人種と運転手の種類

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 以下では、俺は人種と運転手の種類について述べるつもりである。もし俺の運転手が自然界や俺の人種に依存するならば、俺の運転手はモンゴロイド人種である。この時、俺の運転手は雄である。また、俺は運転手の年齢を定義することができるので、20代における運転手は30代における運転手に一致しない。この思考の規範は正しいのだろうか?

人種と運転手の種類

 以下では、俺は人種と運転手について述べるつもりである。確実なのは、運転手の存在は肉体の存在に存在的に対応している。けれども、運転手の種類は肉体の種類に対応していない可能性がある。つまり、運転手は存在を持つが、存在しているという存在状態以外の状態を持たない可能性がある。

思考の規範

 俺系統の認識 もし運転手が肉体の人種や性別に対応するならば、運転手の種類が存在する。

 ある主体の人種がモンゴロイド人種であった。その時、その主体の運転手の種類はモンゴロイド運転手種である。同様に、ある主体の性別が雄であった。その時、その主体の運転手の性別は運転手雌である。運転手は肉体の遺伝子に対応している。個人的な印象では、ホモ・サピエンスの雄の運転手はホモ・サピエンスの雌の運転手に一致しないように見える。それに対して、運転手にも人種が存在するのは少し直感に反するように見える。

 俺系統の認識 もし人種に関する運転手の種類が存在するならば、運転手の種類の中間が存在する。

 ある主体の人種がモンゴロイド人種とコーカサス人種の中間種であった。この時、その主体の運転手の種類はモンゴロイド運転手種とコーカサス運転手種の中間運転手種である。さらに、俺は運転手の分割を定義することができる。その中間種の半分はモンゴロイド運転手種である。直感的には、俺は運転手それ自体を割ることができないように見える。ここからここまでの運転手はモンゴロイド人種であると言われても、俺は想像できない。

しかし、俺が肉体の種類に対する運転手の依存性を考えるとき、俺は運転手の割り算を定義することができるようになる。同様に、もし運転手が肉体の年齢に対応するならば、俺は運転手の年齢も定義することができる。もし俺が上記の思考の規範を採用するならば、俺はホモ・サピエンスの運転手の種類を動物の運転手の種類から区別することができる。

また、もし運転手の種類が存在するならば、その種類は脳に依存しているのか、肉体全体に依存しているのかと言う疑問が生じる。脳の形や構成要素の数や配置が運転手の種類を導いているのかと言う疑問も生じる。自然界の最小単位の数がnの時、運転手の種類もn以上であるか、その組み合わせの数だけ存在するように思える。

別の考え

 異なる考えとしては、運転手の種類は1である。しかし、運転手が対応する肉体が異なるので、肉体の運動の振る舞いが異なる。運転手の存在は肉体に対応するが、運転手の種類は肉体の種類に対応しない。例えば、犬の運転手はホモ・サピエンスの運転手に等しい。しかし、犬の肉体には、条件や制限があるので、犬はホモ・サピエンスのように運動しない。

この場合、犬を殺すことはホモ・サピエンスと同じ運転手を殺すことである。もしある主体が自己の視界を持つならば、その主体は自己の運転手を持つと仮定する。その時、ハエを殺すことはホモ・サピエンスと同じ運転手を殺すことである。

運動による分類

 また、俺は運動による運転手の分類を思考することができる。ある運転手の肉体が非自動的に運動するとき、俺はその運転手を非自動運転手と呼ぶ。ある運転手の肉体が自由に運動するとき、俺はその運転手を自由運転手と呼ぶ。ある運転手の肉体が目的的に運動するとき、俺はその運転手を目的運転手と呼ぶ。上記では、肉体による束縛を考慮しなかった。自由に運動は運転手の自由意志による運動である。目的的に運動は運転手の目的意志による運動である。

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