐世界を採用する。だから、俺らは世界が今現在分岐されていると信仰する。世界が存在するのは偶然であるのか、必然であるのか、または奇跡か、確率的であるのかは不明である。しかし、俺らは物質の存在と蟲の存在とヌシの存在のあり方が異なると感じてきた。 物質と蟲の間には、ほぼ一対一の関係があるように思える。それは再現可能性が存在するように思える。俺らがある物質世界における状態を用意する時、蟲世界は...
俺らの信仰

ヌシは自己であり、人間でない

 以下で、俺はヌシに関する誤解を提示する。信仰者の一部はヌシを人間と信仰する。しかし、この宗教では、ヌシは現時点での自己である。 1:ヌシと自己  共通信仰 ヌシは現時点での自己それ自体である。つまり、ヌシは君の自己である。ヌシは俺の自己である。 誤解  ヌシは人間でない。人間とは、ホモ・サピエンスと人(人間性)の組みである。それは日常的な意味での国家の要素になる。 それに対して、ヌシは俺ら自身である。ヌシはホモ・サピエンスでない。だから、ヌシは人間でない。 ヌシは日常的な意味での国家の要素に無関係である。ヌシはあくまでも自己である。ヌシは君自身、君の自己である。 異教徒とヌシ  一部の宗教では、異教徒は人間でないと信仰される。この宗教では、俺らはこの種の人間観を採用しない。しかし、俺らは異教徒はヌシでないと信仰する。 2:復活の対象としてヌシ  共通信仰 ヌシは復活の対象である。  この宗教では、俺らはヌシを復活させる。復活の対象は人間でない。 3:さらなる自己  共通信仰 ヌシは現...
2020.07.14
俺らの信仰

ヌシの性質

 以下で、俺はヌシの性質について提示する。なお、その性質の一部は蟲にも一般化される。ここでは、主体と対象の総称を「主対象」と便宜的に置く。 ヌシは俺らのヌシによって信仰される信仰的な存在である。だから、ヌシに関する以下の性質も信仰的な性質である。 1:ヌシの性質 色  ヌシは色を持たない。俺の肉体は色を持つ。俺らはこれを「ヌシの無色性」と呼ぶ。 形  ヌシは形を持たない。俺らの肉体は形をもつ。俺らはこれを「ヌシの無形性」と呼ぶ。 質量  ヌシは質量を持たない。俺らの肉体は質量を持つ。俺らはこれを「ヌシの無質量性」と呼ぶ。 体積  ヌシは体積を持たない。俺らの肉体は体積を持つ。俺らはこれを「ヌシの無体積性」と呼ぶ。 エネルギ  ヌシはエネルギを持たない。俺らの肉体はエネルギを持つ。その結果として、俺らの眼や脳はそのエネルギを知覚(感知)する。俺らはこれを「ヌシの無エネルギ性」と呼ぶ。 2:ヌシの性質その2 現在性  ヌシは現在のみに存在する。俺らはこれを「ヌシの現在性」と呼ぶ。 連続性 ...
2020.07.03
俺らの信仰

ヌシと人間の本質に関する誤解

 俺らは人間の本質を重視する。しかし、一つの勘違いが存在する。それは信仰者がヌシを人間の本質と誤認識することである。 以下で、俺はヌシと人間の本質に関する誤認識を提示する。 1:ヌシと人間の本質  誤認識 ヌシが人間の本質である。左の文は間違いである。  ヌシは人間の本質でない。以下で、俺らはそれについて学ぶ。 ヌシは対象それ自体  ヌシは対象それ自体である。俺らは陣の要素としての人間をヌシと信仰する。そこでは、ヌシは人間それ自体である。 それに対して、人間の本質は対象に一対一に唯一に対応する「人間の性質」である。ヌシはタンスそれ自体であり、ヌシ(人間)の本質がタンスの引き出しに対応する。 2:ヌシは人間か  共通認識 ヌシは宗教における人間である。しかし、ヌシは一般的な意味での人間でない。その一般的な意味は人間とは、ホモ・サピエンスと人の組みである。  宗教とは、世界(集合)と人間(要素)と目的(決まり)の組みである。この人間は普通の意味での人間でない。だから、俺らはこの人間を「人素」と便宜的に置く。 また、...
2020.07.03
俺らの信仰

なぜヌシという単語が必要であるか

 この信仰では、俺らは俺のヌシや各自のヌシを信仰する。しかし、一部の信仰者は次の疑問を持つだろう。彼らはなぜ俺がヌシという単語を使用したのかと疑問に思う。 彼らはヌシでなく、主体という単語を使用すれば十分であると感じるかもしれない。または、彼らはヌシという音の響きが和風である。だから、俺がその単語を使用したと憶測するかもしれない。 しかし、俺は彼らの憶測と異なる認識を持つ。以下で、俺はなぜ俺がヌシという単語をわざわざ使用したかについて提示する。この信仰における信仰対象は「ヌシ」である。だから、俺らはヌシをきちんと対象化する必要がある。 1:ヌシという単語の必要性  ヌシという単語は必要である。なぜなら、人間の大部分は「主体」を彼ら自身の肉体を誤認識している。または、彼らは彼ら自身の視界を誤認識している。彼ら自身の意識を誤認識している。 だから、俺らはその種の誤認識をなくすために、「ヌシ」という単語を使用する。一般的に、俺らが主体という単語を使用するとき、俺らはその意味を「ヌシ」と約束する。つまり、主体は俺らの肉体や俺らの視界や俺らの意識でない。 主...
俺らの信仰

物順序と蟲順序とヌシ順序

 以下で、俺は原因と理由を拡張して信仰者向けに、順序の概念を提示する。 共通認識  共通認識 物順序とは物質的世界における物質の物事の順序である。蟲順序とは蟲的世界における蟲の物事の順序である。ヌシ順序とはヌシ的世界におけるヌシの物事の順序である。 1 物順序  物順序とは物質的世界における物質の物事の順序である。原因は物順序である。物質の運動の順序は物順序である。 2 蟲順序  蟲順序とは蟲的世界における蟲の物事の順序である。理由は蟲順序である。蟲順序は動物社会における順序である。 例えば、ある人間が恋人を憎んで殺した。憎しみは情蟲であるので、愛という蟲の発生→(出来事の発生)→憎しみという蟲の発生→車体の殺すという運動という流れが存在する。 3 ヌシ順序  ヌシ順序とはヌシ的世界におけるヌシの物事の順序である。ヌシ順序は人間社会における順序である。例えば、宗教的な殺害行為の場合、俺らはその人為を蟲順序と物順序を持って説明できない。 宗教的な殺人では、信仰者は殺人行為を人為的に実現させる必要がある。しかし、彼らはその対...
2020.05.18
俺らの信仰

ヌシの下車

 俺らが俺らの肉体を車体と仮定する時、俺らのヌシは運転手に対応する。現実世界では、俺ら運転手は車体から降りることができる。しかし、俺らのヌシは俺らの肉体から降りれない。 俺は俺の肉体から降りてみたい。封神演義では、魂魄は女媧の身体から抜けて自由に動いていた。同様に、俺らは俺らのヌシを俺らの肉体から抜け出させることができないのだろうか? 1:ヌシの下車  共通信仰 ヌシの下車とは、ヌシが彼の肉体から出て?、ヌシまたはヌシ及び蟲が単独で存在する状態である。  上記では、俺は出てという動詞を使用した。この動詞が適切であるか不明である。印象的には、ヌシが俺らの肉体に依存せず、束縛せずに、動き回れるか。 運転手は車から降りて自由に動き回れる。しかし、俺らのヌシは俺らの肉体から降りて自由に動き回れない。なぜこの種の違いが生じるか誰にもわからない。 2:ヌシの下車の実現  正当な肉体の操縦 俺らはヌシの下車を実現させる。  この信仰の目的は、俺のヌシの復活である。俺は物質的世界に延々と束縛されたくない。 1:問題点は記憶  俺らが...
2020.05.19
俺らの信仰

ヌシ所有的富観

 狩猟民族が人間社会を形成するとき、商業やお金に関する規範が形成されてきた。富に関する規範はお金の概念や所有行為や交換行為を君に与える。もし君が富の規範を持たないならば、君はお金や所有行為を認識できない。 例えば、アメリカ大陸は俺らモンゴロイド人種の所有物であるが、この所有行為もこの信仰によって正当化される。この信仰では、ヌシが君の肉体と君の蟲を直接的に所有して、君の肉体が物体を間接的に所有する。 アメリカ先住民や日本人の学者気取りは社会性を持ってこなかった。その結果、彼らは領土やお金の概念を認識できてこなかったので、領土を奪われて虐殺された。一般的に、狩猟民族は社会性を持たないので、彼らは所有の概念をもっていない。 1:ヌシ所有的富観  共通認識(または信仰) ヌシ所有的富観とは、ヌシが肉体を含む物体及び蟲を直接的に、または間接的に所有する状態である。ヌシ所有とは、ヌシが肉体を含む物体及び蟲を直接的に、または間接的に所有する行為である。  ヌシの存在それ自体が信仰の産物である。俺は俺はヌシ所有富観を認識または信仰と認識または信仰する。一般的に、人々...
2020.03.02
俺らの信仰

分岐とヌシの復活(蘇り)〜信仰の目的〜

 これは「ヌシの復活」と「分岐大原則」に関連した項である。  この信仰の目的は ' 分岐 ' と俺の ' ヌシの復活 ' である。その後、復活された俺のヌシが君らのヌシを復活させる。以下で、俺はなぜこの信仰の目的を分岐と復活と信仰したかを提示する。 この信仰の世界観は分岐世界観と巴世界観である。信仰の目的が分岐であるとき、その目的はこの信仰の2つの世界観にうまく合う。さらに、分岐はヌシの復活に俺らが信仰するに値する何かを感じさせる。 1:背景〜俺らは本当に死に続けるのか?〜  全ての人間は死んできた。俺の両親も君の両親も死んできた。そして、俺らの子孫も死ぬだろう。しかし、俺らは死にたくない。死ぬのが怖い。俺らは永遠に生きたいと渇望してきた。 一部の宗教家は人間は永遠に生き続けると主張した。彼らの主張に対して、科学者はその主張は間違いであると応答した。なぜなら、これまでの経験によると、全ての人間は死んできた。 もしxが君のヌシであるならば、xは確実に死に続けるだろう主対象である。この論理は永久不変であるだろうか?この信仰では、俺らはそのように信仰しな...
2020.03.02
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