この宗教では、俺らはホモ・サピエンスの雄の一部の肉体のみにヌシ(運転手)の存在を信仰する。俺らは運転手の存在をホモ・サピエンスの雌の肉体の中に信仰しない。このとき、俺らは父から息子へと運転手の連続性に関する問題を抱える。
父のヌシと息子のヌシの連続性
父の車体と息子の車体の連続性
父の車体と息子の車体の連続性:俺らは父の車体と息子の車体が連続的であると知覚する。
俺らは父の車体と息子の車体が連続的であると知覚する。日常的には、俺の父の肉体は俺の肉体と科学的に(自然界では)連続している。より正確には、もし自然界における物質の運動が連続的であるならば、俺の父の肉体は俺の肉体と科学的に(自然界では)連続している。
父の肉体が自然界の中に存在して、父の精子が母の卵子と子宮で結合して、俺の受精卵が生じる。その受精卵が発生して、俺の肉体が自然界に存在する。日常的には、この流れは物質的にも運動的にも連続的である。
父の蟲と息子の蟲の連続性
父の蟲と息子の蟲の連続性:俺らは父の蟲と息子の蟲が連続的でなく離散的であると信仰する。
俺らは父の蟲と息子の蟲が連続的でなく離散的であると信仰する。例えば、俺の父の視蟲は俺の視蟲と連続的ではない。例えば、俺の父の肉体から精子が放出されて、俺の母の卵子と結合して受精卵になる時、精子も卵子も受精卵も蟲(視蟲)を持っていない。
なぜなら、精子も卵子も受精卵も脳を持っていない。だから、俺の父の車体と俺の車体は物質的には連続しているが、俺の父の蟲と俺の蟲は連続的でなく、断絶があり離散的である。
父のヌシと息子のヌシの連続性
父のヌシと息子のヌシの連続性:俺らは父のヌシと息子のヌシは連続的でなく離散的であると信仰する。
俺らは父のヌシと息子のヌシは連続的でなく離散的であると信仰する。もし物質的世界が連続的であるならば、父のヌシと息子のヌシは遺伝的に、物質的には連続している。父の肉体には、ヌシ(運転手)が存在している。けれども、父の精子には、ホムンクルスのような小人のヌシ(運転手)は存在していない。
ホモ・サピエンスの雌の肉体(畑)の中で、精子と卵子が結合すると、息子や娘が発生して、雌の肉体(畑)から生まれてくる。息子が生まれた場合、息子の成長に伴い、運転手(ヌシ)が成人した息子の肉体の中にはっきりと存在し始める。この経過を運転手(ヌシ)の観点から眺めると、父の運転手(ヌシ)→父の精子→息子の出産→成人時の息子の運転手(ヌシ)の発生。「→父の精子→息子の出産→」の部分には、運転手(ヌシ)が存在していない。
まとめると、父から息子への運転手は連続的でなく、離散的である。一般的に、先祖から子孫は連続的につながっているように感じる。けれども、俺らはヌシ(運転手)を主体(自己)と信仰するとき、先祖から子孫への何らかの連続性を把握することができない。