〈皆様のご協力ありがとうございました。今日娘は残念な姿ではありますが見つかりました〉住宅街には1メートル近い積雪が残り、春の到来はまだ遠いと感じられる3月下旬の北海道・旭川市。わずかに解け始めた市内の公園の雪の中から、市内に住む中学2年生、廣瀬爽彩(さあや)さん(14)が、変わり果てた姿で見つかった。最愛の娘を亡くした母親は、自身のSNSで辛い胸の内を冒頭のように綴った。
https://bunshun.jp/articles/-/44765
上記の速報によると、廣瀬爽彩がいじめで自殺に追い込まれたらしい。以下では、俺はこの種の事件に関する問題点を提示する。俺は弁護士を含む法律関係者及び法律、そして教育システムそれ自体に問題があると審判する。
いじめは犯罪か?〜子供(未成年)とは〜
俺の認識:日本国における現在の法律的な価値観では、子供(未成年)によるいじめは犯罪でない。
日本国における現在の法律的な価値観では、子供(未成年)によるいじめは犯罪でない。廣瀬爽彩の母親は彼女に対する行為を犯罪として罰して欲しいように見える。もし彼女がそれを望むならば、彼女は法律的な価値観それ自体を変更する必要がある。
子供(未成年)の性質〜善悪の判断の欠如〜
子供(未成年)は善悪の判断を下せない(と考えられる)。だから、俺らは(キリスト教的な)罪を子供(未成年)の行為に定義できない。たとえ俺らが善悪というレッドカードを子供(未成年)に持たせるとしても、子供(未成年)はそのレッドカードを正しく使用できない。
そのため、いじめ加害者も廣瀬爽彩へのいじめが善であるか、悪であるかと判断できないと考えられる。だから、俺らは子供(未成年)の行為を罪と主張することができない。当然、動物として罰する(躾ける)ことはできるかもしれない。
子供(未成年)と大人の違い、正確には子供(未成年)と人間の違いとは、善悪の判断を下せるかである。子供(未成年)はまだ人間でなく、彼らは人間未満として保護される必要がある。当然、大人のいじめは犯罪行為(反礼行為)である。
なぜなら、大人は人間であるので、善悪の判断を下せる。言い換えると、彼らは彼らが持っている善悪、つまりレッドカードを適切に扱うことができる。大人はいじめ行為は悪いと判断できると仮定されるので、彼らのいじめ行為を犯罪行為(反礼行為)として罰することができる。
子供(未成年)の性質〜認識の欠如〜
子供(未成年)は物事を正確に認識できない(と考えられる)。だから、俺らは(キリスト教的な)罪を子供(未成年)の行為に定義できない。子供(未成年)は彼ら自身が廣瀬爽彩をいじめているという現実をそもそも認識できない。
子供(未成年)は人間でなく、痴呆老人や知的障害者に近い。たとえ痴呆老人や知的障害者が他者をいじめる、または虐殺するとしても、彼らは彼ら自身が何をしているかを認識できない。同様に、今回のいじめ事件の加害者もまた彼ら自身が廣瀬爽彩をいじめているという現実を認識できていない。
俺らが痴呆老人や知的障害者の行為に罪や反礼を問えないように、俺らは子供(未成年)の行為に罪や反礼を問えない。
問題点〜法律関係者や学者の責任〜
問題点:今回の事件の責任は法律関係者や学者、そして政治家にある。
今回の事件の責任は法律関係者や学者、そして政治家にある。言い換えると、今回の事件の責任は教育システムを作った人々にある。俺はいじめ加害者や校長や教頭には責任は存在しないと審判する。
法律関係者や学者の責任
今回の事件では、加害者の子供は法律的に保護されている。さらに、いじめに関しても、警察や自衛隊は介入できなかった。この責任は学校でなく、そのようなシステムを形成した法律関係者や学者、そして政治家にある。
法律関係者や学者、そして政治家はおかしな競技システムを形成して、それを大和民族の日本国民に押し付けてきた。その結果、いじめ事件と自殺が発生した。もし校長や教頭が競技システムによって正当化された振る舞いを実行していたならば、彼らは批判されるべきでない。
もし弁護士が警察による学校への介入を独裁や反権力ごっこによって妨害してきたならば、彼らはこの事件の責任を明確に取る必要がある。さらに、彼らは教師による体罰も嫌ってきた。警察による介入も体罰も法律で禁止するならば、教師がいじめを罰せれなくなるのは当然である。
校長や教頭は無責任か?
今回の事件では、校長や教頭は加害者と庇ったり、いじめを隠蔽しているとみなされた。そして、彼らはこの種の行為に関して侮辱されてきた。しかし、この種の見方は一面的である。
もし子供(未成年)が善悪を判断できない未熟な対象であるならば、その時、教頭や校長は子供(未成年)も保護する必要がある。たとえ子供(未成年)が醜くいじめ加害者であるとしても。教頭や校長が善悪の判断を下せない(とされる)加害者をかばう行為の善性それ自体は現在の法制度の中では正当化される。
上記の呟きは実に的を射ている。もし大和民族の日本国民が校長や教頭の態度を気に喰わないと感じるならば、その時、彼らは子供に対する定義や認識、考え方それ自体を変更する必要がある。そして、彼らは教育システムそれ自体を変更する。