以下で、俺は中国の歴史の簡易版を提示する。俺はその歴史を3の3乗になるように整理した。俺は中国の歴史を「古代(1番)」と「中世(2番)」、そして「近世及び近代(3番)」に3分割した後、俺はそれぞれをさらに3分割した。
古代は夏王朝から春秋戦国、秦から漢、そして三国時代から南北朝に3分割される。中世は隋及び唐、宋、元に3分割される。近世及び近代は明、清、そして中華人民共和国に3分割される。
なお、長江文明や黄河文明に関しては、俺は別の項で提示することにする。なお、下記は大和民族や漢民族、華南民族、華北民族、チベット民族、モンゴル民族、朝鮮民族の自己認識の形成のための文章であり、学術的な文章でない。
0部 地図
1章 3分割
中国の地域を華北と華中と華南に3分割する。華北は黄河(下流)よりも北の地域、華中は黄河よりも南であり、かつ長江(下流)よりも北の地域、華南は長江(下流)よりも南の地域である。
チベット(ウイグル)は西部である。モンゴルや満州地域は北部である。西部や北部は中国ではないので、除外する。当然、西部も北部も東洋小人種、ないしモンゴロイド人種の自然な生息地であるけれども。
2章 黄河
黄河の下流は山東省の北部から、河南省の北部を通る。そして、山西省と陝西省の境界を北上する。
個人的には、俺は山東省や陝西省の南部は中原であるように感じる。西安は中原に近い。しかし、山西省は華北に属するように見える。電飛(miyata.gotdns.com/china/qinghai.htm)
3章 長江
長江は江蘇省の南部から安徽省の南部、そして新型コロナウイルスの武漢の湖北省の南部を通る。
個人的には、浙江省や福建省、四川省は中原でなく、華南であるように見える。河南省は中原であるので、湖北省も中原である。
1部 古代
1章 夏王朝(三代)から春秋戦国時代
夏(紀元前2000年から紀元前1600)
夏王朝は最初の王朝であるらしい。その王朝は今から4000年前、紀元前2000年に形成された。その後、3600年前、紀元前1600年に崩壊したらしい。夏王朝の場所は河南省であり、その王朝は中原の王朝であるように見える。
殷(紀元前1600年から紀元前1000年)
殷王朝は今から3600年前、紀元前1600年から、今から3000年前、紀元前1000年前まで継続した。殷王朝は夏王朝よりも、東や南(湖北省)へとより大きな範囲を統治している。殷王朝の場所も河南省であり、その王朝も中原の王朝であるように見える。
周(紀元前1000年から紀元前約700年)
周王朝は今から3000年前、紀元前1000年から、今から約2700年前、紀元前約700年(770)まで継続した。周王朝は殷王朝よりも、東や南、そして西へとより大きな範囲を統治している。
周王朝は山西省や陝西省、山東省、そして湖北省や安徽省まで統治していた。周王朝の場所の中心も河南省であり、その王朝も中原の王朝であるように見える。
左の地図では、江蘇省は周王朝によって統治されていないように見える。夏王朝、殷王朝、そして周王朝の時代には、大和民族の先祖は中国の呉越(江蘇省や浙江省)あたりで生活していただろう。この時代の君の視点を中国大陸に置け。
春秋・戦国時代(紀元前770年から紀元前400年、紀元前400年から紀元前221年)
春秋時代は、紀元前770年から紀元前約400年であるらしい。この時代は複雑すぎてよくわからない。春秋時代は今から、約2770年前から、2400年前であり、春秋時代は約300年間継続した。
秦国は現在の青海省や甘粛省に存在して、後の秦の始皇帝の秦である。斉国は山東省の太公望の国であった。魯国は孔子の国家であった。周は周王朝の周、晋は周の親戚であったかも。燕は上記では現在の北京あたりで華北人であったかもしれない。俺は宋が何かを知らない(後の宋?)。
呉国と越国、そして楚国は南方の東洋人の国家であったはず。俺の勝手な印象では、呉国と越国は大和民族の先祖に関係しているように思える。呉越は現在の江蘇省と浙江省、安徽省に関係している。楚国は湖北省や湖南省、江西省、あるいは貴州省や四川省に関係していたかもしれない。
戦国時代は紀元前400年から紀元前221年で継続したらしい。今から、2400年前から2200年前であり、その期間は200年である。
晋が趙と魏と韓に分裂した(なぜ韓国の韓が中原にあるのかは不明)。右の地図には、越が存在するが、楚国が南方を統治しただろう。
主要な国家は秦(秦の始皇帝)と楚(南方の蛮族)と斉(太公望)、燕(北京)であるように思える。宋もそうかも。趙と魏と韓は中原の分裂国家達と覚えれば十分である。
2章 秦から漢
秦(紀元前221年から紀元前206年)
紀元前221年から紀元前206年まで、秦王朝は広大な地域を始めて統一した。しかし、その期間は約15年であって、それは非常に短い。会社勤めしている間に、王朝が崩壊したらしい。
秦の業績は広大な範囲を統一したことである。黄河の北の遼寧省やモンゴル地域の南部から中国大陸の最南部までが統一されている。
しかし、チベット地域や西方は依然として統一されていない。右の地図からは雲南省や四川省の一部も統一されているように見える。俺の印象では、秦はアカイメネス朝ペルシアの統一の影響を受けているように思える。
漢(紀元前206年から紀元220年)
漢王朝は秦王朝と類似した地域を紀元前206年から紀元220年まで統治した。加えて、漢王朝は西方の地域、現在のウイグル地域を統治した。漢王朝は前漢と後漢に分類されるそうだ。
漢王朝は漢民族の人工的な自己認識に深く関係している。漢王朝は漢民族に「中華」という意識を強く認識させただろう。
秦は広大な地域を統一したが、維持を軽視したのか、安定せずに崩壊した。それに対して、漢は広大な地域の統治を安定させた。この安定や維持の性質は東洋人的であるように見える。また、この時代から800年から300年間行方不明であった倭人や倭国?が登場するように記憶している。
3章 三国時代から南北朝
三国(紀元220年から紀元280年)
漢王朝の滅亡の後、魏と呉と蜀の三国時代が紀元220年から紀元280年まで生じた。この時代はコーエーのゲーム「三國無双」などで非常に有名である。魏が華北であり、呉が南方の国家、蜀が南西の国家である。
一般的に、北の民は軍事的に強いので、魏が勝利しそうだと憶測する。俺は西晋が何かを知らないので、魏(西晋)が中国を短期的に統一しらと感じている(300年まで)。
その魏(西晋)が南(東晋)と北部に分裂した。北部は五胡十六国時代になった。簡単に言うと、北部はごちゃごちゃな状態になった。南と北の東洋人は異なる民族であるので、分裂するときは、南北であるだろう。(電飛)
南北朝(420年から約600年(589年)まで)
北魏がごちゃごちゃな状態を統一する。北魏は東西で分割されて、西の国家(西魏→北周→隋)が東の国家(東魏→北斉)に勝利する。俺の印象では、北の国家が南の国家に勝利して、西の国家が東の国家に勝利する。
一方、南の国家(東晋)は宋に変化する。さらに、宋は斉から梁、陳と名前を変えていく。しかし、北の国家(隋)は軍事的に強いので、南の国家(陳)を滅亡させる。
こうして、約600年(589年)に、遣隋使でお馴染みの隋が中国地域を統一する。(電飛)
2部 中世
1章 隋と唐
隋(581年〜618年)
隋は581年〜618年まで右の地域を統治した。その期間は約30年であった。遣隋使で有名。
唐(618年〜907年)
唐は618年〜907年まで右の地域を統治した。隋との違いは現在のウイグル地域である。その期間は約300年である。この時代には、チベットはまだ統治されていない。
五代十国(907年〜979年)
五代十国時代は907年〜979年まで続いた。その期間は約100年であった。中国地域を北(中原)と南で分割するとき、俺らはこの時代を少し把握できるように思える。
北の国家は「後梁→後唐→後晋→後漢→後周」である。そして、北漢。
右の図を見ればわかるように、南の国家は呉越と閩(びん)と楚、前蜀(後蜀)、南唐(呉)、荊南、南漢。荊南は後梁の南の突起部分である。
2章 宋(960年〜1279年)
宋は960年〜1279年まで続いた。期間は約300年である。宋の北部には、西夏と遼が存在した。その後、金(jin)という国家が遼あたり(満州あたり)に出てきて、遼と宋の北部を統治した。宋はモンゴル帝国に滅ぼされた。
3章 元(1271年〜1368年)
右の図はモンゴル帝国である。元はモンゴル及び満州を含む大陸東洋地域及び朝鮮半島であると考えれば良い。イヌイット民族と大和民族のみがモンゴル人に支配されていない。
3部 近世・近代
1章 明(1368年〜1644年)
明は1368年〜1644年まで右の領域を統治した。チベットと満州、モンゴルは統治されていなかった。
2章 清(1644年〜1912年)
清は1644年〜1912年まで右の領域を統治した。チベットと満州、モンゴルは統治されていた。
3章 中華人民共和国(1912年〜)
現在の中国である。なぜか共産主義を表面的にはやっている。