意志〜自由意志と目的意志〜

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 以下では、俺は意志が何であるのかを提示するつもりである。英語では、意志は will であった。一般的に、意志は能力や力に関係する。個人的な印象では、俺は意志をやる気や念と置き換えたほうがわかりやすいように感じる。この宗教では、俺は意志を念とも呼ぶ。

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応答背景

 応答背景には、日常的な意味での意志と学術的な意味での意志が存在する。

日常的な意味

 俺は人間の意志を結婚契約や商業契約の中に見出す。例えば、俺はある客が俺が書いた10万字の長文を購入するのかどうかを知りたい。なぜなら、もしある客がその長文を購入する意志を持っていないならば、その長文は購入されないので、俺はその長文を製造する必要はない。もしその客がその長文を購入する意志を持っているならば、その長文は確実に購入されるので、俺はその長文を安心して製造する。これは製造業における商品の製造に関しても同様であるように見える。

また、もしある男性がある恋人と結婚する意志を持っていないならば、そのとき、その恋人はその男性と別れて別の恋人を探す必要がある。もしその恋人が男性の意志に無関心であるならば、そのとき、その恋人は彼女の子供を出産する機会を逃す。もしその恋人が男性の意志を知ることができるならば、その恋人は出産に関する期限を心配する必要は無くなるだろう。

このように、人間社会における日常生活では、人間は相手の意志を知る必要がある。この場合、俺は相手の意志を相手の確実な出方と解釈することができるだろう。自動車における運転においても、対向車が右折するのか、左折するのか、運転手の意志を車体の外部から探っている。言い換えると、俺は相手が何を実現するつもりであるのかを知りたい。もし俺が相手の意志を知ることができるならば、俺は客がどんな商品を確実に購入するのかを前もって知ることができるだろう。そのとき、俺は莫大な富を獲得することができるだろう。

学術的な意味

 学術的な意味とは、古代ギリシアにおける自由意志である。俺が物体の運動を観察するとき、俺は太陽の運動と動物の運動は完全には同じでないと認識する。言い換えると、俺は動物の運動は完全には自動的でないと認識する。日常的な思考の規範として、俺はもし俺が自由意志を持つならば、俺の肉体の運動は完全には自動的でないと思考する。

俺の知る範囲では、物体は完全に自動的に運動する。だから、もし俺が物体の運動を科学的な手法で調べるならば、俺は物体の将来的な運動を確実に知ることができるだろう。しかし、もし動物の運動が完全には自動的でないならば、俺は動物の運動の全てを科学的な手法で知ることができないだろう。特に、哺乳類や高等動物になればなるほど、その種の運動は完全には自動的でないように見える。

また、自由意志は自由な選択肢という意味も持つ。人間の肉体の運動は完全には自動的でない。だから、人間は自己の肉体の運動を自由に選択することができる。正確には、人間は自己の肉体の運動の方向を自由意志で自由に選択することができる。たとえば、人間はある商品bを購入するのか、購入しないのかという自由な選択肢を持つ。人間は右に行くのか、左に行くのかという自由な選択肢を持つ。

観察

 俺が人間の言語的な応答や人間の行為を見る時、俺はホモ・サピエンスと呼ばれる個体は意志を持っていないように見える。日常的な例では、ある種の生徒は勉強する意志それ自体を持っていない。たとえその種の生徒が数学を消化する能力を持っていたとしても、もしその種の生徒が数学を勉強する意志を持っていないならば、その種の生徒は数学をいつまでも理解できない。その種の生徒は数学を勉強するという選択を実行しない。その種の生徒は居心地の良い方向へと自動的に流れていく。

社会を形成する意志

 現在、日本語はカタカナ用語によって崩壊している。加えて、日本国の景観も看板や文明的な整合性の欠如によって崩壊している。しかし、大和民族の大部分はその状態を何かおかしいと認識していない。加えて、彼らはカタカナ用語を日本語へと翻訳して、日本語を形成する意志それ自体を持っていないように見える。彼らは自己の言語を形成する力を持っていないと言うよりもむしろ自己の言語を形成する意志を持っていない。たとえ俺が上記を提示するとしても、大和民族は日本は多神教だからと返答したり、俺の話を黙って消費するだけであり何もしない。

この自己の社会を形成する意志の欠如は大和民族の科学者や数学者にも観察される。彼らは自己の社会を彼ら自身で形成する意志を持っていないので、彼らは大学教員による電街の中で侮辱や中傷、大学構内での性的嫌がらせにも何の関心も持っていない。そもそも、彼らは自己の組織のホモ・サピエンスを彼ら自身で管理する意志も持っていない。だから、たとえあるホモ・サピエンスが国民に噛みつくとしても、彼らはその状態を傍観して、自分は研究さえしていれば良いと感じているように見える。

さらに、電街の中では、フェミニズムを批判するアンチフェミストと呼ばれる集団が存在する。彼らはフェミニズムの矛盾を突くだけであり、彼らは彼ら自身がどの系統の社会を実現したいのかすら彼ら自身の言葉で意思表示することができないように見える。彼らは彼ら自身が儒教系統の社会を彼ら自身で実現するつもりであると彼ら自身の言葉で意思表示することができない。アンチフェミストは何かを話しているが、彼らは彼ら自身の意志、つまり彼らがこれから何をするつもりであるのかを他者へと伝達することができないように見える。すなわち、彼らは自己の意志を持っていないので、自己の意志を他者へと伝達することができないように見える。

さらに、朝鮮民族は自己の民族的な出自や本名を隠蔽して、政治的な言動を繰り返す。大和民族は自己の宗教や自己の文明的な所属を隠蔽して、政治活動や国家統治を実行しようとする。もし俺らが他人の民族的な出自や本名、宗教や文明的な所属を知ることができないならば、俺らはまともな社会を形成することができない。けれども、大和民族も朝鮮民族は自己それ自体を隠蔽することを何かおかしいと認識することができず、かつ彼らは出自を明らかにする意志を持っていないように見える。その結果として、彼らは彼らの自己をいつまでも明らかにしようとしてこなかった。

意志

 以下では、俺は意志について考えてみる。意志には、自由意志と目的意志(実現意志)があるように見える。俺の現在の感覚では、動物の意志は動物の状態の一つであるように感じる。その状態が発現する時、その状態が力になる。俺が動物の肉体を車体と例えるとき、肉体の中の自己が車体の中の運転手それ自体である。この時、視界を含む意識は車体の中の画面やホログラムに対応する。ただし、脳を持つ任意の動物が運転手を肉体の中に持つのかは俺にとって未知である。

自由意志(Free will)

Free will is the capacity of agents to choose between different possible courses of action unimpeded

https://en.wikipedia.org/wiki/Free_will

 俺は英語を読むことができないが、自由意志とは、妨害されない行為から異なる可能な行為の方向を選択する主体の能力であるように見える。例えば、実験において主体の身体が拘束される時、その主体は立つという行為をその妨害のために選択することができない。だから、その場合を排除したいので、妨害されない(unimpeded)という単語が使用されたように見える。また、たとえ俺が自由意志を持つとしても、俺は空を飛ぶことができない。その場合を除外するために、可能な方向(possible courses)という単語が使用されたように見える。さらに、もし俺が選択することができる行為の数が一つであるとき、たとえ俺が自己の行為を選択したとしても、第三者は俺にによる行為の選択を強制から区別することができない。だから、その場合を除外するために、異なる(different)が使用されたように見える。

例えば、ある主体が道路を左折するか、右折するかを選択した。その時、その主体は自由意志を持つ。もしその主体が道路を左折するか、右折するのかという自由な選択肢を持たないならば、たとえその主体が右折したとしても、その右折は機械のようにプログラムに沿って完全に自動的に運動する。異なる可能な方向(different possible courses)が右折か、左折である。その際、行為は妨害(unimpeded)されないので、右折するか、左折するのかは異なる車体や交通整備の人物によって妨害されない。

上記の異なる解釈として、次の文章がある。それは俺の肉体の運動は完全に自動的に運動するのかである。もし俺の肉体が完全に自動的に運動するならば、俺は俺の肉体の運動の方向を俺の自由意志で選択することができない。もし俺が俺の肉体の運動の方向を俺の自由意志で選択することができるならば、俺の肉体は完全には自動的に運動しない。だから、俺は俺の肉体が完全に自動的に運動する、または俺が俺の肉体の運動の方向を俺の自由意志で選択することができるのどちらかを証明する必要がある。

 俺が自由意志を考えるとき、俺はホモ・サピエンスを含む動物の自由意志を考える。俺が動物の運動を観察するとき、俺は動物の運動は完全には自動的でないと認識する。もし動物の運動が完全には自動的でないならば、動物を非自動的に運動させる力の存在が仮定される。さらに、もし力が意志の発現であるならば、動物の肉体を非自動的に運動させる意志の存在が仮定される。俺は自由意志をこの解釈からも捉える。この時、俺は次の定義を得る。

定義 自由意志とは、肉体の自動的な運動を非自動的な運動へと変化させる能力である。

自由意志の発現が自由力である(俺の便宜的な造語)。自由力は肉体の自動的な運動を非自動的な運動に実際に変化させる。自由力とは、ある主体が肉体の自動的な運動を非自動的な運動に実際に変化させる運動である。例えば、ある主体が道路を直進している。俺はこの運動を慣性の法則で捉える。この時、その主体の直進運動は自動的に継続する。もしある主体が自由意志を持つならば、その主体は自己の自動的な直進運動を非自動的な運動へと変化させることができる。氷の上や宇宙空間の中では、その主体は自動的な運動を非自動的な運動へと変化させることが難しい。

俺の宗教的には、肉体の中の運転手や視界を始めとする意識がこの能力を持っている。動物は運転手や意識を自己の肉体の中に持つので、彼らは自己の肉体の自動的な運動を非自動的な運動に変化させることができる。俺の思考的規範として、俺はもしある主体が自己の意識を持つならば、その主体は自由意志を持つと感じる。

この解釈では、密猟による象の牙の退化電飛は次のようになる。アフリカでは、象が密猟される。なぜなら、象の牙は高価であるので、人々が密猟を儲けのために実行する。その結果として、牙を持たない象が生き残った。生物学では、密猟による象の牙の退化はこのように解釈される。目的論的には、象は密猟による殺害から逃れるために、象はその牙を退化させた。俺はこの現象を次のように解釈する。象は牙が生えるという自動的な運動を牙が生えないという非自動的な運動に象の自由意志で変化させた。象は牙を目的を持って変化させたのでなく、象は非自動的な運動を実行した。その内の一つが牙の退化であった。その非自動的な運動を実行した象のみが生き残った。

目的意志(実現意志)

 上記の自由意志に加えて、高等動物の運動はより目的的である。例えば、ホモ・サピエンスは罠を仕掛ける。この目的とは、獲物が罠にかかることである。人間社会では、人間の一部は男女平等を善と判断して、彼らは男女平等を実現しようとする。これらの運動は自動的でなく非自動的に見える。上記における象の運動と異なるのは、運動の目的の有無である。その象はその牙を退化させるために運動していない。象は自動的な運動を非自動的な運動に変化させた結果、その牙が偶然に退化した。

 定義 目的意志とは、非自動的な運動を目的的な運動に変化させる能力である。

目的意志の発現が目的力である(俺の便宜的な造語)。目的力は肉体の非自動的な運動を目的的な運動に実際に変化させる。目的力とは、ある主体が肉体の非自動的な運動を目的的な運動に実際に変化させる運動である。人間は自己の肉体の運動を自動的から非自動的に自由意志で変化させる。さらに、その人間は自己の肉体の運動を非自動的から目的的に目的意志で変化させる。

例えば、俺が身長を含む肉体のデザインを発展させたいとする。当然、たとえ俺が俺の肉体を自動的に運動させるとしても、俺の肉体のデザインは改善されない。また、日常的な感覚では、たとえ俺が自己の肉体の運動を自動的から非自動的に自由意志で変化させるとしても、俺は俺の肉体のデザインを発展させることができない。なぜなら、俺は実現したいデザインを明確に定めていない。俺はどのようなデザインを善と判断するのかをきちんと定めた後、俺はそのデザインを実現しなければいけない。この時、俺は自己の肉体のデザインを非自動的な運動から目的的な運動へと変化させる。その後、俺は俺の肉体のデザインを改善させることができる。

宗教的には、何がそれらの能力を持つのかが興味深い。肉体それ自体は機械的な物質であり、それは完全に自動的に運動する。だから、肉体それ自体は自由意志や目的意志といった能力を持たない。もし意識が自由意志を持つならば、運転手が目的意志を持つ。もし運転手が自由意志を持つならば、運転手が目的意志を持つ。俺は自由意志を持つ運転手を自由運転手と呼ぶ。俺は目的意志を持つ運転手を目的運転手と呼ぶ。この時、たとえ俺が動物の肉体の中の運転手が人間の肉体の中の運転手と異なるのかどうかを審判することができないとしても、俺は運転手の種類を肉体の運動から把握することができる。ただし、もし運転手が遺伝子と対応しないならば、動物の運転手は同じであるが、遺伝子という条件や必要のために、動物の運転手は目的運転手のように振る舞わない。当然、俺が病気になる時、部外者は俺の運転手が目的運転手のように振る舞わないと認識する。

電飛

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