東京五輪の閉会式は完全に失敗した。以下では、俺はその理由を提示するつもりである。ここでは、俺はコロナや不祥事を一切考慮しない。
今回の閉会式は半裸の未開人が一生懸命におもてなしをしてくれたような式であった。しかし、文明的な民は未開の民のおもてなしにただただ困惑して苦笑するしかなかったみたいな感じである。
理由
理由
理由 大和民族は外国人を喜ばせたいと感じたので、意思疎通に失敗した。
大和民族は外国人を喜ばせたい、外国人に興味を持ってもらいたい。もっというと、大和民族は白人に認められたいという心理を持っていたので、彼らの閉会式は完全に失敗した。閉会式は意思疎通(コミュニケーション)の一種である。
東京五輪の閉会式は一種の外交であり、そこでは大和民族は「自己」を異人種や異民族へと伝達する必要がある。この自己はいわゆる「人種」だけでなく、「自己の文明的な所属」や自己の地域(文化的な意味でのアジア地域)、自己の視点や自己の歴史である。
言い換えると、大和民族は異人種や異民族との意思疎通(外交)に完全に失敗してしまった。東京五輪の閉会式は外国人を喜ばせて、大和民族がちやほやされる場所でなく、”外交” である。ツイッターを見ると、大和民族hは「外国人が好きであろう忍者を出しとけば〜」のような呟いが観察される。けれども、この種の心理が東京五輪の閉会式を失敗させた。
理由
理由 大和民族は “受け” を狙ったので、失敗した。
俺の印象では、この「受け狙い」は電通や博報堂のような広告業界の文化である。例えば、彼らは「大坂なおみを出せば、米国やフランスが喜ぶだろう(笑)。だから、大坂を出せ。」のような発言を繰り返す。これはアニメや漫画やサブカルチャー、そして和風の文化にも言える。「カタカナ用語をJpopに入れとけば売れる(笑)」みたいなノリ。
とりあえずドラクエの曲を出せ、とりあえず和服、とりあえず太鼓…このようなノリや雰囲気が広告業界に蔓延してるように見える。より口語的には、広告業界の人間は「とりあえずイケメンの白人や美女の白人を広告に出せば売れるでしょ(笑)それが資本主義(笑)」みたいなノリで生きてきた。あるいは「今流行りだから、黒人出しとけば白人は喜ぶでしょ(笑い)」。
これは広告業界だけでなく、大和民族もいえて、彼らは「とりあえず忍者を出せば、外国人は喜ぶだろう」のような発想を持つ。いわゆる外国人ウケ。けれども、その外国人はそこまで馬鹿でない。大和民族の発想は「美少女を出せば、キモオタが喜んでこのアニメは売れるだろう」のような発想である。とりあえず、アイヌ民族や琉球民族、地方の謎の歌を出せば、受けるだろうみたいなノリや雰囲気。
ひどい場合には、作り手側が消費者を完全に馬鹿にしているが、それはまともな番組や演出ができない言い訳である。例えば、「視聴者は馬鹿であるので、中学生であると思って作りなさい」などという番組制作者の言葉が代表的である。その結果が今回の閉会式になった。
理由
理由 大和民族は自己の表現(形成)に失敗した。
開会式も閉会式にも指摘されていたが、「意味不明」や「何を表現したいのかわからない」という呟きが散見された。この意味は、「たとえ異人種や異民族が閉会式を見るとしても、日本国が東洋文明に所属しているのか、アジア地域に所属しているのかすらわからない」である。
閉会式に登場した東京なんとかパラダイスやよくわからないアニソン?の歌手は東洋文明に所属しているのか、アジア地域に所属しているのかすらわからない。閉会式では、大和民族は自己の文明的な所属や自己の地域的な所属、そして自己の視点や自己の歴史観など、「自己」を “明確に” 表現する必要がある。
開会式も閉会式も意味不明なのは自己の文明的な所属すらわからないからである。フランスやドイツが大和民族をよろこばすためにアイヌ民族やアボリジニ人をいきなり出す程度には意味不明である。歌手などは有名である必要はなく、彼らに必要なのは “自己の文明的な所属の表現” である。歌手に求められるのは「ああ、この人は東洋文明に所属しているのだな」という印象づけである。
当然であるが、ピカチュウもドラクエもマリオも大和民族や日本国の自己それ自体でない。ピカチュウが俺らの自己それ自体を形成することは一生ないだろう。
理由〜組織〜
理由〜組織〜
理由 閉会式関係者は意志統一に失敗したように見える。
閉会式に対して、唐突や統一感がないと指摘されてきた。この感覚は国家の中に何個も国家や政府があるような感じである。または、映画の中に異なる複数の映画が挿入されてしまった感じである。この理由は意志統一に失敗して、民主主義的になったからである。閉会式のバラバラさは複数の意志の存在の結果であるように見える。
言い換えると、関係者は「現場の意見を聞いた」ので失敗した。例えば、関係者がジャニーズ事務所による「開会式にうちのアイドルをここに出して欲しい。長い付き合いでしょ?」やAKBの事務所による「うちのアイドルをここに出して欲しい。有名にして売りたい」という欲求を際限なく聞いて行った結果、関係者は閉会式の意志や統一された、一貫した閉会式を形成できなくなったように思える。
言い換えると、現場や俳優や女優や事務所が権力を持ちすぎて、映画に口を出すので、誰も監督も映画やドラマをまともに作れなくなったことに似ている。消費者や視聴者の側も映画それ自体を見ていなく、お気に入り(推し)のイケメンや美女をキャバクラのように応援するノリで見るので、映画やドラマが完全に崩壊して行ったことに似ている。実際、日本国の映画やドラマはキャバクラやゴーゴーバー化していて、完全に崩壊している。
閉会式では、”一貫性がない” と指摘されている。この一貫性のなさは複数の意志が閉会式に入り込んだことを暗示している。歌や踊りや民族舞踊(盆踊り)が唐突に入りすぎていて、一つの意志によって統一されていないように感じた。
理由〜組織〜
理由 開会式関係者自体は日本社会にも日本国にも所属認識(意識)を持っていないので、共通した目的を形成できずに、失敗しても他人事である。
自己の社会に対する所属意識のなさは電通や博報堂だけでなく、学者や弁護士、酷い場合には政治家にも見られる。たとえ閉会式がどんなに失敗するとしても、彼らは他人事である。だからこそ、彼らは「推しのアイドル」を閉会式に唐突に出すように要求する。
そして、閉会式が今回のように失敗しても、彼らは知らんぷりで何も感じていないように見える。なぜなら、彼らは日本社会や日本国にも所属しているつもりはない(けれども、彼らは恩恵を日本国や日本社会から一方的に受けたい)。企業の社会認識のなさはカタカナ用語にも応用される。
彼らは日本社会に所属する認識をそもそも持っていない。だから、たとえカタカナ用語が日本語を崩壊するとしても、彼らは他人事のように傍観する。たとえ日本国の景観が東洋と西洋がごったまぜになって崩壊するとしても、彼らは他人事のように傍観する。
そもそも、電通も博報堂も五輪関係者も自己のまともな日本社会を形成するつもりがないように見える。だからこそ、たとえ閉会式が統一感を失い、失敗するとしても、彼らはジャニーズやAKBのような推しのジャニーズを無理やりねじ込んで、五輪をとりを勤めましたという記録だけを宣伝のために残せれば満足であるように見える。この種の動物は五輪の閉会式を単なる広告か何かとしてしか見ていないように思える。
上記では、俺は今回の閉会式は意志統一が実行されていないと述べた。それに加えて、今回の閉会式は目的も統一されていないように見える。閉会式の関係者彼ら自身が日本社会や日本国に所属しているという認識を持ち、良い閉会式を実現させたい。彼らはこの種の目的を共有していなかったように思える。だからこそ、閉会式が単なる推しアイドルの広告の場所になったり、ウケ狙いで盛り上がれば良いという宴会芸になったり、現場からの介入で複数の意志が介在した状態になったりした。
理由〜組織〜
理由 企業は自己の社会を形成する能力を持っていないので、閉会式が失敗した。
俺は誰が意思決定者であるのかを理解できない。けれども、俺は閉会式を企業に関係させたことが問題であると感じる。大和民族の企業を見ると、彼らは景観を破壊して、日本語をカタカナ用語で破壊してきた。加えて、彼らは白人モデルをすぐに出してなんとかする。
俺の印象では、一般的に、企業は社会、それは言語や景観や善悪を形成する能力それ自体を持っていないように見える。個人的な印象では、企業よりも宗教家や実際に文化活動しているような人々、そしてごく一部の統治者が自己の社会を形成する能力を持っている。
電通や博報堂や五輪関係者は開会式や閉会式を「宴会芸」か何かであると勘違いしているように見える。ノリや雰囲気でワイワイ楽しめれば良いという発想が根底にあるので、社会形成や国家形成、そして外交という発想が閉会式から完全に抜け落ちているように見える。「宴会」はワイワイ楽しめれば良いので、外交や意味不明であっても問題ない。