coherentの日本語訳が整合性であるかは不明である。俺が大和民族の発言行為を見るとき、彼らは整合性(おそらくcoherent)それ自体を認識できないと審判する。例えば、彼らはキリスト教徒でないのに、クリスマスや男女平等に賛成する。
彼らはカタカナやひらがなや漢字をごちゃ混ぜにして使用する。彼らは西洋建築と東洋建築をごちゃ混ぜにして立ててしまう。彼らの行為の全ては整合的でない。大和民族は、理論物理学者や数学者ですら整合性それ自体を「認識」することができない。
以下で、俺は何が整合性(coherent)であるかを提示する。矛盾に関する単語には、consistentとcoherent、contradictionが関係するように思える。整合性には、uniformやsystemにも関係しているように見える。
1章 整合的とは?
俺の認識 整合的であるとは、ある対象が自己のみから構成されている状態である。
整合的であるとは、ある対象が自己のみから構成されている状態である。整合的であるためには、俺らは自己と非自己を明確に区別する必要がある。ある対象の自己と非自己が明確に区別されて、その対象が自己の身からなる時、その対象の状態は「整合的」である。
一方、整合的でない(非整合的)とは、ある対象が自己と非自己から構成されている状態である。日常的には、整合的でないとは、ごちゃごちゃ、めちゃくちゃ、つぎはぎ、はちゃめちゃな状態である。例えば、大和民族は欧米の都合の良い意見をでたらめに取り入れて、日本社会や日本国を作ろうとしてしまう。その状態はまさに「非整合的」である。
ある対象が整合的であるとき、その対象は統一性、または均質性(uniform)を持ち、きちんとしたsystemとして機能している。整合性がないとき、systemは非自己を持つので、きちんと機能しないように見える。
1節 簡単な具体例
簡単な具体例を提示してみよう。俺らは建築における整合性や宗教における整合性を後で提示する。そのほかには、運動競技における整合性や言語における整合性、そして理論における整合性が存在する。
運動競技における整合性とは、ある運動選手が自己の運動競技と非自己の運動競技を明確に区別できている状態である。例えば、卓球選手がサッカーのルールを持ち出して、彼らがサッカーをいきなり競技しない事である。言語における整合性とは、一つの(中心的な)自己からなる文字や文法を使用する事である。
理論における整合性とは、例えば、数学における理論と理論物理(その他工学や医学や政治理論)における境界をある程度はっきりと定める事である。数学と物理では、無限に対する取り扱いが完全には同じでないように見える。また、政治理論を数学に持ち込むことは整合的であることを破壊する行為である。
2章 建築における整合性
俺らが中東建築や地中海建築や西洋建築を観察する時、俺らは整合的であるとは、何であるかを感じることができる。中東建築や地中海建築や西洋建築は非常に整合的であり、整合性を重視するコーカサス人種的(男性的)である。一方、モンゴロイド人種の建築は、(中国の一部をのぞいて)全く整合的でない。
1節 中東建築
上記の建築はおそらくサマルカンドのモスクであり、イスラム建築である。上記を見るとき、俺らはその建築は非常に「整合的」であると感じるだろう。例えると、上記の建築は理論物理や数学的な世界に対する何かに少し似ているように感じる。おそらく、共通点は「整合的」であることだろう。
上記の画像は美しい色と形と材質、そして反復的な幾何学を持っている。建設者はこの建築を構成する時、彼はイスラム的であるもの(自己)とそうでないもの(非自己)を明確に区別した後、彼は上記の建築を作ったように思える。だからこそ、上記の建築は「整合的」になった。
俺の印象では、上記の建築は青を重視している。形は円と長方形+とんがり部分、そして材質は石(大理石?)で統一されている。幾何学的には、反復や繰り返しや対称性が使用されている。模様も特徴的である。彼らにとって、その色とその形、そしてその材質は彼らの自己であったのだろう。
逆に、非自己とは木材や正方形や非対称性、赤や黒が非自己である。上記の建築には、これらの非自己がないので、整合的に見えるように感じる。
2節 地中海建築
左の建築はおそらくイタリア建築である。キリスト教と古代ギリシアと古代ローマ建築の影響があるらしい。俺らが左の画像を見る時、俺らはサマルカンドのモスクと似た感覚を抱くだろう。その感覚が整合性である。
上記の画像は美しい色と形と材質、そして反復的な幾何学を持っている。建設者はこの建築を構成する時、彼は地中海的であるもの(自己)とそうでないもの(非自己)を明確に区別した後、彼は上記の建築を作ったように思える。だからこそ、上記の建築は「整合的」になった。
俺の印象では、上記の建築は白を重視している。形は球面の上の部分と長方形、とんがり部分、そして材質は大理石?で統一されている。幾何学的には、イスラム建築ほど、反復や繰り返しや対称性が使用されていないように見える。長方形+とんがりや長方形+球面の上の部分であるように見える。彼らにとって、その色とその形、そしてその材質は彼らの自己であったのだろう。
逆に、非自己とは木材や正方形、青が非自己である。上記の建築には、これらの非自己がないので、整合的に見えるように感じる。また、銅像の存在がイスラム建築との違いである。
3節 西洋建築
左の建築はおそらくフランスの宮殿の建築である。フランスの建築は欧州と地中海が入り混じっているような建築である。俺らが左の画像を見る時、俺らはサマルカンドのモスクや上記のイタリア建築と似た感覚を抱くだろう。その感覚が整合性である。
上記の画像は美しい色と形と材質、そして反復的な幾何学を持っている。建設者はこの建築を構成する時、彼は欧州的であるもの(自己)とそうでないもの(非自己)を明確に区別した後、彼は上記の建築を作ったように思える。だからこそ、上記の建築は「整合的」になった。
俺の印象では、上記の建築(の内部)は「黄金」を重視している。感覚的には、これは非常に豪華(ゴージャス)であるという印象を与える。透明なシャンデリアや黄金が使用されている。床の模様は反復的である。
逆に、非自己とは木材や正方形、青や白が非自己である。上記の建築には、これらの非自己がないので、整合的に見えるように感じる。
4節 整合性のない例(日本)
上記の画像は日本列島の上の建築である。上記を見ればわかるように、上記の建築には、まるで整合性がない。一見すると、上記の建築には「統一性や均質性(uniform)」がないように見える(しかし、上記の建築には「整合性」が存在しない。uniformは左の画像。
上記のゴミには、色に関する整合性が存在しない。彼らは自己の色と非自己の色を区別できないので、彼らはでたらめや気分でほとんどの色を使用してきた。赤や青や黄色や灰色が使用されてきた。
また、形には、縦長という「統一性」はかろうじて存在する。けれども、俺は大和民族は長方形を自己として認識していないように見える。また、文字の大きさも文字の整合性(ひらがなとカタカナと漢字)も存在しない。上記の理由には、いつくか存在する(善悪の欠如など)が、自己が定まっていないことが上記の整合性の欠如の理由である。
大和民族は彼らの人工的な自己を認識できない。だから、彼らは彼らの好き嫌いででたらめにゴミを積み上げる。その結果、上記のような巨大なゴミが生まれてくる。自己が定まっていないので、自己と非自己を区別できないので、彼らは好き嫌いで色や形を「自由に」取捨選択する。彼らはそれが自由主義であり、文明的で錯覚している。
3章 宗教における整合性〜思考の整合性〜
では、なぜコーカサス人種の建築は整合的であったのか?なぜなら、コーカサス人種の思考それ自体が「整合的」であった。上記の建築は整合的な建築から生まれてきた。
コーカサス人種は「整合性」に非常に執着するので、彼らは上記の建築や宗教、そして理論物理や数学理論を形成できてきたのだろう。以下で、俺らは宗教的な整合性を見てみよう。
1節 メルケルのシリア難民の受け入れ
メルケル首相はシリア難民を大量に受け入れた。その結果、ドイツはイスラム化するか、欧州は滅亡するだろう。東洋人の大部分は彼らはバカでないのかと感じた。しかし、彼らは宗教的な整合性を重視するので、メルケルの行為は非常に整合的であった。
彼らは整合的であることや文字(創造主との言葉)との一致を真理と認識するので、彼らの行為は彼らの世界では真理であった。たとえ欧州が滅亡するとしても。メルケルは人道や寛容や慈悲、人権を優先した。なぜなら、彼らの行為はキリスト教的には整合的であった。
メルケルだけでなく、一般的に、西洋人の思考は上記の建築のように整合的である。彼らは宗教的な整合性に非常にこだわる。だから、彼らは政治活動においてもキリスト教的な整合性を持った行為やユダヤ教的な整合性を持った行為を優先させる。その結果、彼らの政治運動は宗教的な整合性を持つある種の運動競技として成立している。
2節 コロナ・ウイルスにおけるイタリア人聖職者
イタリアでは少なくとも50人の司祭が、新型コロナウイルスによって死亡したとされる。
ローマ教皇庁の教皇フランシスコは24日、亡くなった医師や司祭のための祈りを先導し、「病める者に尽くすことで英雄的な手本となったことを神に感謝」すると述べた。
カトリック教会イエズス会のアメリカ人神父ジェイムズ・マーティン司祭はツイッターで、「(信者たちが自分のために買ってくれた)人工呼吸器を自分より若い患者に(知らない相手に)譲った72歳のベラルデッリ神父が、亡くなった」と書き、「友のために命を投げ出すほど大きい愛はない」という新約聖書のヨハネによる福音書の言葉を引用していた。
https://www.bbc.com/japanese/52029836
一見すると、上記の司祭も病人に近づいて死んだので、愚かであるように見える。しかし、彼らの行為もまた整合的である。彼らにとって重要なことは彼らの行為が宗教的に整合的であることである。
俺はキリスト教に無知であるが、彼らの行為はキリスト教的には整合的であるのだろう。だから、彼らは創造主との言葉との一致と思考の整合性から、彼らの行為は正当であると認識した。
3節 大和民族の理論物理学者
上記は天才物理学者の大和民族であるらしい。しかし、俺が彼の発言を見た後、悪い意味でモンゴロイド人的であると感じた。彼の思考もまた上記の日本の建築と同じであり、それは「整合的」でない。俺の印象では、彼は彼の感情や好き嫌いでキリスト教的な男女平等に賛成している。
俺が彼の宗教をざっと調べたところ、彼は仏教徒と対談していた。俺の印象では、彼はキリスト教徒でない。にも関わらず、彼はキリスト教的な男女平等に賛成しているが、その行為は宗教的に整合的でない。キリスト教における男女平等や人種平等の平等はおそらく「創造主の下では皆平等」からきているように見える。
白人は思考の「整合性」を重視するので、彼らは選挙権を黒人や女性に「平等に」を与えた。彼らはキリスト教的な整合性を重視してきたからこそ、男女の数ですら平等にしようとしている。しかし、大栗はキリスト教ですらないのに、彼は男女平等に賛成してい、それを日本国へと持ち込もうとする。彼の思考は整合的でなく、実に「アジア的(モンゴロイド人的)」である。
もし大栗がキリスト教徒でないならば、男女平等が彼の「自己」でない。だから、彼はそれに賛成するのは整合的でない。俺は彼の宗教を知らないけれども(無宗教の意味は無文明)、もし仏教徒であるならば、彼は仏教的な概念から男女平等を整合的に肯定する必要がある。
俺の勝手な印象では、大栗は「自己」それ自体を持っていない。だからこそ、彼は上記の日本建築のように、平等や公平といった概念を彼らの好き嫌いで自由に選択している。その結果、彼の思考は整合的でなくなり、スラム街的思考になる。
最後に、俺の印象を提示する。大栗は「自己の宗教」を持っていないので、「自己の善悪」すら持っていない。彼は整合的な思考を実行するための手段それ自体を持っていない。なぜなら、彼には、(人工的な)自己が存在しない。彼の思考は、整合性がどうという前に、自己がないので、建物を建てる前の状態にあるように見える。
上記の呟きもそうであるが、彼らは整合性それ自体を認識できない。だから、彼らは西洋の好きなところを自己と非自己を思考せずに取り入れようとする。彼らはそれが寛容や多様性と考えている。彼らはまるで卓球選手がサッカーの常識やルールを取り入れようとするように、彼らは西洋の好きな部分のみを取り入れようとする。その結果、上記のようなゴミが生じる。
上記の大栗も立川も自己の宗教や文明を持っていない、けれども彼らは文明や宗教に関する正確で豊富な知識を持っているので、俺は彼らの知識に驚かされる。しかし、彼らは自己の宗教や文明を認識できないので、彼らは整合的でなく、出鱈目である。
実際、彼らは彼らの行為が日本国憲法におけるキリスト教的な罪の概念によって罰されていることに違和感を覚えない。なぜなら、彼らは自己の宗教や文明それ自体を認識できない。もしサウジやイスラエルのイスラム教徒やユダヤ教徒のコーカサス人が仏教や儒教における概念によって罰されるならば、彼らはその状態を解除しようとするだろう。
日本の宗教とはこうあるべきだな。宗教の教義や理屈などを抜きして、とにかく触ると病気がなんとなく治り、なんとなく皆でわーっと楽しんでですね、なんとなく前向きな気分になれる、挨拶で気分が明るくなるみたいなね、そういうのが日本の宗教の一般的なものなのかなと、日本のよくあるおばちゃん向け宗教に対して、宗教としての合理性やあるいは聖典の確実性とかね、そういうことを聞いた私が野暮であった。
https://www.youtube.com/watch?v=pE5PC57I61c