以下では、俺は胎児がホモ・サピエンスであるかを考えてみる。本来であれば、俺らはホモ・サピエンスと人間と明確に区別する必要がある。俺らが中絶行為が殺人行為であるかを考えるとき、俺らはホモ・サピエンスや人間に対する定義や認識を必要とする。
胎児の質料及び形相
胎児の質料
胎児の質料:もし胎児がホモ・サピエンスと同じ要素(質料)を持つならば、胎児はホモ・サピエンスである。
言い換えると、もしある対象がホモ・サピエンスと同じ要素を持つ対象であるならば、その対象はホモ・サピエンスである。ホモ・サピエンスと同じ要素が何であるかが不明である。もし要素がゲノム情報であるならば、受精卵や一個の細胞もホモ・サピエンスになるように思える。
純粋に要素のみを考えるとき、俺らは胎児の要素から胎児が同じホモ・サピエンスであることを導出できないように思える。
胎児の形相
胎児の形相:もし胎児がホモ・サピエンスと同じ形相(形)を持つならば、胎児はホモ・サピエンスである。
言い換えると、もしある対象がホモ・サピエンスと同じ形相を持つ対象であるならば、その対象はホモ・サピエンスである。上記の推理は間違いである。反例は人型の彫刻である。なぜなら、俺らは人型の彫刻をホモ・サピエンスと認識しない。
俺らは胎児の形(形のみ)から胎児が同じホモ・サピエンスであることを導出できないように思える。
胎児の質料及び形相
胎児の質料及び形相:もし胎児がホモ・サピエンスと同じ要素及び形相(形)を持つならば、胎児はホモ・サピエンスである。
言い換えると、もしある対象がホモ・サピエンスと同じ要素及び形相(形)を持つ対象であるならば、その対象はホモ・サピエンスである。要素が何であるかにもよるが、上記の推論は正しいように見える。一般的に、俺らが対象の形と対象の要素を指定するとき、俺らは対象をうまく指定することができる。
胎児は人間か?
殺人行為
殺人行為:殺人行為とは、人間を殺す行為である。
殺人行為とは、人間を殺す行為である。注意点としては、殺人行為とは、ホモ・サピエンスを殺す行為でない。上記によると、胎児はおそらくホモ・サピエンスであるが、胎児が人間であるのかは不明である。
もし胎児が人間であるならば、中絶行為は殺ホモ・サピエンス行為でなく、殺人行為である。中絶行為を実行した医師は殺人者として刑罰に科される必要がある。俺らが胎児に対する中絶行為を考えるとき、俺らはホモ・サピエンスと人間を明確に区別する必要がある。
たとえ俺らがホモ・サピエンスを処分するとしても、俺らはホモ・サピエンスという猿の一種を処分する行為(殺動物や殺ホモ・サピエンス)を実行しただけである。なぜなら、ホモ・サピエンスは猿(猿との共通祖先を持つ動物?)であり、人間でない。たとえ俺らがホモ・サピエンスを処分するとしても、その行為は動物虐待である。
胎児は人間か?
俺の印象:俺の印象では、東洋人の大部分は胎児を人間と感じていない。
正確には、俺の印象では、東洋人の大部分は胎児を同じホモ・サピエンスと感じているが、同じ人間と感じていない。だから、東洋人の大部分は中絶行為を殺人行為と感じない。東洋人は胎児は人間と意思疎通できないので、彼らは胎児を同じ人間と感じていない。
また、胎児は母体から生まれてきていないので、東洋人は胎児を同じ人間と感じない。さらに、東洋人は胎児は十分に発達していないと感じている。体積や大きさも関係するかもしれない。
人間と宗教及び文明
人間と宗教及び文明:人種や文明や宗教が異なるとき、人間に対する定義や認識が異なる。
簡単に言うと、何が人間であるかは文明や宗教によって異なる。キリスト教における人間観は東洋文明における儒教の人間観と異なる。その時、何が殺人行為であるのかも異なる。