以下では、俺らは動物のヌシ(運転手)について思考する。俺らは「ヌシは動物には存在しない」と「動物のヌシは人間のヌシと異なる」と「動物のヌシは人間のヌシに等しい」を考えることができる。
ヌシは動物には存在しない
信仰その1:ヌシは動物には存在しない。ヌシはホモ・サピエンスの雄のごく一部のみに存在する。
ヌシは動物には存在しない。ヌシはホモ・サピエンスの雄のごく一部のみに存在する。視蟲のような蟲は動物の肉体の中?に存在する。しかし、ヌシは動物には存在しない。
言い換えると、動物という車体には、運転手は存在していない。しかし、動物にはおそらく視界が存在する。だから、動物の肉体の中には、カーナビの画面は存在している。「ヌシは動物には存在しない」という信仰には、現実的な思考と宗教的な思考が存在する。
還元的な思考
この信仰1では、俺らはヌシの存在を肉体(遺伝子)と基盤とすると信仰する。不思議なことに、ホモ・サピエンスの雄、または雌雄のみがヌシを彼らの肉体の中に持っている。そして、その理由は肉体(車体)の性質に還元される。
言い換えると、車体の性質がxであるとき、ヌシという運転手がその車体の中に生じる。人間はその性質xを持っているので、人間のみがヌシという運転手を彼らの肉体の中にもつ。
信仰的な思考(非還元的な思考)
純粋な信仰では、ヌシの存在は肉体を基盤とするが、肉体(車体)の性質に還元されない。肉体が存在するとき、非常に不思議なことに、ある種の肉体(車体)には、運転手というヌシが偶然?か必然?か生じる。
だから、動物の肉体には、運転手を持つ車体と運転手を持たない車体が存在する。俺らは相手の運転手を直接的に知覚できないので、彼らは運転手それ自体を信仰するしかない。
動物のヌシは人間のヌシと異なる
信仰その2:動物のヌシは人間のヌシと異なる。
動物のヌシは人間のヌシと異なる。言い換えると、ヌシ(運転手)、またはヌシ(運転手)のような対象は動物の肉体にも人間の肉体も存在している。けれども、動物のヌシは人間のヌシ(運転手)と非常に異なる。この考えは自然科学的であり、最も現実的であるように思える。
俺らがヌシ(運転手)について思考するとき、俺らは動物にはヌシ(運転手)が存在するのかと疑問に思う。当然、動物の肉体とホモ・サピエンスの肉体は異なるが、ヌシ(運転手)それ自体が異なるのは不明である。
現実的な思考
信仰的推論:もし対象xの肉体と対象yの肉体が(種として)互いに異なるならば、対象xの蟲と対象yの蟲は互いに異なる。もし対象xの蟲と対象yの蟲が互いに異なるならば、対象xのヌシと対象yのヌシは(種として)互いに異なる。
言い換えると、車体の種類が互いに異なるならば、蟲(カーナビ画面)の種類も互いに異なる。蟲(カーナビ画面)の種類も互いに異なるならば、ヌシの種類も互いに異なる。
例えば、俺らが犬のヌシ(運転手)を考えてみよう。犬の肉体(遺伝子)は人間と異なる。その違いは車体の種類(車種)の違いに対応する。
車体(車種)が異なるとき、視界や聴覚を含む蟲も異なる。実際、犬の視界とホモ・サピエンスの視界は互い異なる。だから、犬のヌシとホモ・サピエンスのヌシも異なると推論される。
動物のヌシは人間のヌシに等しい
信仰その3:動物のヌシは人間のヌシに等しい。
動物のヌシは人間のヌシに等しい。一見すると、バカバカしい主張であるが、俺らは馬鹿と信仰しない。上記では、俺らは犬の蟲とホモ・サピエンスの蟲が異なるので、俺らは犬のヌシとホモ・サピエンスのヌシは互いに異なると結論づけた。この推論は善であるか?
問題点
問題点は上記の信仰的推論が間違いであることである。例えば、物の状態と蟲の状態には何らかの対応が存在する。人間においても、青い目を持つ人間と黒い目を持つ人間の視界(視蟲)は互いに異なる。
日常的な感覚では、たとえ俺らがクローンや並行宇宙を作るとしても、肉体の中のヌシ(運転手)は互いに異なっているように感じる。ヌシ(運転手)と肉体には、蟲と肉体のような一対一の対応は存在していないように思える。もし蟲と肉体のような一対一の対応がヌシ(運転手)と肉体に存在していないならば、上記の信仰的推論が間違いであるかもしれない。
車体の中のカーナビ画面(蟲)が異なることから車体の中の運転手が異なると結論づけるのは非常に難しい。車体とカーナビ画面(蟲)は互いに異なるかもしれないが、運転手(ヌシ)それ自体が同じである可能性がある。
人間の肉体の中に入っているヌシ(運転手)が犬の肉体の中に入っていても不思議でない。しかし、たとえヌシ(運転手)が犬の肉体の中に入っているとしても、犬の肉体の車体としての性能不足のために、犬の中のヌシ(運転手)は人間のように振る舞えない。それは発話機能や脳の記憶機能が人間として振る舞うために根本的に欠落している。
現時点では、俺らは人間のヌシ(運転手)を犬のヌシと区別することができない。この考えを拡張すると、俺らはホモ・サピエンスのヌシと犬のヌシ、そしてハエのヌシを同じヌシとして信仰する必要がある。もしある対象が蟲を持つならば、そのとき、その対象は人間と同じヌシを持つ。俺らはこのような推論を実行する。
しかし、このとき、もし俺らが犬やハエ、そして豚や馬を殺すならば、その行為は殺人行為になる。なぜなら、殺人行為とは、運転手の破壊である。解決案としては、俺らは人間を肉体と蟲とヌシの組みと信仰することである。このとき、たとえホモ・サピエンスのヌシと犬のヌシ、そしてハエのヌシが互いに等しいとしても、肉体や蟲が異なるので、組みとしては異なると信仰できる。
ただし、この考えでは、俺らは宗教的な問題を抱える。なぜなら、この宗教の目的は分岐であり、人間とそうでないものの違いとは、物や蟲でなく、ヌシであるべきである。俺らはこのような宗教をもつからである。