保坂修司によるニューズウィークの記事の駄目さ〜イスラエル人女優が「クレオパトラ」役、でもホワイトウォッシングとは言えない?〜

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 <1963年『クレオパトラ』の主演はエリザベス・テイラーで、白人のユダヤ教徒、シオニストだった。ガル・ガドットを主演に新たなクレオパトラ映画の製作が発表され、批判も出ているが、話はそう単純ではない>

https://www.newsweekjapan.jp/hosaka/2020/11/post-37.php

 俺が保坂修司による記事を読んだ後、俺は大和民族の学者の能力の低さに驚かされる。以下では、俺は保坂修司による記事の問題点を提示する。その問題点とは、保坂修司は白人の視点を左から右へと流して、一生懸命説明しているだけであることである。

上記の記事では、クレオパトラを演じるのがガル・ガドットと呼ばれるユダヤ教徒の白人になった。この選択がホワイト・ウォッシングであると批判された。その批判に対して、保坂修司はある種の疑問を提示した。

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保坂修司とユダヤ人

 保坂修司とユダヤ人:もし保坂修司がキリスト教徒でないならば、保坂修司がユダヤ人という単語を使用するのは歴史的にも宗教的にも文明的にも正当でない。

 「jew」がユダヤ人になるのは西洋文明の視点であり、それは東洋文明の視点でない。保坂修司だけでなく、大和民族の学者のほとんどは「人種や宗教や文明が異なるとき、人種それ自体に対する定義や認識が異なる」ことを認識できないように見える。

だから、彼らは自己はキリスト教徒でないと主張しながら、彼らはユダヤ・キリスト的なソサエティにおける自己認識(アイデンティティ)を持ってしまう。そして、彼らはその状態に何ら違和感を覚えていない。

日本人学者の典型的な発言

もう一つの問題は、クレオパトラ役のガル・ガドットが白人かということである。これも映画ファンなら知らない人はいないだろうが、彼女は生まれも育ちもイスラエルのれっきとしたイスラエル人で、2004年のミス・イスラエルでもある。したがって、「ユダヤ人」ということになる

https://www.newsweekjapan.jp/hosaka/2020/11/post-37_2.php

 上記では、保坂修司は「イスラエルのれっきとしたイスラエル人」と書いたが、この表現は東洋文明では正確でない。正確には、彼女はイスラエル国(国民国家)生まれのイスラエル国民である。アメリア人やイスラエル人とは西洋文明における国民国家という概念の都合の結果である。

また、保坂修司は「したがって、ユダヤ人ということになる」と引用している。この種の話し方は大和民族に典型的であり、彼らは白人の視点や定義を一切疑わずに引用して見せびらかす。俺は “したがって” の意味を全く把握できない。何が従って?

彼女がユダヤ人になるのは白人の都合や設定である。保坂修司は白人の設定を唯一の真理のように取り扱っている。言い換えると、保坂修司は「欧米では〜、白人では〜、だからユダヤ人が正しい」と主張している。

アシュケナジム・ユダヤ人?

ただし、彼女の出自はアシュケナジムと呼ばれるドイツ・東欧系のユダヤ人であり、米国では一般に「白人(コーカソイド)」あつかいになっている。

https://www.newsweekjapan.jp/hosaka/2020/11/post-37_2.php

 上記も白人の都合や視点や定義を引用しているだけである。俺は保坂修司が何を言いたいのか、保坂修司の認識や視点が一切存在しないことが気になる。彼は「米国では〜」と引用して、日本人から同意や共感を得て、学問をした気分になりたいだけであるように見える。

もし保坂修司が自己の文明を持っているならば、保坂修司は次のような文章を提示する。「彼女の出自は東欧のユダヤ教徒であり、米国では宗教の異なる白人として扱われている。」が東洋文明の視点である。

エリザベス・テイラー?

エリザベス・テイラーの同世代でいえば、ポール・ニューマンが有名である。彼は、父親はユダヤ人だが、母親はカトリックなので、イスラエルの基準ではユダヤ人とはいいがたいが、本人はみずからをユダヤ人と認識しているという。

https://www.newsweekjapan.jp/hosaka/2020/11/post-37_2.php

 上記の文章も非常に悪い。保坂修司は白人視点を引用するばかりであり、彼は自己の視点を持っていない。東洋視点では、保坂修司は「父親はユダヤ教徒であるが、母親はキリスト教カトリック派である。だから、イスラエルのユダヤ教徒の視点では、彼はユダヤ教徒とみなされないかもしれない。しかし、彼は自己をユダヤ教徒と認識しているらしい」と書く必要がある。

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