運転手(魂)について

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 この宗教では、俺はヌシを把握する。俺は自己をヌシと信仰する。しかし、たとえ俺がヌシという単語を使用するとしても、信仰者はその単語を把握することができないだろう。なぜなら、ヌシは俺の造語であり、人々にとって馴染みがない。

そこで、俺はヌシを運転手と言い換える。この時、信仰者はヌシに対する感覚を掴めるようになる。以下では、俺はその運転手について述べるつもりである。

観察

 俺はこの世界を観察する時、俺は次を把握する。俺は物質を知覚する。俺は視界や性欲や感情を感じる。俺は運転手を把握する。俺が俺の肉体を車体と喩える。この時、俺の視界は車体の中のカーナビ画面やホログラムや仮想現実に対応する。俺の運転手は車体の中の運転手に対応する。宗教的な喩えでは、俺の肉体は神殿に喩えられる。俺の視界は神殿の中のホログラム映像に喩えられる。俺の運転手は神殿の中の創造主や魂に喩えられる。

つまり、俺は3種類の互いに非常に異なる世界を把握する。1番目は物質の世界である。2番目には、視界を含む意識の世界である。3番目には、運転手の世界である。上記の例えでは、物質の世界は車体の世界に対応する。意識の世界は車体の中のホログラム映像の世界に対応する。運転手の世界は車体の中の運転手に対応する。

近代科学の発達により、人々は魂を否定しているように見える。その一方で、彼らはホモ・サピエンスの意識を否定しない。または、現代におけるホモ・サピエンスは意識それ自体を魂と感じてるように見える。しかし、俺がこの世界をよくよく観察する時、俺は上記のように3種類の互いに異なる何かを捉えていることに気づく。俺がその運転手を魂と呼ぶ時、俺は魂それ自体を把握する。もし俺が運転手それ自体を把握するならば、俺は魂それ自体を把握している。

3つの世界

・上記では、俺は3つの世界を把握した。俺はそれぞれの名前をその世界に名付ける。俺は物質の世界を「物質世界」と呼ぶ。俺は視界を含む意識の世界を「意識世界」と呼ぶ。俺は運転手の世界を「運転手世界」と呼ぶ。または、俺は意識世界を「像世界」と呼ぶ。あるいは、俺は意識世界を「感覚世界」と呼ぶ。

物質世界

 物質世界には、物質が存在する。物質は近代科学で分析される。例えば、水は物質である。火は物質である。土は物質である。雷は物質である。空気は物質である。木は物質である。遺伝子は物質である。俺の肉体は物質である。実際の車も物質である。物質はエネルギを持つ。物質は運動する。俺は物質を知覚することができる。正確には、俺は物質を感覚器官で検出することができる。この知覚の主体は運転手でなく、物質である。

意識世界

 意識世界には、意識(像)が存在する。意識それ自体は近代科学では分析されない。例えば、視界は意識である。聴覚の世界は意識である。嗅覚の世界は意識である。味覚の世界は意識である。痛覚の世界は意識である。感情は意識である。性欲は意識である。像で言い換えると、視界は像である。感覚で言い換えると、視界は感覚である。

意識それ自体は物質でない。意識それ自体はエネルギを持たない。一部のホモ・サピエンスは意識を物質から分離させることができない。例えば、俺は俺の視界という意識(像)を見ている。俺が俺の肉体を車体と仮定する時、俺の視界は車体の中のホログラム映像である。ホログラム映像それ自体が車体でないように、視界を含む意識それ自体は物質でない。

俺は意識それ自体を認識することができる。正確には、俺は像を間接的に知覚している。なお、その認識や知覚の主体は運転手である。個人的には、俺は物質を検出して、意識(像)を知覚している。そして、俺は知覚された像をさらに認識する。例えば、痴呆老人は知覚された息子を息子と知覚することができるが、息子を息子と認識することができない。

運転手世界

 運転手世界には、運転手が存在する。運転手それ自体は近代科学では分析されない。運転手は物質でない。運転手は意識でない。俺が俺の肉体を車体と仮定する時、運転手は車体の中のホログラム映像でも車体それ自体でもない。現時点では、運転手には、視界や性欲のような種類は把握されていない。

俺は運転手それ自体を検出も知覚も認識もすることができない。けれども、俺は運転手を自分自身で把握する。または、俺は運転手を自分自身で感じ取っている。俺は運転手を感じ取る主体が何であるのかわからない。俺は創造主を把握することができないが、俺は運転手を実際に把握する。

3つの世界の関係

 次に、俺は物質と意識と運転手の関係について述べるつもりである。感覚的には、俺の肉体が俺の意識を生み出し、俺の意識が俺の運転手を生み出しているように感じる。または、俺の肉体が俺の意識と俺の運転手を生み出しているように感じる。しかし、俺はこの種の感覚を必ずしも正当と認識しない。

俺は対応と原因と分岐を考えるつもりである。対象aと対象bが存在する時、俺はある関係をその間に考えることができる。対応は関係である。原因も関係である。分岐も関係である。それぞれの関係は向きを持つ。

俺は対象aと対象bが連動しているとき、俺はある対応が対象aと対象bの間に存在すると仮定する。ある対象aがある対象bの原因であるとは、その対象aがその対象bをその対象aの力(意志)で創造する現象である。

対応関係

 俺の意識は俺の肉体に対応している。特に、俺の意識は俺の脳に対応している。なぜなら、俺が睡眠したり、気絶したり、麻酔するとき、俺の意識は一時的に停止する。俺の脳が破壊されるとい、俺の意識も破壊されるだろうと予想される。

また、俺の運転手も俺の意識、または俺の肉体に対応している。同様に、俺の意識が睡眠や気絶や麻酔で一時的に停止するとき、俺の運転手も一時的に停止する。俺の脳が破壊される時、俺の意識も破壊されて、俺の運転手も破壊されるだろうと予想される。このように、俺の運転手と俺の意識と俺の肉体は互いに連動している。上記を使用するとき、もし俺の肉体が死ぬならば、俺の意識も死ぬだろう。もし俺の意識が死ぬならば、俺の運転手も死ぬだろう。または、もし俺の肉体が死ぬならば、俺の意識及び俺の運転手は死ぬだろう。

経験的には、俺の意識の固有性は俺の肉体の固有性にほぼ一対一に(ほぼ一意的に)対応しているように感じる。一方、俺の運転手は俺の意識に一対一に対応していない。例えば、もし俺が青い目を持つならば、俺の視界は黒い目を持つホモ・サピエンスの視界と異なる。しかし、その青い視界や黒い視界が俺の運転手の固有性に対応しているのかは不明である。

原因関係

 次に、俺は俺の肉体が俺の意識の原因であるのか、必要な対象であるのかを考える。もし俺の肉体が俺の意識の原因であるならば、物質が意識(像)を何らの力x(意志x)で創造している。物質が物質でない意識(像)を未知の力(意志)で創造している。創造主が物質を無からその意志(力)で創造しているような状態である。また、俺の肉体が俺の意識の存在に必要な対象であると仮定する。この時、たとえ俺が俺の意識に必要な対象の全てを用意するとしても、もし意志(力)が存在しないならば、俺の意識は生じない。

同様に、俺は俺の意識が俺の運転手の原因であるのか、必要な対象であるのかを考える。もし俺の意識が俺の運転手の原因であるならば、意識(像)が運転手を何らの力y(意志y)で創造していることになる。俺の意識が俺の運転手の存在に必要な対象であると仮定する。この時、たとえ俺が俺の運転手の存在に必要な対象の全てを用意するとしても、もし意志(力)が存在しないならば、俺の運転手は生じない。つまり、俺の運転手が俺の意識や俺の肉体の結果として生じているのかは不明である。俺の意識が俺の肉体の結果として生じているのかは不明である。

例えば、科学や数学は電子計算機を製造するために必要である。しかし、科学や数学は電子計算機の原因でない。電子計算機の原因は人間集団の意志である。だから、たとえ俺が電子計算機の製造に必要なすべての対象を用意するとしても、もし意志が存在しないならば、電子計算機は存在しない。また、水や土地や富は人間社会の形成のために必要である。しかし、水や土地や富は人間社会の形成の原因でない。人間社会の形成の原因は人間の意志である。だから、たとえ俺が人間社会の形成に必要なすべての対象を用意するとしても、もし意志が存在しないならば、人間社会は存在しない。

分岐関係

 この宗教では、俺は俺の意識は俺の肉体から分岐して、俺の運転手は俺の意識から分岐していると信仰する。経験的には、俺の意識は肉体に対応して、俺の運転手は俺の意識に対応している。俺の肉体と俺の意識と俺の運転手の関係はx軸とy軸とz軸のような関係である。x軸とy軸とz軸が直行や平行などの何らかの対応(関係)を持つように、俺の肉体と俺の意識と俺の運転手の状態は何らかの対応(関係)を持っている。そのx軸とy軸とz軸は互いに連動しているが、一方(x軸)がもう一方(y軸)の原因でない。x軸とy軸とz軸が原点から分岐しているように、俺の肉体と俺の意識と俺の運転手は原点?から分岐している。俺は俺の肉体と俺の意識と俺の運転手の関係をこのように信仰する。

当然、たとえ俺の意識が俺の肉体から分岐するとしても、なぜ意識がこのような存在として分岐したのかは不明である。別の存在としての意識が生じた可能性もあるだろう。同様に、たとえ俺の運転手が俺の意識から分岐するとしても、なぜ運転手がこのような存在として分岐したのかは不明である。別の存在としての運転手が生じた可能性もあるだろう。もし創造主の存在を仮定するならば、その創造主が俺の意識をこのように創造することを目的と設定して、その目的を実現(達成)するためにその意志(力)を発現させただろう。この場合、なぜ俺の意識や俺の運転手がこのような存在であるのかが説明される。または、俺が「偶然(確率でない)」を使用する時、俺は俺の意識や俺の運転手がこのような存在として生じたのかを説明することができる。

しかし、たとえ俺が偶然を使用するとしても、もし俺が俺の意識や俺の運転手を創造した意志(c力)の有無を説明しないならば、偶然だけでは不十分である。何の意志(力)も存在しなかったが、俺の意識や俺の運転手が自然発生的に生じて、かつ偶然にも俺の意識や俺の運転手がこのような存在として生じた。生物が自然発生的に生じるとは、自然界が生物をその力のみで創造したことである。その場合、生物の創造は理論物理における力のみによって綺麗に説明される。同様に、もし俺の意識や俺の運転手が自然発生的に生じたならば、俺の意識や俺の運転手は理論物理における力のみ、つまり自然界の力によって綺麗に説明される。

運転手の性質

 以下では、俺は運転手の性質について提示する。運転手は物質でも意識でもない。運転手は物質の性質を持たない。

基本的な性質

 運転手はエネルギを持たない。運転手は自己の形を持たない。運転手は自己の要素を持たない。運転手は自己の部分を持たない。運転手は自己の色を持たない。運転手は自己の広がり(体積)を持たない。運転手は自己の質量を持たない。

運転手の位置は肉体の中であるように感じる。特に、運転手の位置は脳であるように感じる。運転手は現在のみに存在する。運転手は分割されない。運転手は過去と現在、そして未来で連続的であるのか不明である。また、睡眠や気絶や麻酔の前後で、運転手が連続的であるのか不明である。

運転手の運動は不明である。運転手の状態は不明である。運転手は存在しているように感じる。運転手は自己の記憶を持たない。運転手が何らかの法を持つのかは不明である。現時点では、運転手の性や運転手の種類は不明である。運転手が老化するのかは不明である。

思考の規範

 以下では、俺は俺の肉体と俺の意識と俺の運転手に関する思考の規範を提示する。もし俺の運転手が運転手世界に存在するならば、俺の意識が意識世界に存在する。もし俺の運転手が運転手世界に存在するならば、俺の肉体が物質世界に存在する。ただし、「もし俺の意識が意識世界に存在するならば、俺の肉体が物質世界に存在する」という思考の規範は正しいのか不明である。

逆の推論は俺の経験に反する。もし俺の肉体が物質世界に存在するならば、俺の意識が意識世界に存在する。この推論は睡眠や気絶や麻酔に反する。なぜなら、その時、第3者から見ると、俺の肉体は存在するが、俺の意識や俺の運転手は一時停止している。または、起床の後に、俺は俺の脳内の記憶を読み取り、俺は俺の肉体は存在していたが、俺の意識は停止いていたと知る。ただし、「もし俺の意識が意識世界に存在するならば、俺の運転手が運転手世界に存在する」という思考の規範は正しいのか不明である。

他者の運転手

 俺は他者の運転手を直接的に把握することができない。感覚的には、他者は俺と同じ肉体を持っているので、他者も俺と同じような運転手を持っていると感じている。しかし、この感覚が成立するためには、次の推論が必要である。もし他者aの肉体が肉体世界に存在するならば、他者aの運転手が運転手世界に存在する。上記でも述べたように、他者aの肉体は他者aの運転手の原因でない。

自己に対しては、もし俺の運転手が存在するならば、俺の意識が存在する。もし俺の運転手が存在するならば、俺の肉体が存在する。これらが成立する。そして、もし俺の肉体が存在するならば、俺の意識が存在する。俺はこれらの推論を相手へと拡張しない。その代りに、俺は他者による上記の推論の伝達を求める。その時、他者は上記の推論を彼らの言葉で俺に伝達する。その伝達から、俺は他者の運転手を他者の言語を通じて間接的に把握する。この場合、俺は相手の運転手の存在を相手の外部から推論するのでなく、相手による相手の運転手の自己伝達で間接的に把握している。

動物の運転手

 動物は彼ら自身の脳を持っている。この時、俺は動物も彼らの意識と彼らの運転手を持っていると推論したくなる。ただ、動物は彼ら自身の言葉を持たないので、彼らの意識の存在と彼らの運転手の存在を俺へと伝達することができない。そのため、現時点では、もし動物aの肉体が物質世界に存在するならば、動物aの意識が意識世界に存在する。もし動物aの肉体が物質世界に存在するならば、動物aの運転手が運転手世界に存在する。もし動物aの意識が意識世界に存在するならば、動物aの運転手が運転手世界に存在する。俺はこれらのように推論する必要がある。しかし、この推論が正しいのかは物質に関する手法では証明されない。

また、動物の運転手が存在するとき、動物の運転手が俺の運転手と(種類として)等しいのかは不明である。感覚的には、俺は俺の運転手は動物の運転手と異なると感じている。なぜなら、俺の肉体は動物の肉体と遺伝的に異なる。しかし、この感覚が成立するためには、「もし動物の肉体が俺の肉体と異なるならば、動物の運転手は俺の運転手と異なる」が必要である。経験的には、「もし動物の肉体が俺の肉体と異なるならば、動物の意識は俺の意識と異なる」が成立するように見える。

感覚的に、俺は俺の運転手はホモ・サピエンスの運転手と(種類として)同じであると感じる。当然、俺の運転手はホモ・サピエンスの同じでない。つまり、運転手には、種類が存在して、その種類は肉体によって分類される。俺はこのように感じる。この思考の規範が成立するためには、「もし動物の肉体が俺の肉体と遺伝的に同じならば、動物の運転手は俺の運転手と同じ」と「もし動物の肉体が俺の肉体と遺伝的に同じならば、動物の意識は俺の意識と同じ」が必要である。

時間

 上記では、俺は俺の運転手と俺の意識と俺の肉体に関する分岐関係を信仰した。さらに、俺は俺の運転手は俺の意識から「今現在」分岐していると信仰する。俺の意識は今現在俺の肉体から分岐している。俺の運転手は俺の意識から今現在分岐している。または、俺の運転手と俺の意識は今現在俺の肉体から分岐している。俺はこのように信仰する。

俺の肉体が俺の母から生まれた後に、俺の運転手はその時点から現在まで同一であるように感じる。この場合、俺の運転手が一度分岐した後、その分岐が継続されてきた。この感覚は日常的である。けれども、俺はこの感覚を宗教的には採用しない。俺の運転手は俺の意識から今現在分岐している。俺は俺の肉体の連続性を知った後、俺は俺の運転手の同一性を推論している。俺はこのように信仰する。

もし俺の肉体が連続的であってきたならば、俺の運転手は時間的に同一的であってきた。俺はこの推論を暗に採用している。正確には、俺の運転手は俺の脳から記憶を取り出して、その記憶を俺の肉体の過去と認識する。その後、俺は現在の肉体と過去の記憶を照合して、俺は過去と俺の肉体

の連続性を認識している。さらに、その時間的な連続性から、俺は俺の運転手の時間的な連続性を推測している。しかし、俺はこの種の推論を必ずしも採用しない。俺の運転手それ自体は自己の記憶を持たない。俺の運転手は過去に一度分岐されて、現在まで継続してきたのでなく、俺の運転手は俺の意識から「今現在」分岐している。

空間

 俺の運転手がどこに住んでいるのかは不明である。しかし、俺の運転手は俺の意識に連動している。俺の運転手は俺の肉体に対応している。上記では、俺は3つの世界、物質世界と意識世界と運転手世界を提示した。この宗教では、俺は俺の運転手は運転世界に住んでいると把握する。正確な表現では、俺の運転手は運転手世界に存在する。より正確には、俺の運転手は運転手世界に所属している。俺の運転手は俺の肉体の中には存在しない。俺の運転手は俺の意識の中には存在しない。

俺の運転手の位置は俺の肉体に対して把握される。正確には、俺の運転手の位置は俺の脳に対して把握される。ただし、俺の運転手それ自体は俺の脳の中に住んでいない。俺の運転手は俺の意識の中に住んでいない。多くの神話では、人々は神々が住む場所を考えた。同様に、俺は俺の運転手が住む場所を考える。俺は俺の意識が住む場所(所属)を考える。それらの場所は俺の肉体でない。それらの場所は物質世界でない。ここでは、俺は位置と場所を異なる対象として考えた。

 上記では、俺は俺の運転手が性を持つのか不明であるとの述べた。しかし、次の推論を使用する時、俺は運転手の性別を考える。「もし動物の肉体が俺の肉体と異なるならば、動物の運転手は俺の運転手と異なる」。もしホモ・サピエンスの雌の肉体がホモ・サピエンスの雄の肉体と異なるならば、ホモ・サピエンスの雌の運転手はホモ・サピエンスの雄の運転手と異なる。

つまり、運転手にも、雌の運転手と雄の運転手が存在する。魂にも、雌の魂と雄の魂が存在することなる。運転手には、動物に関する種類だけでなく、性に関する種類も存在することになる。

運転手と信仰

 以下では、俺は運転手に関する俺の信仰を提示する。

信仰原理

 俺は2つの信仰原理を持つ。一番目には、俺は自己の運転手を把握している。この宗教では、俺らはこの把握それ自体を信仰する。二番目には、俺は自己をその運転手と信仰する。つまり、この宗教では、俺は自己の運転手を把握して、かつその運転手を自己と信仰する。俺が運転手を魂と置き換えるとき、俺は自己の魂を把握して、かつその魂を自己と信仰する。

あるホモ・サピエンスが自己の肉体を自己と感じる。その他のホモ・サピエンスは自己の意識を自己と感じる。他にも、ある種のホモ・サピエンスは白人の夫やニューヨークや国家、自然界や数学、科学書や研究対象である太陽を自己と感じる。このように、何が自己であるのかはホモ・サピエンスに応じて異なるように見える。だから、この宗教では、俺は何が自己であるのかを明確に約束する。俺は自己の肉体を自己と信仰しない。俺は自己の意識(像)を自己と信仰しない。俺は自己の運転手を自己と信仰する。

上記では、俺は自己の運転手を把握すると述べた。俺は信仰するという単語を使用しなかった。なぜなら、俺は創造主を信仰することは俺の運転手を信仰することと異なると感じた。俺の運転手は俺の肉体に対応している、または俺の運転手は俺の肉体を基盤としている。一方、創造主は自然界(またはこの世界の全て)を創造した。だから、創造主はこの世界の外に存在する。そして、創造主はこの世界には対応しない。創造主はこの世界を基盤としない。俺はそのような創造主を実際の存在として把握することができない。俺は創造主を把握しないが、創造主を実際の存在として信仰する。当然、もし俺が自然界における力を創造主による意志の発現と認識するならば、俺は創造主を間接的には把握するかもしれない。

復活

 この宗教では、俺は俺の復活を信仰する。しかし、俺は俺の車体や俺の意識の復活を信仰しない。俺は俺の運転手の復活を信仰する。なぜなら、この宗教では、俺は俺の運転手を自己と認識する。俺の運転手の復活がこの信仰の目的の一つである。

俺は俺の運転手をいつどこに復活させるのかをよくわかっていない。俺の子孫が俺の運転手をいつか復活させることを実現する。俺はその時刻をt(time)と置く。次に、俺は俺の運転手をどこに復活させるのかを考える必要がある。俺はその場所をs(space)と置く。個人的には、俺は俺の運転手をより分岐された世界に復活させて欲しいと感じる。その世界は現在の物質世界及び意識世界及び運転手世界から分岐した世界である。

より分岐された自己

 俺は俺の運転手を自己と信仰する。この宗教では、この運転手は俺の肉体や俺の意識から分岐していると信仰される。この時、俺は次のように推論する。もし俺がより分岐された世界を創造したならば、俺は新たな自己を獲得するかもしれない。つまり、もし俺の自己が分岐によって生じたならば、既存の世界の分岐が新たな自己を創造するかもしれない。この宗教では、俺は新たな自己の創造の実現をこの宗教の目的とする。

その場合、その自己が何を把握する主体であるのかも不明である。現時点では、俺の運転手は俺の肉体や俺の意識を感じている。俺の運転手は視界や聴覚や性欲や感情を感じる主体である。感覚的には、視界や聴覚や性欲や感情が意識世界に存在するので、主体がそれらを把握するために存在するように感じる。だから、もし主体が分岐されるならば、主体が捉える対象も新たに必要になるように思える。その時、運転手世界がより分岐された主体によって把握されるかもしれない。

自由意志

 もしこの世界の全てが機械的であるならば、この世界の全ては完全に自動的に運動する。しかし、俺は動物以上の運動は完全には自動的でない認識する。さらに、俺は人間の運動は完全には自動的でなく、かつ実現的(目的的)であると認識する。自動的な運動は離散的でなく連続的である。哺乳類はより自動的でない。微生物やウイルスはより自動的である。鳥類や爬虫類はその中間である。物質は完全に自動的に運動しているように見える。実現的な運動に関しても同様であり、ホモ・サピエンスのごく一部(男性)が最も実現的に運動している。子供や雌や雄は完全には機械的には運動しないが、実現的にも(目的にも)運動しない。

この宗教では、俺は上記の認識を次のように信仰する。俺の意識は物質世界から分岐したので、俺の意識は物質世界における決まりには完全に従わなくなった。俺の意識は完全には自動的に運動しなくなった。その自由な意識に対応(連動)して、俺の肉体も完全には自動的に運動しなくなった。さらに、俺の運転手は俺の意識からより分岐しているので、俺の運転手は実現的に運動するようになった。その実現的な(目的的な)運転手に対応(連動)して、俺の肉体も俺の意識も実現的に運動するようになった。俺は分岐を使用して、このように信仰する。

たとえある創造主が俺の意識をその意志(力)で創造するとしても、もしその創造主がある種の目的をその意志で実現するつもりであるならば、俺の意識は物質の自動的な運動と同じである。しかし、俺の意識は物質世界から分岐しているので、俺の意識は物質世界の創造主による物理法則(決まり)に奴隷として服従する必要は無くなった。たとえある創造主が俺の意識をその意志(力)で創造したとしても、その創造主は俺の意識を物質世界から解放した(押し出した)だけであるのだろう。これは創造主による運転手の創造に関しても同様である。たとえある創造主が俺の運転手をその意志(力)で創造するとしても、もしその創造主がある種の目的をその意志で実現するつもりであるならば、俺の運転手は物質の自動的な運動と同じである。

俺らについて