俺は木村草太の英語論文を探したが、見つからなかった。加えて、俺は木村草太が修士号や博士号を持っているのかを確認できなかった。もし彼が修士号や博士号を持っていないのに、彼が首都大東京の教授になっているならば、俺らはこの状態に非常に驚かされる。
以下では、俺らは木村草太を引用しながら、日本国における文系の問題点を提示する。一番目の問題とは、木村草太が修士号や博士号や英語論文を持っていないのに、学者や教授になっていることである。二番目の問題とは、大和民族は自己の人間社会を形成できないことである。
三番目の問題とは、アカデミアのキャバクラ化やホストクラブ化、そして合気道の達人化である。木村草太が業績を持っていないのに、ここまで持ち上げられるのは彼の肉体のデザインに関係する。
木村草太の問題
俺の判断:木村草太が修士号や博士号や英語論文を持っていないのに、学者や教授であることは悪い(レッドカード)。
木村草太が修士号や博士号や英語論文を持っていない。にも関わらず、学者や教授であることは悪い。木村が先生と呼ばれていることは非常に悪い。
まともな論文がない
俺は木村草太の英語論文を発見できなかった。加えて、俺の検索した範囲では、木村は修士号や博士号を持っていない。俺は木村草太を学者と認識しない。
俺の印象では、木村草太は彼自身の論文を英語で書く能力を持っていない。加えて、彼は異人種や異民族によって彼自身の論文を読まれて評価されることを非常に嫌う。だからこそ、彼は日本人にしか読まれなように日本語のみで論文を書く。
もし木村が修士号や博士号や英語論文を書いていないのに、学者であるならば、その状態は嘘である。もし木村が国民に彼が学者であることを強制的に認識されるならば、その時、それはカルト宗教における洗脳と同じである。
応答の問題点
俺が上記の発言を提示する時、文系の学者は次のような典型的な反応を提示する。彼らは「知らないくせに批判している」や「文系では博士号は人生の集大成である(だから、論文なくても仕方がない)」と “説明” しようとする。酷い場合には、文系の学者は「文系では博士号は人生の集大成であるのに、木村が論文を持っていないことを批判するのは無知であり、文系について知らない反知性主義者」と契約相手を侮辱してくる。
けれども、ここでの問題点とは「博士号やまともな英語論文すらない人間が学者になり、教授になっている」ことである。もしある人間(木村草太)が博士号や論文を持たないならば、たとえその人間(木村草太が大学に所属するとしても、その人間(木村草太)は学部を卒業した一般人と変わりない。学者や教授が学者や教授たり得るのは、大学への所属でなく、博士号や論文の有無である。
論文でないものを論文と自分勝手に呼ぶ
木村草太は論文でないものや論文の水準に達していないものを「論文」と呼ぶ。理系の大部分の人間は文系学者、木村の論文を「論文」でなく、「単なる感想文」と審判する。文系をはじめとする大和民族の学者のバカさは審判能力の欠如である。彼らは論文でない感想文を論文と呼ぶ。業績の域に達していない感想文を業績と呼ぶ。人々は彼らの行為を「誤審」と認識する。
木村草太は西側白人のきちんとした査読を受けていない。もし彼の感想文が白人の査読を受けるならば、彼の論文は論文と認識されない。彼の論文は大和民族にしか通用しない。彼らは大和民族同士で査読しあって、それを業績としている。この状態は非常に不健全である。
なぜ彼らは彼らの感想文を日本語で書くのか?なぜなら、彼らは他人から評価されることを異常に恐れる。彼らが日本語で論文を書く時、彼らは白人から批判されない。彼らは白人からの査読の目が何よりも怖い。
アカデミアの問題点
アカデミアの問題点:大和民族の学者は自己のアカデミア社会を彼ら自身で形成する能力を持っていない。
大和民族の学者は自己のアカデミア社会を彼ら自身で形成する能力を持っていない。理系の場合、白人との文明的、文化的な対立が存在しない。そのため、理系の学者は白人のアカデミア社会をそのまま真似れば良い。
しかし、文系の場合は文化的な対立や法律に対する価値観や宗教的な対立が存在する。その場合、彼らは白人に依存せずに、彼らは彼ら自身のソサエティを形成する必要がある。この時、彼らは自分で自分のソサエティを形成しなければいけないので、上記のようなインチキや腐敗が生じる。
実際、大和民族の理系も望月新一のABC予想のような白人との対立が生じる場合、彼らの作る社会は迷走する。なぜなら、大和民族の学者は自己のアカデミア社会を彼ら自身で形成する能力を持っていない。
論文が何かわからない
大和民族の学者は論文が何かを認識していない。だから、大和民族に大学や学者をやらせると、査読がない文章を自分勝手に論文と呼んで、業績に勝手にしようとする。たとえ外部の人間が自称論文を批判するとしても、彼らは批判者を「反知性主義」や「知らないくせに批判してる」と返答する。
彼らの行為はまるで「単なる泥水」を「コーヒー」と呼んで、お金を消費者から奪っているような行為である。たとえその商人が彼らの嘘を批判されるとしても、彼らは「コーヒーについて知らないくせに批判している」と返答する。木村の論文は上記のコーヒでなく、上記の単なる泥水である。
ある対象がある対象であると認められるためには、共通認識や信用が必要である。しかし、大和民族はソサエティにおける信用や共通認識を形成できない。何が論文かを教えてくれる白人が存在しないと、大和民族の学者は何が論文であるかを認識できない。