村雨辰剛は欧州人の日本国民である。村雨辰剛の人種はコーカサス人種であり、彼の小人種は欧州小人種である。彼の民族はゲルマン民族である。
以下では、俺は村雨辰剛に対する大和民族の問題点を提示するつもりである。なお、俺らはキリスト教徒でなく、かつ西洋文明に所属していない。だから、俺らは西洋的な人種差別(レイシズム)に興味を持っていない。
しかし、もし俺らがキリスト教徒であり、かつ西洋文明に所属するならば、そのとき、村雨辰剛に対する大和民族の行為は反吐が出るような人種差別(レイシズム)である。なお、俺は村雨辰剛の肉体のデザインが非常に優れていて人類最高峰であることを否定しない。実際、彼は非常にかっこいい。
人種差別(レイシズム)
人種差別(レイシズム)
人種差別(レイシズム):大和民族の白人崇拝は明確な人種差別(レイシズム)である。
大和民族の白人崇拝は明確な人種差別(レイシズム)である。そして、この種の人種差別(レイシズム)は西洋文明では悪い。具体的には、大和民族が村雨辰剛をちやほやちやほやする行為は明確な人種差別である。大和民族は村雨辰剛を「イケメン」と言ってヘラヘラニヤニヤ笑いながら持ち上げる。
大和民族はこの種の行為を人種差別(レイシズム)と認識していない。加えて、大和民族はこの種の行為の善悪を判断できない。まるで未成年が自己のいじめ行為をいじめと認識できないように、大和民族は村雨辰剛に対する大和民族の行為を人種差別(レイシズム)と認識していない。
そして、まるで未成年が自己のいじめ行為を悪いと判断できないように、大和民族は村雨辰剛に対する自己の行為を悪いと判断できない。村雨辰剛に対する大和民族の行為の大部分は「ノリ」や「雰囲気」である。
大和民族の問題点
大和民族の問題点
大和民族の問題点:大和民族はその場の「ノリ」や「雰囲気」が全てであり、西側白人による黒人奴隷やモンゴロイド人種に関する虐殺を含む歴史的な事情や文明などどうでも良い。
大和民族はその場の「ノリ」や「雰囲気」が全てであり、西側白人による黒人奴隷やモンゴロイド人種に関する虐殺を含む歴史的な事情や文明などどうでも良い。この「ノリ」や「雰囲気」はアニメにイケメンや可愛い女の子を出せばそれで良いのような非常に低俗な何かである。
例えば、村雨辰剛は西側白人である。だから、村雨辰剛は黒人奴隷やモンゴロイド人種の虐殺、アボリジニに対する虐殺に関する歴史的な責任(応答義務)を負っている。俺らがこの種の歴史的な事情を考慮するとき、俺らは村雨辰剛を気軽にちやほやしてはいけないだろう。実際、ナチスにも黒人奴隷所有者にも村雨辰剛のようなイケメンが存在したはずである。
けれども、ネグロイド人種もユダヤ教徒の白人もイケメンナチスやイケメン奴隷所有者をちやほや崇拝しないだろう。そこには、絶対に譲るべきでない非常に真剣な人間性(または人間の尊厳)が存在してきたはずである。村雨辰剛は俺らモンゴロイド人種を虐殺してきた加害者側であり、俺らによってちやほやされる対象でない。
自己の逃避
自己の逃避:大和民族は自己の人種差別(レイシズム)から逃避して、白人ごっこを繰り返している。
大和民族は自己の人種差別(レイシズム)から逃避して、白人ごっこを繰り返している。岩田健太郎や菊池誠や牧野淳一郎や押川正毅や弁護士や報道機関などの大和民族は西側白人の真似をして差別反対を掲げたり、黒人やブラック・ライブス・マターに同情したりする。しかし、本来であれば、彼らは村雨辰剛に対する大和民族の白人崇拝を人種差別(レイシズム)として強く批判する必要がある。
大和民族は幼稚な子供と同じであり、彼らは自己の問題を認識することができない。大和民族は白人のモノマネを本当に意味もわからずに繰り返す。その結果として、大和民族はネグロイド人種に同情したり、大和民族を差別主義者と糾弾し始める。
もし大和民族が本当に人種差別に興味を持っているならば、彼らは村雨辰剛に対する大和民族の態度を「人種差別(レイシズム)」や「白人至上主義」として糾弾する必要がある。けれども、大和民族は大和民族自身のこの種の人種差別(レイシズム)を糾弾しない。なぜなら、大和民族は「自己」それ自体に原初的な恐怖を感じる。大和民族は白人の真似事を繰り返して、大和民族を「差別主義者」と侮辱するとき、彼らは白人との一体感を覚えて安心感を獲得することができるように思える。
多神教
多神教:大和民族は未開の多神教のために、彼らは白人(村雨辰剛)を神様として崇拝する。
大和民族は未開の多神教のために、彼らは白人(村雨辰剛)を神様として崇拝する。白人に対する大和民族の行為は多神教の劣等な行為である。多神教の大和民族はなんでもかんでも神様と崇拝する。