ヌシに関する信仰原理(公理)

俺らについて
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 以下では、俺はヌシに関する信仰原理を提示するつもりである。なお、俺は原理と公理に関する正確な認識を提示することができない。しかし、俺はこの原理からこの信仰を組み立てる。

ヌシに関する信仰原理(公理)

把握原理

 俺の信仰 俺は自己のヌシを把握する。

 現時点では、俺は信仰すると把握するの違いをうまく認識していない。創造主は信仰されるが、それは把握されない。一方、俺はヌシを把握する。口語的には、俺はヌシを感じ取っている。俺はこの原理を “把握原理” と便宜的に呼ぶ。

自己原理

 俺の信仰 俺は(自己の)ヌシを自己それ自体を信仰する。

 俺は自己のヌシを自己と信仰する。これは上記の把握でなく、この宗教における信仰や信仰に関する約束に近い。なぜなら、ヌシが俺らの本当の自己であるのかは物質世界には存在しない(ように見える)。

上記では、俺は自己のヌシを把握した。けれども、その把握行為それ自体は自己のヌシを自己であると授けない。口語的には、自己のヌシを自己と取り決めるのは信仰の産物である。俺は物質や蟲やヌシを広い意味で把握する(感じ取る)。けれども、どれが俺の自己であるのかは物質世界も蟲世界にもヌシ世界にも存在しない。

上記をまとめると、俺はヌシを把握する。そして、俺はそのヌシを自己と信仰する。

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