以下では、俺は論理に対する俺の印象を提示する。大和民族の間では、論理は永久不変の真理を獲得する何かになっているように見える。けれども、俺はこの種の感じ方に反対する。
個人的には、俺は論理を推理の一種とみなすとき、俺はスッキリする。論理には、reason や inference や deduction or induction などが存在するらしい。
論理(logic)
論理(logic):論理とは、機械的な推理である。または、論理とは、対象を機械的に推理する(脳の)運動である。
論理とは、機械的な推理である。または、論理とは、対象を機械的に推理する(脳の)運動である。個人的には、俺は論理を永久不変の真理を獲得する何かでなく、推理の一種と認識する。
警察が犯人を逮捕する時、警察は与えられた情報から推理して、犯人を逮捕しようとする。同様に、科学者は実験によって与えられた情報から機械的に推理して、自然界に関する情報を獲得しようとする。犯人逮捕のための推理の一種が論理である。
論理
俺らが論理を推理の一種と認識する時、俺らは論理と推理の違いを知りたい。俺の印象では、論理と推理の違いとは、扱う対象の違いである。論理の対象は機械的な対象である。
機械的な対象には、自然界や電子計算機やプログラム、そして数学の世界である。この種の世界では、俺らは科学的な対象を機械的に推理して把握する。日常的には、俺らがある対象を機械的に推理したい時、俺らは論理を使用する。
言い換えると、俺らが機械を取り扱いたい時、俺らは論理を推理の道具として使用する。科学や数学の世界では、論理は体系を構築する能力を持っているように見える。しかし、日常的には、論理は機械的な対象に関する推理を実行する時に使用される。
論理の欠点
論理は機械的でない対象に強くない。例えば、動物や人間は感情を持つので、彼らは機械的には振る舞わない。その結果、たとえ俺らが対偶や背理法を取るとしても、俺らは機械的でない対象をうまく取り扱えない。
大学で数学や科学にかぶれた学生の一部は卒業しても背理法や対偶を取ろうとする。その結果、彼らは非常に浮いてしまう。なぜなら、人間社会は必ずしも機械的に運動しない。もし人間や動物が完全に機械的であるならば、その時、俺らは論理のみですべての対象を推理できるだろう。
論理は推論法則か?
俺が電網を検索する時、論理は推論法則であるという文章に遭遇する。けれども、この種の文章は俺の感覚に反する。なぜなら、論理は推論法則であるのは、(俺にとっては)人間が機械的な対象を推理していく時、その推理にはある種の法則やパタンが存在することである。
上記では、論理は(機械的な)推理の一種である。だから、論理それ自体は法則でないように思える。機械的な推理にパタンが存在することは推理それ自体でなく、推理のパタンや推理法則である。これは物体や物体の運動それ自体が運動法則でないことに似ている。