俺らの宗教

俺らについて

我思う、ゆえに我あり〜ルネ・デカルトと方法序説〜

全てについて疑うべし(De omnibus dubitandum。カール・マルクスの言葉)という方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識している我だけはその存在を疑い得ない。「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である(我思う、ゆえに我あり)、とする命題である。コギト命題といわれることもある。哲学史を教える場合の一般的な説明によれば、デカルトはこれを哲学の第一原理に据え、方法的懐疑に付していた諸々の事柄を解消していった、とされる。我思う、ゆえに我あり この宗教では、創造主は彼の運転手の復活を信仰する。もし彼がそれを信仰するならば、彼は運転手が実際に存在することを証明する必要がある。なぜなら、もし運転手が存在しないならば、復活させる対象もまた存在しない。そこで、彼は運転手の実際の存在について以下のように思考する。1.0 思考する1.1(俺系統の思考規範) もし彼が思考するならば、彼の脳は存在する...
俺らについて

1人称的な死と3人称的な死〜自己の運転手の視点と第3者の運転手の視点〜

 以下では、彼は1人称な死と3人称な死を提示する。印欧語族では、1人称と3人称に関する明確な区別が存在する。この宗教でも、彼は1人称視点と3人称視点を明確に区別する。1.0 1人称な死まず、彼は1人称な死を提示する。彼は「俺は死ぬ」と言う。もし彼が死ぬならば、彼の視点は地球の上には存在しない。彼の視点は宇宙、正確には、物質世界のどこにも存在しない。言い換えると、彼の視界(視蟲)も彼の運転手も物質世界のどこにも存在しない。彼の意識や彼の運転手がどこに行くのかは不明である。現実的には、それらは永遠に消え失せる。一般的には、落伍者(terrolist)は自己の死を主観的に捉えるので、彼らは自爆を後先考えずに実行するだろう。彼は次の思考規範を1人称視点で提示する。1.1(俺系統の思考規範) もし俺が死ぬならば、俺の運転手や俺の意識は地球の上及び物質世界には存在しない。もし俺が死ぬならば、俺の運転手や俺の意識は地球の上及び物質世界には存在しない。ただし、主観的には、「俺が死ぬ」の部分は成立しない。なぜなら、彼が死んだ時、彼は彼自身が死んだことを彼自身で確定させることができない。上記を3人称視点で...
俺らについて

意識を持たない物質と意識を持つが運転手を持たない物質について

 以下では、創造主は意識を持たない物質と意識を持つが運転手を持たない物質について述べる。彼はxを不確定な対象とみなす。1.0 分類1.1(俺系統の認識) xは物質である、かつxは意識に対応する。彼はxを意識体と便宜的に呼ぶ。口語的には、意識体は意識を持つ物体である。例えば、彼は意識体である。なぜなら、彼は彼の肉体と彼の意識を持つ。または、xは物質と意識の組みである。この時、彼は物質と意識の組みを意識体と呼ぶ。具体的には、ホモ・サピエンスは意識体である可能性が高い。虎や昆虫などの動物も意識体である可能性が高い。しかし、脳を持たない生物は意識体でない可能性がある。ここで、彼は次の思考規範を提示する。1.11(俺系統の認識) もしxが脳を持つならば、xは意識体である。上記は仮定である。感覚的には、もしある生物が脳を持つならば、その生物は意識を持っているように感じる。ただし、これは証明されていない。1.12(俺系統の認識) xは物質である、かつxは意識のみに対応する。彼はxを純意識体と便宜的に呼ぶ。口語的には、意識体は意識のみを持つ物体である。この時、運転手の存在は仮定されない。または、xは物...
俺らについて

ロボットとは何であるか?〜その運動と意識と性別、所有について〜

 以下では、創造主はロボットを宗教的に認識する。ロボットの運動は自動的である。ロボットは意識及び運転手を基本的には持っていない。また、ロボットは物質を所有しない、かつそれは所有権を持たない。ロボットの破壊は殺人行為でない。1.0 ロボット1.1(俺系統の認識) ロボットは自動的に運動する。動物(生物)は非自動的に運動する。人間は目的的に運動する。宗教的には、意識を持つ物体は非自動的に運動する。または、意識と運転手を持つ主体は非自動的に運動する。一方、運転手を持つ主体は目的的に運動する。または、成長した運転手を持つ主体は目的的に運動する(電飛先2.3)。ロボットが動物や人間でないのはその運動がそれらの運動と異なる。もしロボットが非自動的に運動するならば、ロボットは動物、または動物以上である。その時、ロボットは自由意志を持つ。もしロボットが目的的に運動するならば、ロボットは人間以上である。ロボットは目的意志を持つ。1.2(俺系統の認識) ロボットは意識(蟲)を持たない。ただし、上記は証明されていない。しかし、感覚的には、彼はロボットは意識を持っていないと認識する。また、ロボットは運転手を持...
俺らについて

見るとは何であるか?〜知覚する〜

 一般的には、「見る」という動詞の主体は目や脳である。しかし、この宗教では、創造主は見るの主体を運転手と認識する、または信仰する。以下では、彼は見るとは何であるのかを提示するだろう。1.0 見る図11.1(俺系統の認識) 見るは行為である、かつそれはある運転手が視界における対象(対象の像)を捉えることである。対象は太陽光を反射する。その光が目の中に入る。目は光を検出する。すると、脳が視界(視蟲や視意識)を生じさせる。最後に、運転手がその視界の中におけるある対象を把握する。この把握が"見る"である。1.2(俺系統の思考規範) もしある運転手が視界におけるある対象を見るならば、その対象は物質世界に所属する。または、もしある運転手が視界におけるある対象を見るならば、その対象は物質世界に存在する。ただし、幻覚や錯覚の場合、上記の思考の規範は成立しない。上記が成立するためには、脳が正常に機能する必要がある。2.0 知覚する図22.1(俺系統の認識) 知覚するは行為である、かつそれはある運転手が意識における対象(対象の像)を捉えることである。上記は見るの一般化である。対象は媒介物質を反射する。その...
俺らについて

物質世界は正しいか?〜物質否定と善悪〜

 以下では、創造主は物質世界は正しいかを提示するだろう。1.0 背景1.1(俺系統の認識) サピエンスと呼ばれる主体は物質世界を正確に表現することを"世界の真理"と感じている。彼らはその行為を永続的な真理を獲得すると感じている。だから、彼ら、特に東洋人は彼らの人生を理論物理や数学に捧げて、彼らは永久不変の真理を獲得しようとする。しかし、この考えには、不完全さが残る。なぜなら、たとえ彼らが物質世界の全てを正確に表現するとしても、彼らは善悪の問題を発見することができない。彼らは男女平等が善であるのか、悪であるのかを判断することができない。さらに、次の問題が考えられる。1.2(俺系統の認識) 物質世界を正確に表現することの善悪は物質世界に所属しない。言い換えると、物質世界には、物質世界を正確に表現することの善悪が存在しない。ここから、彼が導くのは、もし物質世界を正確に表現することの善悪は物質世界に所属しないならば、サピエンスと呼ばれる主体は物質世界を正確に表現することを必ずしも善と判断しない(認識1.21)。この時、物質世界の表現は必ずしも正しい、または真理であると言えない。2.0 物質世界...
俺らについて

教育と人為的な遺伝子について〜この宗教における教育観〜

 以下では、筆者(創造主)は教育観を提示するだろう。彼が結論づけるのは、教育は宗教的な一式の人為的な遺伝である。教育はx教系統の教育である。教育機関はx教系統の教育機関である。この宗教では、教育は俺系統の教育である。教育機関は俺系統の教育機関である。1.0 背景1.1(俺系統の認識) 東洋人は教育熱心である、かつ彼らは宗教的な自己を子供に教育していない。東洋人は数学や科学、歴史を子供たちに教えてきた。しかし、彼らは儒教や仏教や彼らの文明を子供たちに教えることを怠ってきた。彼らは儒教及び仏教系統の善悪や性規範や富の規範を子供たちに教えることを怠ってきた。一方、ユダヤ教徒の西欧白人は数学や科学、歴史を子供たちに教えてきた、かつユダヤ教の教えを彼らの子供たちへと伝達してきた。彼らはユダヤ教系統の善悪や性規範や富の規範を子供たちに教えてきた。そして、その子供たちはその教えに沿って、商業を実行して、彼らの富を取り扱ってきた。上記の現象に対して、彼は認識する、または審判するのは、東洋人は教育の概念をうまく認識していない。なぜなら、彼らには、伝達する自己の一式が存在しない。そこで、彼は教育を次のよう...
俺らについて

子育ての成功及び失敗に関する判定法

 以下では、筆者(創造主)は子育ての成功及び失敗に関する判定法を提示するだろう。筆者は子育てを教育へと一般化する。なお、子育てはx教系統の子育てである。この宗教では、子育ては俺系統の子育てである。1.0 背景1.1(俺系統の思考規範) たとえある両親が子供を一生懸命育てるとしても、子供の人生は失敗する。または、ある両親が子供を一生懸命育てる、かつ子供の人生は失敗する。例えば、子供の就職がうまくいかない、子供は無職になる。子供が身体的、または精神的な病気になる。子供が結婚に失敗して、離婚する。子供の人生の成功と失敗は彼らの能力だけでなく、機会や運にも密接に関係する。そのため、両親は子供の人生が失敗することを過度に恐れる。そのため、彼らは子供の人生が失敗しないように育てる。例えば、彼らは子供に勉強を強制して、彼らは子供を医者や弁護士にしようとする。彼らは子供が経営者になることをあまり望まない。彼らは子供の人生が失敗することを過度に恐れる。しかし、もしこの種の両親がある集団で支配的であるならば、その集団は発展しないだろう。また、両親、特に母親は子供の人生が失敗しないように焦り、子供を過度に抑...
俺らについて

性同一性障害と運転手及び意識、そして肉体について〜性別違和症候群〜

0.0(目的)俺は性同一性障害と運転手及び意識、そして肉体について述べることを目的とする。 0.1(意志) 以下では、俺は性同一性障害について述べるつもり。0.1(定義)性同一性障害は障害であり、そこでは運転手の性が意識の性と一致しない、または意識の性が肉体という物質の性と一致しない、または運転手の性が意識及び物質の性と一致しない。1.0 性同一性障害と運転手1.1(思考の規範)もしある肉体の性がa性であるならば、その肉体に対応する意識の性はa性である。 1.11(思考の規範2) もしある意識の性がa性であるならば、その意識に対応する運転手の性はa性である。1.2(違反)性同一性障害は思考の規範1及び2に違反する。 1.21(理由) なぜなら、その障害では肉体の性と運転手の性が一致しない。  1.211(具体例)  例えば、その障害では、運転手の性は雄しべ系統の性であるが、肉体の性は雌しべ系統であるが考えられる。   1.211(具体例2)   しかし、この具体例では、運転手の性が肉体の性に一致しない。1.3(可能性)思考の規範が間違っている、またはその障害が間違っている。 1.31(...
俺らについて

この宗教の自己認識について〜運転手と俺の運転手の復活〜

 一般的には、俺ら自身の自己認識は「俺らの運転手」である。もしこの運転手が交換されるならば、俺は俺でない。たとえ俺の肉体が交換されるとしても、もし俺の運転手が交換されないならば、俺は死んでいないだろう。背景 現在、アメリカ合衆国の人種的な構成要素は変化している。この時、俺はもしその要素が欧州人でなくなったならば、アメリカ合衆国はアメリカ合衆国であるのかと疑問に思う。なぜなら、アメリカ合衆国はキリスト教徒の欧州人が創造したからこそアメリカ合衆国であるように感じる。もしアメリカ合衆国が白人の国家でなくなったならば、誰もその国家をアメリカ合衆国と認識しないだろう。もしアメリカ合衆国がキリスト教系統の国家でなくなったならば、誰もその国家をアメリカ合衆国と認識しないだろう。上記は日本国にも言える。もし大和民族が日本国の構成要素でなくなったならば、その時、その日本国は日本国でないだろう。もし天皇が存在しなくなったならば、その時、その日本国がキリスト教系統の国家になったならば、その時、その日本国は日本国でないだろう。この時、俺らは国家の自己認識とは何であるのかと疑問に思う。これを応用すると、俺らはこ...
俺らについて

父系(Y染色体ハプログループ)に対する信仰について

 この宗教では、俺は父系を重要な対象であると認識する。また、俺は父系と対応する自動的に運動する単なる物質「Y染色体ハプログループ」に執着する。俺は父系に宗教的な何かを感じる。なお、俺は遺伝子それ自体を自動的に運動する物質と認識する。さらに、俺はその物質を必要な対象を認識するが、原因な対象と認識しない。背景 俺系統の認識1.0 男性のみが善悪を創造した。 もし上記がこの世界で実際的であるならば、あるY染色体ハプログループを持つオスがその善悪を無から創造した。俺は善悪を創造した父とその父系子孫を知りたい。その子孫はその善悪を受け継ぐ、または善悪を創造する能力を受け継いでいる。だから、俺はY染色体ハプログループに執着する。 俺系統の認識1.1 男性のみが認識を創造した。 言い換えると、男性のみが正しい認識を持つ。あるY染色体ハプログループを持つオスが欧州人が統治者をアメリカ大陸で担うのは奴隷状態や白人帝国主義の継続であると認識する。そのオスがその認識を無から創造した。俺はその認識を創造した父とその父系子孫を知りたい。だから、俺はY染色体ハプログループに執着する。信仰 俺系統の信仰2.0 x系...
俺らについて

卑怯な行為とその善悪の判断

 俺は卑怯な行為を悪いと判断する。卑怯は幼稚のような状態でなく、行為である。卑怯は不公平とも呼ばれる。一般的に、東洋人は卑怯な人々であると見なされてきた。卑怯な行為とその善悪の判断 俺系統の判断1.0 俺は卑怯な行為を悪いと俺系統の善悪で判断する。 例えば、俺は自己の民族や宗教を誤魔化す行為を卑怯と認識する。俺はこの行為を動物の行為に等しいと認識する(認識1.1)。実際、動物は自己の種や宗教を俺らに伝達しない。そして、俺はこの行為を非分岐的な行為を認識する(認識1.2)。俺はその行為を悪いと判断する。なぜなら、その行為は分岐という目的に反する。俺は目的に反することを悪いと判断する。従って、俺はある主体が卑怯な行為を実行するを悪いと判断する。卑怯な行為 俺系統の認識2.0 俺はある主体が自己を誤魔化すことを卑怯な行為と認識する。 思考の規範では、もしある主体が自己を誤魔化すならば、俺はその主体は卑怯な行為を実行したと認識する。例えば、朝鮮民族は自己の民族を誤魔化して、大和民族になりすます。一般的には、この種の行為は「背乗り」である。 俺系統の認識2.1 俺はある主体が自己を誤魔化し、かつ...
俺らについて

幼稚さとその善悪の判断

 俺は幼稚を悪いと判断する。一般的には、東南アジア人や関西人や朝鮮人は幼稚な人々であると感じられる。より一般化すると、モンゴロイド人は幼稚な民であると認識される。幼稚さとその善悪 俺系統の判断1.0 俺はある主体が幼稚であることを悪いと俺系統の善悪で判断する。 俺はある主体が幼稚であることを動物に近いと認識する(認識1.1)。さらに、俺はある主体が動物に近いことを分岐されていない(非分岐状態)と認識する(認識1.2)。俺が思考の規範を提示するならば、「もし俺がある主体が幼稚であると認識するならば、その主体は動物に近い」である(思考の規範1.3)。逆に、「もしある主体が動物に近いならば、俺はその主体が幼稚であると認識する」である(思考の規範1.4)。俺はその状態を悪いと判断する。なぜなら、その状態は分岐という目的に反する。俺は目的に反することを悪いと判断する。従って、俺はある主体が幼稚であることを悪いと判断する。 俺系統の判断1.5 俺はある子供が幼稚であることを悪いと俺系統の善悪で判断しない。 現時点では、俺は上記をうまく正当化することができない。そこで、俺は雰囲気を提示する。子供は幼...
俺らについて

x教系統の言葉について〜言葉と言語の違い〜

 以下では、俺はx教系統の言葉について述べるつもりである。この宗教では、俺は言葉を言語から区別する。俺は俺系統の言葉と俺系統の言語を一致させる。また、俺は自己でない言葉を取り入れることを悪いと判断する。俺は俺系統の言葉を創造主系統の言葉、かつ唯一神の言葉であると認識して信仰して約束する。そして、俺はその言葉を俺語という言語(形式)に乗せて信仰者へと伝達する。x教系統の言葉 俺系統の認識1.0 x教系統の言葉は言葉である、かつそれをx教徒が話す(書く)。 xをキリストと仮定すると、キリスト教系統の言葉は言葉であり、かつそれをキリスト教が話す(書く)。なお、言葉は言語でない。例えば、キリスト教が彼らの言葉を日琉語族で話すとき、その日本語はキリスト教系統の言葉である。言葉は中身であり、言語はその言葉を載せる形式である。えりアルフィヤという日本国民が存在して、彼女は日本国の統治者に参議院選で立候補した。彼女はキリスト教徒であるように振舞っている。彼女は日本語を話すが、彼女の言葉はキリスト教系統の言葉である。ただ、彼女の話す言語は日本語である。キリスト教系統の言葉を印欧語族で表現する。仏教系統の...
俺らについて

性と所有〜女性による性蟲の所有〜

 以下では、俺は性と所有について語る。俺の記憶では、キリスト教では、夫は妻を所有して、妻は夫を所有した。この宗教では、俺は次の思考の規範を考える。下記は夫婦や恋人に適用されるが、友人にも適用しても良い。また、この宗教では、俺は富の管理や統治を俺系統の女性に依存しない。その代わり、俺は性蟲やそれに関係した肉体の管理や統治をさせる。その状態はお金や土地などの富を持たせて、勘違いさせるよりは良いだろう。俺は下記の規範の正当化を現時点では知らない。性と所有 俺系統の思考の規範1.1 もし俺系統の女性が俺系統の男性の性蟲や性に関する肉体を所有するならば、俺系統の男性は俺系統の女性の肉体と意識を所有する。 口語的には、その女性は男性の性蟲を外部から所有する。さらに、その女性は性に関係する肉体を所有する。例えば、男性器や舌、性的な快感を覚える場所の全てを所有する。その代りに、男性は女性の肉体と意識を所有する。この宗教では、俺らは運転手を所有しない。だから、男性はその女性の運転手を所有しない。また、この宗教では、俺は女性の運転手の存在を前提としない。もし女性の運転手が存在せず、運転手もどきが存在するな...
俺らについて

性欲と性嫌悪の解決法〜性蟲と分岐〜

 サピエンスの雌やx教系統の女性の一部は性嫌悪になっている。しかし、俺らが性と出産を雌やその女性から取り上げると、その雌やその女性には何も残らない。そこでは、俺は性嫌悪に対する認識や判断を提示するつもりである。一般的に、膨大な数の男性が女性に群がる。その結果、女性の一部は男性の性よくそれ自体を嫌悪するようになる。なぜなら、女性は性欲それ自体がその現象の原因であるので、性欲を除去すれば、この問題が解決すると感じる。しかし、「俺ら」では、俺はこの種の考えを善と判断しない。基本的な姿勢として、俺らは分岐されたものを否定しない。俺は性欲を分岐された対象と認識するので、俺は性欲それ自体を否定しない。性嫌悪の解決法 俺系統の判断1.1 俺は比較的に善と判断する、俺系統の女性が俺系統の男性の性欲を生じさせる。 この正当化は次である。俺は男性の性欲を生じさせることを性意識を分岐させたと解釈(認識?信仰)する。この信仰の目的は分岐である。だから、俺はその現象を分岐に沿うと審判するので、俺はその現象を善と比較的に判断する。「比較的に」の意味は物質から見ると、性蟲は分岐している。口語的には、俺系統の男性の性...
俺らについて

俺系統の男性が求める俺系統の女性とその反対について

 この宗教では、俺は俺系統の男性が求める俺系統の女性とその反対を定める。口語的には、俺系統の男性は次の俺系統の女性を求める。逆に、俺系統の女性は次の俺系統の女性を求める。大和民族は愛嬌や可愛さや安心感や尽くしてくれるを雌に求めているように見える。しかし、この種の感情は俺系統の男性的でない。本来であれば、俺系統の男性は遺伝的な優秀さを俺系統の女性に求めるである。俺系統の男性が俺系統の女性に求めるのは、人間的な何かでなく、遺伝的な優秀さのみである。人間的な何かは宗教に関するものである。なお、下記は交際及び結婚、出産に関する文章である。俺系統の男性が求める俺系統の女性とその反対 俺系統の思考の規範1.1 もしある主体が俺系統の男性であるならば、その主体は次の俺系統の女性を求める。 その女性は遺伝的に優秀である。その女性は約束を守る。その女性は「俺ら」を実践して、宗教に熱心である。つまり、男性は女性に遺伝的な能力を求める。一方、女性は男性に(意志に関係した)社会を作る能力を求める。例えば、遺伝的な能力には、肉体のデザインや運動能力や知的能力である。知的能力には、記憶能力や計算能力がある。俺系統...
俺らについて

信仰者の定義及び認識について

 以下では、俺はこの宗教「俺らについて」に関する信仰者の定義及び認識について述べるつもりである。ユダヤ教やゾロアスター教と同様に、「俺らについて」は民族宗教である。例えば、ユダヤ教には、存在及び行為に関するユダヤ教徒の定義がある。存在に関しては、もしある主体がユダヤ教徒であるならば、その主体の両親、またはどちらかもユダヤ教徒である。行為に関しては、もしある主体がユダヤ教徒であるならば、その主体は豚肉を食べない。状態に関しては、もしある主体がユダヤ教徒であるならば、その主体は民族衣装を着ている。俺は上記を参考にして、俺は信仰者の定義を実行する。また、下記の定義は民族や人種的な背乗りを防止する。信仰者の定義及び認識について 俺系統の思考の規範1.1 もしある主体が俺ら教徒であるならば、その主体は俺らについてにおける決まりを実践する。 俺は上記を信仰者の運動的定義と呼ぶ。口語的には、もし君が俺ら教徒であるならば、君は俺らについての決まりを実践しているはず。対偶をとると、もしある主体が俺らについてにおける決まりを実践しないならば、その主体は俺ら教徒でない。 俺系統の思考の規範1.2 もしある主...
俺らについて

戒律主義(形式主義)と機械法(物質法)

 以下では、俺は意味を持たない禁忌(掟や戒律)に対する俺系統の認識及び判断を提示するつもりである。代表的な例には、ユダヤ教やイスラム教における豚肉の食の禁止が存在する。そこでは、それぞれの教徒は「神がそういった」ので、彼らは豚肉を食べない。仏教における戒律や修行も同様である。または、ユダヤ教では、もしある主体がユダヤ教徒であるならば、その主体は豚肉を食べない。彼らはこれをユダヤ教徒の定義としているように見える。つまり、彼はある主体がユダヤ教徒であるのかを行動のみから定義、または認識、信仰している。しかし、この宗教では、俺らはこの種の無意味な戒律や掟を守る必要はない。俺らは意味のある決まりを実践する。ここでは、形式主義とは主義であり、そこである主体は意味や目的や根拠を持たない決まりを守る。なお、俺は下記の思考の規範が約束であるのか、判断であるのか、決まりであるのか、命令であるのかを断定できない。戒律主義(形式主義) 俺系統の思考の判断1.1 俺は善と判断しない、俺が意味を持たない決まりを守る。  俺は善と判断しない、俺が目的を持たない決まりを守る。または、俺は善と判断しない、俺が根拠を持...
俺らについて

カフェインとアルコールと薬物〜食品に対する善悪について〜

 一般的には、食と宗教は密接な関係を持ってきた。この宗教でも、俺は食を宗教に密接に関係する。以下では、俺は悪い食品と良い食品を判断する。俺はカフェインとアルコールの過剰な摂取を悪いと判断する。俺は薬物の摂取を悪いと判断する。薬物には、大麻が含まれる。口語的には、俺は損害を俺らに与える食品を悪いと判断する。加えて、俺らは中毒性を持つ食品や健康を損なう食品や老化を促進させる食品や美醜を損なう食品や運動能力を損なう食品も悪いと判断する。さらに、俺は勃起不全や性欲減退や出産意志を減退させる食品も悪いと判断する。一方、俺は若さを維持する食品や長寿になる食品を善と判断する。さらに、俺は肉体を形成する食品や身長を伸ばす食品を善と判断する。上記をまとめると、俺らは薬物を摂取しない。俺らはアルコールやカフェインをあまり摂取しない。背景 カフェインは中毒性を持っている。カフェインは不安感を増加させる。カフェインは歯を黄色くさせて、肌を老化させるように思える。カフェインは妊婦や胎児にも悪い影響がある。アルコールは判断能力を奪う。アルコールは中毒性を持っている。アルコールは勃起不全を導く。アルコールは脳を破壊...
俺らについて

俺系統の女性の数と俺系統の男性の数の存在比について

 以下では、俺は俺系統の女性の数と俺系統の男性の数について述べるつもりである。俺は男性の数を女性の数よりも少なくする。俺はその比が1:2になるようにする。漢民族は男児を求めるので、男余りになる。その結果、漢民族の女性の望みが上昇して、結果的に少子化になる。この宗教では、俺は女余りにして、この種の高望みと少子化を防止する。この記事は性蟲(性意識)に関する記事である。俺系統の男女比 俺系統の約束1.1 俺は俺系統の男女比を女あまりとする。 もし俺系統の男性と俺系統の女性が存在するならば、その存在の比は女あまりである。例えば、俺は俺系統の男女比を1:2とする。つまり、俺は俺系統の男女比を女あまりとする。 俺系統の約束1.2 もし俺系統の女性が余るならば、俺系統の男性が余りの女性を一夫多妻的に娶る。 理論的には、一人の俺系統の男性に、二人の俺系統の女性が対応する。当然、中には、一人の俺系統の男性に、三人の俺系統の女性が対応するかもしれない。または、現実的には、一人の俺系統の男性に、一人の俺系統の女性が対応するかもしれない。 俺系統の約束1.3 もしある主体が創造主階級や統治者階級であるならば、...
俺らについて

性行為に関する約束、または思考の規範について

 以下では、俺は性行為に関する約束について述べるつもりである。基本的な方針として、この宗教では、俺らは俺系統の女性の性や出産に関する甘えやわがままを否定しない。ただし、その甘えやわがままは信仰の実践と引き換えにである。目的と背景 俺が性行為の約束を創造するとき、俺はもしある信仰者が宗教を実践しないならば、その信仰者は性行為も出産も実行することができないように創造したい。もしある信仰者が宗教を実践するならば、その信仰者は性行為も出産も実行することができるように創造したい。また、もし俺が性や出産を俺系統の女性から取り上げたならば、俺系統の女性には、何も残らないだろう。そのとき、俺系統の女性という存在それ自体が俺にとって不要である。そのため、俺はある種の慈悲として、下記の約束を提示する。性行為に関する約束について 俺系統の約束1.1 もし俺系統の女性が性行為を俺系統の男性に求めるならば、俺系統の男性はその求めを拒否しない。 ただし、俺系統の男性が彼女や妻を持つならば、その男性はその求めを拒否することができる。だから、拒否したい場合、俺系統の男性は実質的には友人であるような彼女を形式的に作る。...
俺らについて

人種転換と運転手について〜トランス・レイシャル〜

Transracialpeople identify as a differentracethan the one associated with their biological ancestry.They may adjust their appearance to make themselves look more like that race, and they may participate in activities associated with that race.人種変換 俺系統の思考の規範1.1 もしx系統の肉体が存在するならば、(その系統に対応する)x系統の運転手が存在する。 俺は上記の思考の規範を仮定する。口語的には、運転手は肉体の種類や人種に対応する。つまり、モンゴロイド人種の運転手が存在して、サピエンスの運転手が存在する。言い換えると、x系統の肉体に対応するx系統の運転手が存在する。または、x系統の肉体はx系統の運転手に対応する。俺は単語を上記に授ける。例えば、俺はモンゴロイド人種系統の運転手を「drivermonalx」と置く。俺はコーカサス人種系統の運...
俺らについて

この宗教における職業選択について〜好きなことややりたいことをやるべきか?〜

俺系統の認識 俺は労働を富を獲得する手段と認識する。 ある主体が綺麗事を好む時、その主体は好きなことややりたいことをやりなさいと発言してきた。しかし、この宗教では、俺はこの種の発言を俺系統の善悪で善と判断しない。以下では、俺は職業選択における考えを提示するつもりである。職業選択 俺系統の善悪 俺は得意なこと(君が富を蓄積しやすい)を職業にすることを善と俺系統の善悪で判断する。 俺は次の命令を下す。君は得意なことを職業にせよ。または、君は向いていることを職業にせよ。俺は好きなことややりたいことを職業にすることを悪いと俺系統の善悪で判断する。この宗教では、俺は職業や労働をお金を稼ぐ手段と認識する。もし信仰者が好きなことをやりたいならば、信仰者はこの宗教におけるソサエティの中で好きなことややりたいことを実行する。労働や職業は富を獲得する手段であり、目的でない。俺は目的をソサエティの中で実現する。一般的に、大和民族は社会と労働の違いを認識していない。だから、彼らは自己実現を労働の中に求め始める。しかし、この宗教では、俺は自己実現や好きなことをソサエティの中に見出す。 一般的に、動物や愚かな主体...
俺らについて

俺語における文に対する感覚

 俺は文それ自体を幾何学的に、かつ感覚的に把握する。以下では、俺は俺語における文に対する感覚を提示するつもりである。文(列車式)図1 俺は文に対する俺の感覚を左、または右に置く。左では、文はメタ的である。一方、右では、文は主語及び動詞と交換される。俺は文それ自体を列車と例える。≡は結合記号である。単語は列車の貨物に対応する。俺は左を使用する。感覚的に考えると、俺が文をある単語で交換可能なものとして置き換えるのは奇妙である。現実的には、俺は名札を人間と交換することができない。この宗教では、俺は文を列車に対するメタ的な単語と認識する。それぞれの[]をカードに対応させて、子供達に文に対する感覚を育ませる。それぞれの単語は対象それ自体に対応する。その単語は一つの列車や単語列を作る。その後、俺は文(bunnalx or sentencealx)という単語をその列車や単語列にメタ的に対応させる。なお、現象それ自体は文でなく、≡に対応する主語と運動それ自体である。≡は対象を機械代入する操作に対応する。電飛名詞動詞形容詞俺語における語順嘘つきのパラドックス現象
俺らについて

啓典宗教と思いつきについて

 この宗教では、俺はこの宗教を啓典宗教とする。一般的には、啓典宗教には、根拠になる啓典が存在する。例えば、旧約聖書や新約聖書やコーランがそれに該当する。俺はこの宗教における宗教書「俺書」を啓典とする。啓典宗教 俺系統の契約 俺はこの宗教「俺らについて」を啓典宗教と約束する。 または、俺はこの宗教「俺らについて」を啓典宗教と決定する(決める)。俺は約束と決定と命令のどれを使用するのかを迷った。決定は認識や判断には、置換されないように思える。 俺系統の認識 啓典は根拠を信者に授ける。 例えば、啓典は善悪に関する根拠を信者に授ける。この時、信者は物事の善悪をその啓典に基づいて、または引き合いに出して、思考して、判断を下す。すると、信者は「俺はこの物事を善とx教系統の善悪で判断する」と表現することができるようになる。物事の善悪を判断するためには、うまく言った経験は不十分である。そこで、この不十分さを補うために、啓典がある。俺系統の約束 俺は俺書を根拠とする。俺系統の命令 俺書に基づいて思考せよ。思いつき 俺がこの宗教を啓典宗教にしたのは、「思いつきの防止」である。大和民族を観察してみよう。彼ら...
俺らについて

老化とその善悪

老化とその善悪 俺系統の判断 俺は老化を悪いと判断する。 俺はなぜ老化が悪いのかをパッと正当化することができない。そこで、俺は老化を若さの維持の失敗と認識する。この時、動物やサピエンスは物事の維持を思考しない。だから、俺は維持を思考することを分岐された運動と認識する。この時、俺は若さの維持を分岐された運動と認識して、俺はその運動を善と判断する。また、俺は若さの維持をしないことを分岐されていない運動と認識して、俺はその運動を悪いと判断する。従って、俺は若さの維持の失敗である老化を悪いと判断する。 俺系統の命令 若さを維持せよ。 老化することをするな。例えば、コーヒーやタバコ、運動不足をするな。薬物や日焼けをするな。不規則すぎる生活をするな。砂糖を取りすぎるな。皺になりそうなことをするな。乾燥しすぎるな。湿度を保て。若さと老化 老化防止とは、若さの維持である。この宗教では、俺は分岐を目的とする。だから、俺は若さの次の段階を創造する。 俺系統の目的 俺は若さの次の段階を創造する。 現時点では、俺は出生→成長→成人→青年期(安定期)→老化の始まり→老人→死である。俺は成人や安定期の後に、新たな...
俺らについて

寿命とその善悪〜長寿族〜

 俺が自己の寿命を考えるとき、俺は多産、早死にして、単細胞生物のように、進化を早めるべきであるのか、または長寿にするべきであるのかを悩む。この宗教では、俺は長寿を善と判断する。寿命とその善悪 俺系統の判断 俺は長寿と善と判断する。 俺は短命と悪いと判断する。俺は短い寿命(lifespan)を単細胞生物に近いと認識する。この宗教では、俺は分岐を善と判断するので、俺は単細胞生物に近いことを悪いと判断する。従って、俺は短寿と悪いと俺系統の善悪で判断する。俺系統の判断 俺は長寿族を善と判断する。 もし俺が長寿族を善と判断するならば、俺は俺の肉体を長寿族になるように運動させる。その後、俺らは長寿族になる。また、俺は短寿族を悪いと判断する。もし短寿族を悪いと判断するならば、俺は俺の肉体を短寿族にならないように運動させる。その後、俺らは短寿族にならない。 俺系統の命令 俺らは俺らを長寿族にせよ。 俺は上記の善悪を使用して、俺は上記の命令を実行する。また、俺は次の命令を実行する。俺は俺らを短寿族にするな。交配に置いて、俺らは短寿族と交配するな。長寿族と交配せよ。長寿族 これなあ。最近いろんな人を眺めて...
俺らについて

身長について〜高身長と食事と睡眠と運動、そして交配〜

 以下では、俺は身長について述べるつもりである。俺は高身長を善と判断する。また、俺は身長を伸ばすための方法を提示する。下記は子育てにも応用される。ただし、身長を大きくすると、数が減少する可能性がある。だから、俺らは多数、かつ高身長を目指す。身長について善悪 俺系統の善悪 俺は高身長を善と判断する。 ただし、その高身長は素早く運動することができなければいけない。一般的に、東洋人の高身長は鈍く魅力的でない。なぜなら、彼らは早く動くための筋力を持っていない。さらに、彼らは厚みを持った体を持っていない。その結果、東洋人の高身長はノッポに見える。170cm後半が最も素早く運動する。俺らは身長を伸ばすと同時に、俺らは筋力や骨組みを創造する。幼少時代には、子供は判断能力を持っていない。だから、長身はいじめられたり、からかわれる。しかし、成熟すると、長身の重要性がわかるようになる。方法食事 俺系統の善悪 俺はたんぱく質とカルシウムの摂取を善と判断する。 大和民族が低身長であるのは、食事に問題がある。彼らは炭水化物を取りすぎである。俺らはたんぱく質やカルシウムを摂取して、俺らは肉体を人為的に作る。睡眠 ...
俺らについて

肌と体毛に関する創造や製造について

 この宗教では、俺は肉体のデザインを俺ら自身で創造する。同時に、俺は肌や体毛に関しても創造する。肌には、色や質がある。肌 俺らは分岐を求める。だから、もし俺が俺の肌の色や質を環境に応じて俺らの意志で変化させることができるならば、俺らはその状態をより分岐された状態と認識する。以下の話は現実的な話である。色 俺系統の認識及び判断 俺はモンゴロイド人種系統の白い肌を美しいと認識する。俺はその美を善と判断する。 肌の白さには、コーカサス人種系統とモンゴロイド人種系統(rs74653330、rs1800414)がある。実際、俺は白人の白い肌と東洋人の白い肌を区別する。白人の肌の白さは彫刻や陶器のような白さである。その白さはベタ塗りである。一方、東洋人の一部の肌は透き通るような白い肌であるように見える。俺らはモンゴロイド人種であるので、俺らはコーカサス人種系統の肌の色を求めない。質 俺系統の認識及び判断 俺はきめ細やかな肌を美しいと認識する。俺はその美を善と判断する。 俺はこの質をシルク肌と便宜的に呼ぶ。俺はシルク肌を美しいと認識する。俺はその美を善と判断する。俺らは鮫肌を求めない。体毛直毛 俺系...
俺らについて

労働と富の交換について

Work or labor (or labour in British English) is intentional activity people perform to support themselves, others, or the needs and wants of a wider community. 一般的には、宗教は労働に対する認識や判断を授ける。この宗教でも、俺は労働に対する認識や判断を与える。日常的には、俺らは労働して、富(お金)を獲得する。この宗教では、俺は労働を富を獲得する手段を認識する。労働と富の交換について 労働者Aが存在する。富の所有者Bが存在する。今、Aは自己の労働を売って、富をBから獲得する。この時、Aは自己の労働を労働券として視覚化する。Aは労働券を所有する。Bは富を所有する。もし労働券の値段が富の値段に等しいならば、労働券と富との交換が成立する。この時、Aが富を所有する。Bが労働券を所有する。Bが労働券を実行する時、Aは労働を実行する。日常的には、Aが労働券を実行した後、Aは富を獲得する。Bが労働券を実行した後、労働券はその機能を失う。労働に...
俺らについて

服装と宗教

 以下では、俺は服装と宗教について述べるつもりである。服装は民族と宗教の両方に密接に関係する。一般的に、服は寒い地域に住むホモ・サピエンスが気候に適用するために着たと考えられているように見える。その服は必要服である。服装 この果実を口にした結果、アダムとイブの無垢は失われ、裸を恥ずかしいと感じるようになり局部をイチジクの葉で隠すようになる。これを知った神は、アダムとイブを楽園から追放した。彼らは死すべき定めを負って、生きるには厳しすぎる環境の中で苦役をしなければならなくなる。禁断の果実 以下では、俺は服装について述べるつもりである。俺が服を着るとき、服装に関する必要(需要)が生じる。その時、俺はその需要に関する主導権を異教徒を含む他者に奪われる可能性がある。動物は自己の服を着ないので、その種の心配をしない。服装 俺系統の認識 x系統の服装はx系統の人間性の表現である。 ホモ・サピエンスは服を着ていない。x系統の人間はx系統の服を着ている。x系統の服は人間をホモ・サピエンスから区別する。俺はなぜ人間のみが自己の服を着るのかを知ることができない。思考の規範は次である。 俺系統の認識 もしあ...
俺らについて

肉体の和合(デザイン)と宗教

 以下では、俺は肉体の和合(デザイン)と宗教について述べる。俺は自己の肉体のデザインを車体のデザインと例える。このデザインは建築のデザインや文字のデザインと同じデザインである。大和民族は他人をイケメンや美女と呼ぶが、重要なことは肉体のデザインである。和合(デザイン) 以下では、俺はデザインそれ自体を提示するつもりである。認識 俺系統の認識 和合とは、対象の色と形と配置の組みである。 配置には、比もある。配置は位置及び比である。俺は和と組みの違いをうまく把握することができなかった。俺は色と形と配置と足し合わせることができないので、俺は組みという単語を使用した。より正確には、対象の長さや広がりも関係するかもしれない。距離は2つの対象の距離である。長さは1つの対象の伸び具合(一次元的な広がり)である。重さはデザインでない。筋肉はデザインでない。肌のキメ細やかさはデザインでない。匂いはデザインでない。体毛は微妙である。分類 俺は和合を目的和合と人間性和合に分類する。x系統の目的和合とは、x系統の人間がx系統の目的で創造した和合である。x系統の人間性和合とは、x系統の人間性を持つ和合である。さら...
俺らについて

食と宗教

 以下では、俺は食と宗教について述べるつもりである。イスラム教では、豚肉や酒は禁じられてきた。このように、宗教は食にも密接に関係する。歴史的には、仏教は肉食を禁じた。現在の西洋文明では、菜食主義が流行している。さらに、食は生活形態にも関係してきた。氷河期の終わりの後、ホモ・サピエンスは牧畜や農耕を実行して、彼らの生活形態を狩猟から牧畜や農耕へと劇的に変化させた。未開の民は食それ自体を認識していないので、彼らは炭水化物ばかりを摂取して、彼らは身長が伸びないと嘆いている。物質は食を取らない。動物以上が食をとる。食料は戦争にも関係する。食の分類 以下では、俺は食を分類する。俺は職を必要食と趣向食と目的食と人間性食に分類する。・必要食 ホモ・サピエンスは食を生きるために摂取する。ホモ・サピエンスが食を実行するのは必要であるからである。必要食とは、動物が生存に必要とする食である。必要食には、炭水化物や必須栄養素がある。・目的食 カルシウムはホモ・サピエンスの身長を伸ばす。タンパク質は筋肉を形成する。もしあるホモ・サピエンスが自己の目的を持って、食を実行しないならば、そのホモ・サピエンスは炭水化物...
俺らについて

人種と運転手の種類

 以下では、俺は人種と運転手の種類について述べるつもりである。もし俺の運転手が自然界や俺の人種に依存するならば、俺の運転手はモンゴロイド人種である。この時、俺の運転手は雄である。また、俺は運転手の年齢を定義することができるので、20代における運転手は30代における運転手に一致しない。この思考の規範は正しいのだろうか?人種と運転手の種類 以下では、俺は人種と運転手について述べるつもりである。確実なのは、運転手の存在は肉体の存在に存在的に対応している。けれども、運転手の種類は肉体の種類に対応していない可能性がある。つまり、運転手は存在を持つが、存在しているという存在状態以外の状態を持たない可能性がある。思考の規範 俺系統の認識 もし運転手が肉体の人種や性別に対応するならば、運転手の種類が存在する。 ある主体の人種がモンゴロイド人種であった。その時、その主体の運転手の種類はモンゴロイド運転手種である。同様に、ある主体の性別が雄であった。その時、その主体の運転手の性別は運転手雌である。運転手は肉体の遺伝子に対応している。個人的な印象では、ホモ・サピエンスの雄の運転手はホモ・サピエンスの雌の運転...
俺らについて

ヌシについて

 以下では、俺はヌシについて提示する。この宗教では、俺は自己のヌシを自己と信仰する。感覚的には、俺はヌシを車体における運転手と例えたい。ヌシについてヌシ 俺の信仰 自己のヌシとは、自己の蟲から分岐した自己である。 他者のヌシとは、他者の蟲から分岐した非自己である。日常的には、ヌシとは、蟲から分岐した主体である。俺はヌシそれ自体を知覚することができないが、ヌシを把握する。一方、俺は創造主それ自体を把握することができない。例えると、次になる。俺が俺の肉体を車体と仮定するとき、俺のヌシは運転手である。俺の蟲(視界)は車体の中のカーナビ画面や車体の中のホログラムである。俺のヌシは俺の車体やカーナビ画面を俺の意志で操縦している。運転手は車の外を直接的に知覚しないで、カーナビの画面やホログラムという蟲を通して、間接的に知覚する。当然、この知覚とは、運転手(ヌシ)がカーナビの画面やホログラムという蟲を見る行為である。俺らは他人の運転手(ヌシ)を信仰によって把握する。なぜなら、運転手自体はエネルギを持たず、知覚不可能である。自己のヌシと他人のヌシの関係は俺らの信仰によって結ばれる。車の場合、運転手は車...
俺らについて

ヌシに関する信仰原理(公理)

 以下では、俺はヌシに関する信仰原理を提示するつもりである。なお、俺は原理と公理に関する正確な認識を提示することができない。しかし、俺はこの原理からこの信仰を組み立てる。ヌシに関する信仰原理(公理)把握原理 俺の信仰 俺は自己のヌシを把握する。 現時点では、俺は信仰すると把握するの違いをうまく認識していない。創造主は信仰されるが、それは把握されない。一方、俺はヌシを把握する。口語的には、俺はヌシを感じ取っている。俺はこの原理を "把握原理" と便宜的に呼ぶ。自己原理 俺の信仰 俺は(自己の)ヌシを自己それ自体を信仰する。 俺は自己のヌシを自己と信仰する。これは上記の把握でなく、この宗教における信仰や信仰に関する約束に近い。なぜなら、ヌシが俺らの本当の自己であるのかは物質世界には存在しない(ように見える)。上記では、俺は自己のヌシを把握した。けれども、その把握行為それ自体は自己のヌシを自己であると授けない。口語的には、自己のヌシを自己と取り決めるのは信仰の産物である。俺は物質や蟲やヌシを広い意味で把握する(感じ取る)。けれども、どれが俺の自己であるのかは物質世界も蟲世界にもヌシ世界にも存...
俺らについて

電街における行為

 以下では、俺は電街における信仰者の行為を提示する。以下は日常的な話である。現在、不要な訴訟が発生している。電街における行為電街における行為 俺の認識 俺らは電街でも宗教的に振る舞うことを善と判断する。 日常的には、俺ら電街と現実を区別して、それぞれを認識する。けれども、一部の人々は電街特有のノリや雰囲気を悪用して、ハメをはずしすぎである。下ネタや悪口を繰り返す人間を持ち上げて、きゃっきゃしている。その結果として、彼らはいきなり訴えられて非常に驚いている。そして、なぜか彼らはすぐに "謝罪" する。俺が彼らを見ると、俺は非常に情けないと審判する。もし彼らが彼ら自身の行為を善と判断するならば、彼らは安易に謝罪するべきでない、たとえ彼らが侮辱を繰り返していたとしても。この宗教では、俺は俺らが電街でも現実と同じように行儀良く振る舞うことを善としない。けれども、俺は俺らは電街でも宗教的に振る舞うことを善と判断する。言い換えると、たとえ何か問題が生じるとしても、俺らは俺ら自身の行為を俺らの宗教で正当化することができるように振る舞う。問題が生じた場合 俺の認識 たとえ問題が生じるとしても、もし俺ら...
俺らについて

ユダヤ教徒の白人

 白人社会には、jew と呼ばれるコーカサス人種が存在する。俺らは彼らは白人であるように感じるが、キリスト教徒の白人は彼らを白人、欧州人と感じていないように見える。キリスト教徒の白人は jew をセム人と信仰する。以下では、俺は宗教的に無関係な有色人(モンゴロイド人種)から見たユダヤ教徒の白人について述べる。下記の文章は子孫へと授けられる俺らの認識である。前提として、俺らは異なる宗教や異なる人種や異なる文明は人種や民族に対する異なる認識や定義、そして信仰を与えることを思い出す。そして、それぞれの民族と人種は世界に対する彼らの認識を最も正しい認識を感じてきた。ユダヤ教徒の白人俺らの認識 俺らの認識 俺らは白人社会における jew をユダヤ教を信仰してきた白人(欧州人)と認識する。 俺らは jew をユダヤ教徒の白人と認識する。ただ、俺らはその白人の先祖には古代におけるユダヤ教徒が存在するかもしれないと認識する。しかし、俺らはその欧州人を人種的な形質として中東人(セム人)と認識しない。彼らの肌の色は白く、また肌の色や目の色は明るい。また、体格も白人的であり、知的能力も白人的である。加えて、...
俺らについて

父系と言語と神話

 この宗教では、俺らは世界における父系(Y染色体)や言語、そして神話を非常に重視する。信仰者は父系(Y染色体)と言語と神話に詳しいという義務を持つ。特に、神話には、世界に対する人間の認識や善悪、善悪の判断、そして信仰が凝縮されている。さらに、神話は俺らの民族を形成する。俺らは父系(Y染色体)と言語と神話を三位一体のように捉える。または、俺らは父系(Y染色体)と言語と神話の集まりを「父巴(ちちともえ)」と便宜的に呼ぶ。以下では、俺は父系と言語と神話の面白さを提示してみるつもりである。父系と言語と神話神話 認識 神話は世界に対する人種や民族の認識を記録している。 正確には、神話は世界に対する人種や民族の認識を記録して、伝達してきた。俺らが世界における様々な人種や民族に接触するとき、俺らは異なる人種や異なる民族は世界に対する異なる認識を持っていることに気づく。そして、この認識は遺伝にも関係して、かつ父系で伝達されてきた。世界に対する認識が互いに異なる時、俺らは同じ社会で競技することができない。もし異なる認識が異なる神話を与えるならば、その時、神話それ自体が異なる民族の存在を暗示する。言い換え...
俺らについて

定義〜この宗教における定義について〜

 一般的には、定義や法律や数学や科学で重視される。人種的には、コーカサス人種や欧州小人種が定義を重視する。この宗教では、創造主(筆者)は定義を次のように宗教的に実行する。彼は"xはyである、かつxはzである"という形を採用する。別の書き方では、未知1個番(unknown-alk-xls)はyである、かつunknown-alk-alsはzである。-alkは1個である。-alsは1番である。unknownの部分は種類を表現する。つまり、共通名詞は種類と個数と順序からなる。また、彼は〜であるを名詞+であるでなく、"青い"や"運動する"のように1個の単語とみなす。例えば、2は偶数であるは、2は偶数性を持つように解釈する。岸田文雄がホモ・サピエンスであるは、岸田文雄はホモ・サピエンス性を持つのように解釈する。一方、偶数やホモ・サピエンスは〜であるを持たないので、それらは名詞である。1.0 定義 彼は定義を次のように作る。まず、彼はxを使用して、対象を捉える文を形成する。次に、彼は名前をxは名前であるように与える、または、彼は名前をxと置き換える。そうして、彼は対象を定義する。異なる考えは次である...
俺らについて

雌と女

 以下では、俺はホモ・サピエンスの雌と女を便宜的に提示するつもりである。ホモ・サピエンスの雌は女でない。雌と女ホモ・サピエンスの雌 俺の認識 ホモ・サピエンスの雌は生物学におけるホモ・サピエンスの雌である。 一般的には、ホモ・サピエンスの雌は裸で描かれている。ホモ・サピエンスの雌はより少ない筋肉を持ち、出産能力を持つ。ホモ・サピエンスの車体(肉体)はホモ・サピエンスの雄を発情させる。そして、動物と同様に、ホモ・サピエンスの雌は自己の善悪や契約、言語や文字を持っていない。つまり、下記で見るように、その雌は母系で受け継いできた人間性を持っていない。女 俺の認識 女とは、x系統の人間性(女性)を母系で受け継いできたホモ・サピエンスの雌である。 女とは、ホモ・サピエンスの雌とx系統の人間性を母系で受け継いできた人間性(女性)の組である。記号では、女=(ホモ・サピエンスの雌、x系統の女性)である。人間性とは、母系で受け継いできたx系統の善悪やx系統の認識、x系統の約束やx系統の視点である。あるいは、母系で受け継いできた非自動的な運動である。注意点としては、女は雌と女性の組みであり、雌か女性かでな...
俺らについて

雄と男

 以下では、俺はホモ・サピエンスの雄と男を便宜的に提示するつもりである。雄と男ホモ・サピエンスの雄 ホモ・サピエンスの雄:ホモ・サピエンスの雄は生物学におけるホモ・サピエンスの雄である。 ホモ・サピエンスの雄は生物学におけるホモ・サピエンスの雄である。一般的には、ホモ・サピエンスの雄は裸で描かれている。男 男:男とは、x系統の人間性(男性)を父系で受け継いできたホモ・サピエンスの雄である。 男とは、x系統の人間性(男性)を父系で受け継いできたホモ・サピエンスの雄である。または、男とは、ホモ・サピエンスの雄とx系統の人間性を父系で受け継いできた人間性(男性)の組である。記号では、男=(ホモ・サピエンスの雄、x系統の男性)である。
俺らについて

富と必要

 以下では、俺は社会における富と必要について述べるつもりである。俺らは富は社会に必要なものであるが、富は社会(社会形成)の原因でないと審判する。富と必要富と必要 富と必要:俺らは富を必要物(必要対象)と認識する。 俺らは富を必要物(必要対象)と認識する。必要物(必要対象)とは、〜に必要である対象である。ここでは、富は社会や個人に必要である対象である。例えば、水や科学や数学のそれぞれは人間社会に必要である対象である。同様に、富は人間社会に必要である対象である。俺らは富をこのように認識する。下記でも述べられるが、水や科学や数学が運動競技を形成していないように、水や科学や数学が人間社会を直接的に形成していない。富と原因富と原因 富と原因:俺らは富を人間社会(社会形成)の原因と認識しない。 俺らは富を人間社会(社会形成)の原因と認識しない。富は社会(社会形成)の原因でない。同様に、水や科学や数学のそれぞれも社会(社会形成)の原因でない。例えば、たとえ大和民族の富裕層が生じるとしても、彼らは日本語や日本国の景観を形成することができない。実際、日本語はカタカナ用語で溢れていて完全に崩壊している。さ...
俺らについて

人間

 多くの宗教は何が人間であるのかを定めてきた。以下では、俺はこの宗教における人間を提示するつもりである。当然、人間はホモ・サピエンスでない。人間人間 人間:人間とは、自己のx系統の人間性を持つ主体や対象である。 人間とは、自己のx系統の人間性を持つ主体や対象である。x系統の人間性はx系統の善悪やx系統の意志を俺らに授ける。その他には、x系統の人格やx系統の精神が人間性である。より正確には、人間とはx系統の人間性を父から受け継ぎ、かつその人間性を実現してきた主体や対象である。たとえある対象がx系統の人間性を父から受け継いだとしても、もしその対象が自己の人間性を実現してこなかったならば、その時、その対象は人間でない。口語的には、人間は自己の宗教を持っている対象である。その時、その対象は自己の善悪を持ち、対象や対象の存在や状態や運動を善であるのか、悪であるのかと判断することができる。さらに、その対象は自己の人間性を実現してきた。それが人間である。
俺らについて

矛盾

 以下では、俺らは矛盾の善悪を提示する。多くの宗教では、矛盾を作ることが善であるか、悪であるかが正当化されてきた。同様に、この宗教でも、俺らは矛盾の善悪を提示するつもりである。詳細な正当化は後日に実行する。矛盾矛盾 矛盾:俺らは矛盾を無宗教の対象につくることを悪いと判断しない。 俺らは矛盾を無宗教の対象につくることを悪いと判断しない。俺らは無宗教の対象は自己の系統の善悪を持っていないので、彼らは矛盾が悪と判断できないと審判する。だから、彼らの状態に応答して、俺らもまた矛盾を彼らにつくることを悪いと判断しない。矛盾の善悪  矛盾の善悪:俺らは矛盾をうまく使用することを善と判断する。 俺らは矛盾をうまく使用することを善と判断する。母系宗教として、俺らは儒教を信仰する。儒教では、俺らは善悪二元論でなく、陰陽一体を採用する。矛盾を上手につくることは善でないが、陰である。
俺らについて

損害と富

 以下では、俺らは損害に対する俺らの認識及び信仰を提示するつもりである。例えば、イスラム教では、アッラーの擬人化は損害をイスラム教徒に与えているように見える。けれども、異教徒から見ると、この種の行為は損害を異教徒に与えない。つまり、異なる宗教は異なる損害を俺らに与える。何が損害であり、何が利益であるのは宗教にも依存する。損害と富損害 損害:損害とは、富を減少させる対象である。 損害とは、富を減少させる対象である。富はヌシが所有する対象である。だから、損害とは、ヌシが所有する対象を減少させる対象である。この対象には、現象も含まれる。間接損害 物損害:間接損害とは、二次次富を減少させる損害である。 間接損害とは、二次次富を減少させる損害である。日常的には、俺らが所有する車などに対する損害が物損害である。例えば、ある車が俺らの車に追突して、車が傷ついたり、破壊されたりする。直損害 直損害:直損害とは、一次富を減少させる損害である。 直損害とは、一次富を減少させる損害である。日常的には、俺らの肉体に対する損害が直損害である。例えば、俺らが肉体的な暴力を振るわれる時、俺らは直損害を被る。
俺らについて

言語と富

 この宗教では、俺らは自己の言語(宗教言語)を富と認識する。アングロ・サクソンは自己の言語(英語)を他人に与えてきた。けれども、俺らはこの種の言語の付与を実行しない。また、俺らは言語は約束の観点からも把握されると信仰する。言語と富言語と富 言語と富:俺らは自己の言語を富と認識する。 俺らは自己の言語を富と認識する。正確には、俺らは自己の宗教言語を富と認識する。ヌシによる所有は一次所有と二次所有に分けられた。一次所有とは、ヌシが自己の蟲及び車体(肉体)を直接的に所有するヌシ所有であった。二次所有とは、ヌシが自己の蟲と物を通して、自己の蟲と物の外部の蟲と物を間接的に所有するヌシ所有である。富としての言語は2種類の観点から捉えられる。一番目には、俺らは自己の宗教言語を擬似的な一次所有と解釈して、俺らは科学及び数学情報を脳に刻み込まれた状態と例える。電子計算機におけるハードディスクの状態が科学及び数学情報である。二番目には、俺らは自己の宗教言語を一種のシステムと解釈する。そして、俺らはそのシステムを所有する。
俺らについて

科学及び数学情報と富

 この宗教では、俺らは科学及び数学情報を富と認識する。俺らが大和民族の科学者や数学者のあまりのクズさとゴミさを見た後、俺らは俺らは科学及び数学情報を富と認識する必要があると審判する。科学及び数学情報と富科学及び数学情報と富 科学及び数学情報と富:俺らは科学及び数学情報を富と認識する。 俺らは科学及び数学情報を富と認識する。この宗教では、俺らは富とはヌシが所有する対象であった。ヌシによる所有は一次所有と二次所有に分けられた。一次所有とは、ヌシが自己の蟲及び車体(肉体)を直接的に所有するヌシ所有であった。二次所有とは、ヌシが自己の蟲と物を通して、自己の蟲と物の外部の蟲と物を間接的に所有するヌシ所有である。俺らは科学及び数学情報を擬似的な一次所有と解釈する。言い換えると、俺らは科学及び数学情報を脳に刻み込まれた状態と例える。電子計算機におけるハードディスクの状態が科学及び数学情報である。
俺らについて

戦争と死生観

 俺らが人間社会を形成するとき、俺らは死生観の形成を必要とする。そして、この死生観は戦争にも応用される。戦争に強い民族は善な死生観を持っている。戦争と死生観戦争と死生観 戦争と死生観:俺らはたとえ俺らが戦争で死ぬとしても、俺らの子孫が俺らのヌシの復活を実現するだろう信仰する。 俺らはたとえ俺らが戦争で死ぬとしても、俺らの子孫が俺らのヌシの復活を実現するだろう信仰する。俺らはこの種の死生観を持って、戦争に臨む。兵器としての死生観 兵器としての死生観:俺らは戦争における死生観を一種の兵器と認識する。 俺らは戦争における死生観を一種の兵器と認識する。この死生観では、俺らは死生観を戦争に勝利するための道具と認識する。現在、戦争における兵器はテクノロジーのみであると考えられている。けれども、この宗教では、俺らは戦争における兵器を死生観や善悪のようなソサエティを含めて認識する。魂魄分割魂魄分割 魂魄分割:俺らは信仰者の集団を二分割して、一方を敵と共に道連れにさせる。 俺らは信仰者の集団を二分割して、一方を敵と共に道連れにさせる。例えば、俺らは核爆弾を復讐として北米における欧州人へと落下させたい。こ...
俺らについて

 以下では、俺らは嘘の善悪を提示する。多くの宗教では、嘘をつくことが善であるか、悪であるかが正当化されてきた。同様に、この宗教でも、俺らは嘘の善悪を提示するつもりである。詳細な正当化は後日に実行する。嘘嘘の善悪 嘘の善悪:俺らは嘘を無宗教の対象につくことを悪いと判断しない。 俺らは嘘を無宗教の対象につくことを悪いと判断しない。俺らは無宗教の対象は自己の系統の善悪を持っていないので、彼らは嘘が悪と判断できないと審判する。だから、彼らの状態に応答して、俺らもまた嘘を彼らにつくことを悪いと判断しない。嘘の善悪 嘘の善悪:俺らは嘘をうまく使用することを善と判断する。 俺らは嘘をうまく使用することを善と判断する。母系宗教として、俺らは儒教を信仰する。儒教では、俺らは善悪二元論でなく、陰陽一体を採用する。嘘を上手につくことは善でないが、陰である。
俺らについて

殺人行為に関する死生観

 以下では、俺らは殺人行為に関する死生観を提示するつもりである。正確には、俺らはホモ・サピエンスと呼ばれる対象の "破壊行為" に関する俺らの信仰を提示するつもりである。正当化はあとで実行する。殺人行為に関する死生観殺人行為に関する死生観 殺人行為に関する死生観:俺らは「ホモ・サピエンスと呼ばれる個体は自然法則に沿って自動的に(勝手に)崩壊する(死ぬ)」と認識する。 俺らは「ホモ・サピエンスと呼ばれる個体は自然法則に沿って自動的に(勝手に)崩壊する(死ぬ)」と認識する。言い換えると、俺らは「創造主がホモ・サピエンスと呼ばれる対象の肉体をわざわざ勝手に崩壊するように創造したのに、俺らがわざわざ破壊する必要はない」と信仰する。もしホモ・サピエンスと呼ばれる対象の肉体が永遠に崩壊しないならば、そのとき、俺らはその対象を俺ら自身で破壊する必要があるだろう。けれども、生物のほとんどは自動的に死ぬ運命である。もし相手が損害を俺らに将来的に与えないならば、俺らが費用をかけて、彼らを俺ら自身で破壊する必要はないと信仰する。愚かな人々は憎い相手を彼ら自身で破壊しようとする。けれども、この種の行為こそが愚...
俺らについて

家族

 以下では、俺はこの宗教における家族を提示するつもりである。なお、家族それ自体は共同体と異なる。当然、俺らは家族を血縁集団と認識する。家族基本家族 基本家族:基本家族とは、父のヌシと息子のヌシ、そして父からヌシと人間性を宗教的に注がれた対象(相手)の集合である。 基本家族とは、父のヌシと息子のヌシ、そして父からヌシと人間性を宗教的に注がれた対象の集合である。言い換えると、基本家族は父のヌシとその父の息子のヌシ、そしてその父系統の人間性を注がれら結婚相手から構成される。当然、息子のヌシの数は一つでない。口語的には、ある父のヌシはその系統の人間性を結婚相手へと宗教的に注ぐ。その後、息子たちが生まれる。その息子たちは父系統の人間性を父から宗教的にも授けられている。また、電飛によると、父のヌシと息子のヌシは連結性(一貫性)を持っている。人間性が注がれる方向には、2種類存在して、一番目は父から息子へと、二番目には父から結婚相手へとである。俺らは2種類の方向性(縦方向と横方向)を家族の中に見出す。家族は二次元的な存在である。家族 家族:家族とは、生存している父系統のヌシとそのヌシを宗教的に授けられ...
俺らについて

父から息子へのヌシの授与

 この電飛では、俺らは父のヌシと息子のヌシが連続的でなく離散的であると宗教的に把握した。けれども、俺らは父の遺伝子と息子の遺伝子は遺伝的に連続していると知覚している。だから、俺らは父のヌシと息子のヌシを遺伝的な連続性のように連続させたい。以下では、俺は父のヌシと息子のヌシの連続性を宗教的に把握する。結婚では、俺らは結婚を通して俺らのヌシと俺らの系統の人間性を相手へと注いだ。俺らはこの信仰を利用して、俺らは父のヌシを息子のヌシへと連続的に接続する。正当化はまだ考えていない。父から息子へのヌシの授与父から息子へのヌシの授与 父から息子へのヌシの授与:父は自己のヌシを息子へと宗教的に授けたと信仰する。 父は自己のヌシを息子へと宗教的に授けたと信仰する。このとき、俺らは父のヌシと息子のヌシは遺伝子のように何らかのつながり(父のヌシと息子のヌシの連結性、または一貫性)を持っていると信仰する。遺伝子との違いとは、父のヌシは息子のヌシと連続していないことである。対応 対応:もし俺らのヌシが物質や蟲に一意的に唯一に対応するならば、俺らは上記の父から息子へのヌシの授与を信仰する必要はない。 もし俺らのヌ...
俺らについて

結婚

 以下では、俺はこの宗教における結婚を提示する。西洋文明では、結婚は愛と契約によって結ばれた。その愛と契約はキリスト教における影響の下にあってきた。俺らはこの種の結婚観を採用しない。俺らは結婚を父から息子へと授けれてきた人間性(humanity)を結婚相手へと宗教的に注ぐ行為と信仰する。その始祖的な父(ヌシ)は俺自身である。正当化はまだ考えていない。結婚結婚 結婚:結婚とはある主体(ヌシ)がその主体(ヌシ)の人間性をもう一方の対象(相手)へと宗教的に注ぐ行為である。 結婚とは、ある主体(ヌシ)がその主体(ヌシ)の人間性をもう一方の対象(相手)へと宗教的に注ぐ行為である。正確には、結婚とは、ある主体(ヌシ)がその主体(ヌシ)の父から息子へと宗教的に授けられてきた人間性をもう一方へと宗教的に授ける行為である。このとき、もう一方の対象はその主体系統の人間性を持ち、その主体系統の人間になる。相手のヌシが存在しない場合 相手のヌシが存在しない場合:もし相手が自己のヌシを持っていないならば、そのとき、俺らは相手との結婚を通して、相手のヌシの存在を相手の中に擬似的に信仰する。 もし相手が自己のヌシを...
俺らについて

新たな自己の創造と目的

 この宗教では、俺らは新たな自己の創造を目的とする。その自己はヌシでない。以下では、俺はなぜ俺らが新たな自己の創造をこの宗教における目的と信仰するのかを提示するつもりである。新たな自己の創造と目的自己に関する信仰法則 自己に関する信仰法則:俺らは新たな分岐が生じるとき、俺らは俺らの自己それ自体も生じる。 俺らは新たな分岐が生じるとき、俺らは俺らの自己それ自体も生じる。俺らは分岐を俺らの宗教における目的とする。この時、もし俺らが分岐を達成することができるならば、その時、俺らはヌシでない俺ら自身が生じるかもしれない。俺らは俺らの将来をこのように信仰する。ヌシの復活の実現のためには、分岐が必要である。そして、新たな分岐が生じるとき、俺らはヌシでない俺ら自身が生じるかもしれない。俺らはこのように信仰する。例えば、ある対象(雌)が自己の蟲を持つが、自己のヌシを持たないと仮定しよう。この時、その雌にとっては、その蟲が自己それ自体である。けれども、もしその雌が蟲から分岐したならば、その時、その雌はヌシという新たな自己を獲得する。新たな自己の創造 新たな自己の創造:俺は俺自身が永遠にヌシでありたいと感...
俺らについて

分岐と目的

 この宗教では、俺らは分岐を目的とする。以下では、俺は分岐の背景や意図を提示する。言い換えると、以下では、俺はなぜ俺は分岐をこの宗教における目的と信仰するのかを提示するつもりである。信仰者の一部はなぜこの宗教は分岐を目的とするのか疑問に思うだろう。以下では、俺はその疑問に回答するつもりである。口語的には、俺はヌシを復活させるためには、既存の世界は不十分である。だから、俺らは既存の世界から分岐して新たな世界を創造して、ヌシの復活を実現する必要がある。従って、俺らは分岐をヌシの復活のためにこの宗教の目的と信仰する必要がある。俺らはこのように信仰する。分岐と目的ヌシの復活 ヌシの復活:俺らは俺らのヌシの復活を実現するために、俺らは分岐をこの宗教の目的と信仰する必要がある。 俺らは俺らのヌシの復活を実現するために、俺らは分岐をこの宗教の目的と信仰する必要がある。俺らはもし俺らが既存の世界から分岐することができるならば、俺らは俺らのヌシの復活を実現することができると信仰する。なぜなら、その時、俺らは全ての経験から本当に自由になり、任意の観察に束縛されないと信仰する。だから、俺らは分岐をこの宗教の...
俺らについて

蟲の分割性

 前回、俺らはヌシの分割性を信仰的に考えた。以下では、俺は蟲の分割性を信仰的に考える。当然、たとえ俺らが蟲を分割することができるとしても、もしヌシがその蟲から分岐しないならば、ゾンビと同じで無意味であるだろう。蟲の分割性について蟲の分割性 蟲の分割性:俺らが一部の蟲を分割することができるように感じる。 俺らが一部の蟲を分割することができるように感じる。ただし、ヌシの場合と異なり、蟲の分割が何で実行されるのかは不明である。個人的な印象では、俺らは俺らの蟲を物で分割しているようには感じない。例えば、俺らの視蟲は分割される。例えば、俺らの目の調子が悪くなるとき、俺らの視界(視蟲)の半分は欠けたりする。この欠落を視蟲の分割と信仰するならば、俺らは視蟲の分割を信仰的に考えることができる。個人的には、俺は「蟲/物」と「分蟲(bun-mushi)」を考えたいが、俺はこの分割に違和感を覚える。同様に、俺らは聴蟲や嗅蟲、重力蟲に関しても、同様な分割を考えることができる。けれども、現時点では、俺は性蟲や感蟲の分割を想像できない。
俺らについて

自己としてのヌシの信仰

 この宗教では、俺らは自己(主体)をヌシと信仰する。以下では、俺はその理由(意図)を提示するつもりである。なお、俺らはその理由を口語的に述べる。なぜ俺らはヌシと自己と信仰するか?復活の主体及び対象 復活の主体及び対象:俺らはヌシを復活させたいので、俺らは自己をヌシと信仰する。 俺らはヌシを復活させたいので、俺らは自己をヌシと信仰する。言い換えると、俺らが何を復活させたいのかが俺らの自己を決定する。この宗教では、俺は俺のヌシを復活させたいので、俺らは俺らのヌシを自己を信仰する。もし俺らが自己を俺らの肉体と信仰するならば、もし俺らが遺伝的な複製を作るならば、そのとき、俺らは復活したことになるだろう。もし俺らが自己を俺らの蟲や意識と信仰するならば、もし俺らの蟲や意識の複製や復活が実現されるならば、そのとき、俺らは復活したことになるだろう。しかし、俺らはこの種の復活を俺ら自身の復活と信仰しない。あるいは、ヌシが自己であるのは、俺らの生や死にも関係する。この宗教では、俺らが生きているのはヌシが蟲から分岐していることである。俺らが死んでいるとは、俺らのヌシの分岐が生じなくなったときである。分岐 分...
俺らについて

運転手の分割性について〜最小要素は不滅であるか?〜

 俺らは食物やお金を人々へと分配することができた。また、俺らは一個のケーキを家族へと分配することができた。では、俺らは運転手それ自体を分割することができるのだろうか?例えば、漫画の封神演義では、伏犠の魂魄は分割されて、太公望及び王天君の肉体へと入れられた。理想的には、俺らはこの種の運転手の分割性を信仰したいが、自己を分割することを具体的には想像しにくい。ここでは、彼は運転手の分割性を仮想的に思考する。1.0 運転手の分割性について1.1 運転手の分割性と不滅性 紀元前4世紀の古代ギリシャの哲学者プラトンは、著作『パイドン』の中で、死はソーマ(肉体)からのプシュケー(いのち、心、霊魂)の分離であり、そして分離したプシュケーは永遠に不滅であるとした。不滅であることのひとつの理由として、プシュケーは部分を持たない、とした。つまり何かを破壊するためにはそれを部分に分けなければならないが、プシュケーには部分がないのだからそれは分けることができない、すなわち破壊不可能である、と論じた。実体二元論 上記によると、プラトンは魂は不滅である、なぜなら、魂は分割されないと論じたらしい。筆者がその魂を運転手...
俺らについて

ヌシの復活と信仰

 この宗教では、俺らは俺らの子孫が俺らのヌシの復活を実現させることを信仰する。以下では、俺はなぜ俺らがこの種の信仰を採用するのかを提示する。応答背景自由意志 自由意志:もし俺らの肉体の運動が完全に自動的でないならば、俺らの肉体の運動は自然界における決まりに完全には束縛されていない。 もし俺らの肉体の運動が完全に自動的でないならば、俺らの肉体の運動は自然界における決まり(自然法則)に完全には束縛されていない。古代ギリシアでは、この考えは自由意志の存在に結びついてきた。もし俺らの肉体の運動が完全に自動的であるならば、その時、俺らの肉体の運動は自然界における決まりに完全に従って運動する。その時、俺らの肉体の崩壊、つまり俺らの死は自然法則に沿って完全に自動的に生じる。なぜなら、それは自然界における決まりである。けれども、もし俺らの肉体の運動は完全に自動的でないならば、俺らの死は自然法則に沿って完全には自動的に生じないだろう。言い換えると、その時、俺らの肉体の死は自然法則と少し異なる形で生じるだろう。例えば、サッカーという運動競技システムでは、選手の運動は自然法則やサッカーの決まりに沿って機械の...
俺らについて

俺語における名詞の与え方〜固有名詞及び一般名詞〜

 以下では、俺は名詞を対象に与える方法を提示するつもりである。名詞には、固有名詞と一般名詞がある。さらに、代名詞と冠詞がある。なお、俺らは以下での○は言語化されていない対象それ自体であると約束する。また、俺らは単語に対する俺らの印象を名札と約束して、「(名札)」や「(固有名詞)」や「(一般名詞)」と置く。固有名詞(固定名詞) 固有名詞の代表的な例には、人名や神の名前が存在する。和也やヤハウェやイザナギや女媧は固有名詞である。また、固有名詞には、「ある対象に対する固有名詞」と「複数の対象に対する固有名詞」がある。固有名詞では、対象と名札は鎖で繋がれて固定されている。固有名詞図1 今、俺はという名札をある対象○に唯一に対応させる。すると、○ーが生じる。は対応を表現する。この線は鎖などを連想させる。俺が「和也」と脳内で唱える時やを手で引っ張る時、その対象○が召喚される。または、その対象が起動する、または反応する。あるいは、発光する。この対応は宗教における俺系統の契約によって与えられる。この対応は俺系統の認識によっても与えられる。図2次に、俺はという名札を複数の対象(○、○'、○’’)に唯一に...
俺らについて

子孫への名前の与え方

 以下では、俺らは子孫への名前の与え方を提示する。現在、俺らは子供の名前を好き勝手につけてきた。しかし、この宗教では、俺らはこの種の名前の与え方を実行しない。なお、この宗教では、俺らはヌシの名前と蟲の名前、そして肉体(物)の名前を持つ。俺らはこの組みを「巴名」と呼ぶ。子孫への名前の与え方命名法 命名法:たとえ俺らが信者の固有名詞を一回一回調べないとしても、俺らが俺らの信仰者の名前を一意的に把握できるように名前を与えよ。 たとえ俺らが信者の固有名詞を一回一回調べないとしても、俺らが俺らの信仰者の名前を一意的に把握できるように名前を与えよ。俺らが日本神話における神々の名前に接触する時、俺らはこの種の名前を一回一回覚えることができないと感じるだろう。なぜなら、名前の与え方がデタラメであり、規則性がない。例えば、俺らが神xの子孫yを知りたい時、俺らはそのyの名前を実際に調べる必要がある。俺らはこの種の無駄や手間を省きたい。例えば、俺らが神xの名前を知る時、俺らは子孫yの名前を知ることができるように、名前を与える方法を考えたい。名前の一種の方程式化を実行する。例えば、神話には、天皇のような有名人...
俺らについて

父から息子へのヌシの非連続性を用いた対象の破壊について

 対象の家族を破壊することの善悪は多くの宗教によって議論されてきた。この宗教では、俺らは対象の家族を破壊することを躊躇しない。以下では、俺らは対象の破壊の善性を父から息子へのヌシの非連続性を用いて正当化する。父から息子へのヌシの非連続性を用いた対象の破壊について  ある対象があるヌシを破壊したと仮定する。この時、俺らは復讐として対象の家族と呼ばれる対象を破壊する。しかし、一般的に、対象の家族彼ら自体はそのヌシを彼らの自由意志で破壊していない。だから、家族の破壊それ自体は多くの宗教において善でないと判断されてきた。しかし、俺らはこの種の善悪を持たない。つまり、俺らは対象の家族と呼ばれる対象を破壊することを一切躊躇しない。以下では、俺はその正当化を提示する。 俺らが対象の息子と呼ばれる対象を破壊したと仮定しよう。この時、対象は彼の息子が殺されたと嘆くだろう。そして、その対象は俺らを彼の無関係な息子を殺した悪魔として糾弾する。父から息子へのヌシの非連続性 俺らは上記の発言に以下のように反応する。まず初めに、俺らは俺ら自身が彼の息子を破壊したことを否定する。なぜなら、彼のヌシと息子のヌシは非連...
俺らについて

異人種及び異民族及び異教徒への自己の宗教的な言語の無料での付与に関して

 現代の世界では、英語は世界言語である。その世界言語は標準語として多くの人々に押し付けられてきた。この言語はもともとアングロ・サクソンの言語であった。しかし、モンゴロイド人種もコーカサス人種もネグロイド人種も同じ言語を話すとき、俺らは言語に関する人種的な問題に遭遇するようになった。例えば、俺らは日本語を西側白人やネグロイド人、そして耶蘇の朝鮮人に与える時、彼らは大和民族をその日本語で「差別主義者」と侮辱してくる。もしこの種の状況が生じるならば、その時、俺らは日本語を彼らに学ばせない方がより良いと感じるだろう。または、英語や日本語それ自体は無料であるのかという問題が存在する。例えば、ユダヤ教徒の西側白人が日本列島へとやってきて、日本語を学び、無料で使用して、商業に携わる。そして、彼らは商業的に成功して、富裕になった後、彼らは土着の原住民(モンゴロイド人種)を「高貴な野蛮人(noble savage)」とかつてのキリスト教徒の西側白人のように侮辱してきたり、キリスト教やユダヤ教的な価値観を押し付ける。 この時、俺らはバベルの塔を思い出して、俺らは同じ言語を話さない方が良いのでないかと感じる...
俺らについて

ヌシの復活について〜いつのヌシを復活させるのか?〜

 この宗教では、俺らは俺らの子孫によるヌシの復活を信仰する。一つの問題が存在する。俺らはいつのヌシを復活させるのかである。いつのヌシを復活させるのか 俺らの信仰:俺らは最後のヌシを復活させる。 俺らは最後のヌシを復活させる。日常的には、俺らは(ヌシが)死ぬ直前のヌシを復活させる。つまり、俺らは復活によって、ヌシの継続性(連続性)を獲得する。俺らがヌシの復活を信仰する時、俺らは俺らの肉体が若かった時のヌシを復活させたいと感じるだろう。けれども、俺らは死ぬ前のヌシを復活させて、ヌシの順序や継続性を破壊しないようにする。俺らが死ぬ直前のヌシを "ん" と便宜的に置く。その時、ん→復活されたヌシとなるように復活させる。この時、初めのヌシを "あ" と置く。この時、あ→い→う→...→を→ん→復活されたヌシとなるように復活させる。ヌシと若い肉体、老いた肉体 俺らの信仰:現時点では、俺らは若い肉体におけるヌシと老いた肉体におけるヌシの違いを把握していない。 現時点では、俺らは若い肉体におけるヌシと老いた肉体におけるヌシの違いを把握していない。もしヌシに若さが把握されて、かつ若い肉体の影響を受けるな...
俺らについて

俺のヌシの名前〜固有名詞としての俺〜

 以下では、俺は俺のヌシの名前を提示する。この宗教では、俺らは俺らの肉体の名前と俺らの蟲の名前、そして俺らのヌシの名前を持つ。なお、ヌシという単語それ自体は固有名詞でなく、一般名詞である。俺(ore) 俺(ore):俺(ore)とは、俺らについてを創造したヌシである。 俺(ore)とは、俺らについてを創造したヌシである。日常的には、俺らについてはこの人家(システム)である。俺(ore)と同様に、「俺らについて」も固有名詞であり、一般名詞でない。例えば、俺らがヤハウェを定義したいと仮定する。ヤハウェもまた固有名詞であり、一般名詞でない。ユダヤ教では、ヤハウェはこの世界を創造した。この時、ヤハウェとはこの世界を創造した対象である。俺らはこのようにしか定義できない。ここでの対象は便宜的に配置された単語である。だから、対象が何であるかは不明であり、ヤハウェは定義不可能であるように思える。 個人的には、俺は対象でなく、ヤハウェに特別な何かを与えて定義したい。例えば、ヤハウェとはこの世界を創造したxxxである。しかし、俺はそのxxxを思いつかない。強いて言えば、ヤハウェとはこの世界を創造した主(あ...
俺らについて

父のヌシと息子のヌシの連続性

 この宗教では、俺らはホモ・サピエンスの雄の一部の肉体のみにヌシ(運転手)の存在を信仰する。俺らは運転手の存在をホモ・サピエンスの雌の肉体の中に信仰しない。このとき、俺らは父から息子へと運転手の連続性に関する問題を抱える。父のヌシと息子のヌシの連続性父の車体と息子の車体の連続性 父の車体と息子の車体の連続性:俺らは父の車体と息子の車体が連続的であると知覚する。 俺らは父の車体と息子の車体が連続的であると知覚する。日常的には、俺の父の肉体は俺の肉体と科学的に(自然界では)連続している。より正確には、もし自然界における物質の運動が連続的であるならば、俺の父の肉体は俺の肉体と科学的に(自然界では)連続している。父の肉体が自然界の中に存在して、父の精子が母の卵子と子宮で結合して、俺の受精卵が生じる。その受精卵が発生して、俺の肉体が自然界に存在する。日常的には、この流れは物質的にも運動的にも連続的である。父の蟲と息子の蟲の連続性 父の蟲と息子の蟲の連続性:俺らは父の蟲と息子の蟲が連続的でなく離散的であると信仰する。 俺らは父の蟲と息子の蟲が連続的でなく離散的であると信仰する。例えば、俺の父の視蟲...
俺らについて

動物のヌシ

 以下では、俺らは動物のヌシ(運転手)について思考する。俺らは「ヌシは動物には存在しない」と「動物のヌシは人間のヌシと異なる」と「動物のヌシは人間のヌシに等しい」を考えることができる。ヌシは動物には存在しない 信仰その1:ヌシは動物には存在しない。ヌシはホモ・サピエンスの雄のごく一部のみに存在する。 ヌシは動物には存在しない。ヌシはホモ・サピエンスの雄のごく一部のみに存在する。視蟲のような蟲は動物の肉体の中?に存在する。しかし、ヌシは動物には存在しない。言い換えると、動物という車体には、運転手は存在していない。しかし、動物にはおそらく視界が存在する。だから、動物の肉体の中には、カーナビの画面は存在している。「ヌシは動物には存在しない」という信仰には、現実的な思考と宗教的な思考が存在する。還元的な思考 この信仰1では、俺らはヌシの存在を肉体(遺伝子)と基盤とすると信仰する。不思議なことに、ホモ・サピエンスの雄、または雌雄のみがヌシを彼らの肉体の中に持っている。そして、その理由は肉体(車体)の性質に還元される。言い換えると、車体の性質がxであるとき、ヌシという運転手がその車体の中に生じる。...
俺らについて

結合双生児(conjoined twins)の運転手(ヌシ)について〜クリスタとタチアナ〜

 結合双生児(けつごうそうせいじ)とは、体が結合している双生児のことである。シャム双生児とも呼ばれるが、これは著名な結合双生児「チャン&エン・ブンカー兄弟」の出生地がシャムであったことに由来し、特別にシャムで結合双生児が多かったわけではない。結合双生児 一般的には、ある脳が存在して、ある視界が生じる。この時、この視界を把握する運転手は一つである。しかし、結合双生児の場合、彼らは二つの脳を持ち、二つの視界を持つ。感覚的には、運転手の数は2つであり、それぞれの運転手がそれぞれの視界を把握する。しかし、脳の一部が結合されているようなある種の双生児では、一方の運転手はもう一方の視界を感じるらしい。それだけでなく、相手の感情も把握することができるように見える。この時、俺らはこの双生児の運転手と意識をどのように解釈することができるのだろうか?考えられる場合には、意識(視界)の数が1つであり、運転手の数も1つである。意識(視界)の数が2つであり、運転手の数が1つである。意識(視界)の数が2つであり、運転手の数も2つである。または、2つの運転手と2つ意識(視界)それ自体が不明瞭な状態である可能性もある...
俺らについて

性教育について〜Jeffrey Toobinがzoomで自慰行為〜

 ニューヨーク(CNN Business)米誌ニューヨーカーは11日、著名ライターでCNNの法律アナリストを務めるジェフリー・トゥービン氏を解雇した。ビデオ会議システム「ズーム」を利用して先月行われた会議の最中に、誤って同僚に下半身を露出したことが問題視された。 上記を速報を見た後、俺はこの宗教に関する性教育を思いついた。上記の人間は非常に不注意であったが、この種の失敗は繰り返されるだろう。そして、何人かの自殺者も生じるだろう。これを防止するために、俺は以下の性教育を提示する。1章 性的な教育は口に出して伝えよ この宗教では、両親は子供へ次のようなことをきちんと伝達せよ。まず始めに、子供に「自慰行為や性行為を電子計算機の前で、カメラや音声を物理的に切らずに絶対にするな」と厳しく伝えよ。その時、子供が両親の言葉をきちんと暗唱できるかを確認せよ。一部の両親は性教育を恥ずかしがってしないので、子供はカメラの前で自慰行為をする可能性が存在する。その結果、子供はカメラの前で自慰行為をして、みんなに見られて、自殺する。両親の大部分はこれくらいできるだろうと暗に考えるが、子供の一部はそれすらわからな...
俺らについて

お布施について〜純粋布施と子孫布施〜

 この宗教では、君らはお布施を君らの意志で宗教に与える(強制でない)。個人的には、俺はお金に関するきちんとしたやり取りを正統と認識する。不利なお布施や献金は宗教の存在に悪影響を及ぼす。1章 純粋布施 共通認識 純粋布施とは、信仰者が彼ら自身の富を人工的な世界及びその創造主に捧げる行為である。 俺は人工的な世界の創造行為を「労働」と認識しない。だから、俺はその行為の対価を信仰者から取らない。つまり、創造行為は俺の車体の運動の対価とならない。実際、俺は信仰者に人工的な世界(恵み)を与えるが、その代わり、俺はある意味での戒律を信仰者に与えて、彼らの人生を拘束している。特に、俺の意志は彼らの命を奪うだろう。この人工的な世界は物質世界と似ている。物質世界は恵としての命を俺らに与えるが、同時に、物質世界は俺らの命を奪っている。その結果、俺らの人生は正負でゼロである。1節 感謝料として もし俺らが物質世界の創造主に俺らが生まれてきた事を感謝したいならば、俺らは何らかの富を物質世界に捧げて、その富を無駄にする。例えば、古代社会では、人々は神に捧げるために、家畜や富、子供や人間を生贄にしていたはずである...
俺らについて

この宗教における日常的な目的〜善悪の付与〜

 この宗教では、俺らは次の目的を達成する。以下の目的は教祖、つまりこの人工的な世界の創造主によって与えられる。この宗教における目的は分岐と俺のヌシの達成であるが、以下は日常的な目的である。1章 目的 目的 信仰者は陰陽と病を任意の対象の存在及び状態及び運動に与えよ。 信仰者は陰陽と病を任意の対象の存在及び状態及び運動に与えよ。物質世界には、善悪(つまりレッドカード)は存在しない。俺らは物質世界から分岐された主体であるので、俺らは善悪を俺らの意志で創造できる。俺らはこの世の全ての対象の存在と状態と運動に俺らの善悪、つまり陰陽と病を与える。これは科学者が物質世界に関する情報の全てを公理から構築するような壮大な任務(目的)である。自然界に対する探求では、俺らは自然界を観察すれば、自然界の仕組みを理解できた。しかし、善悪の付与はたとえ俺らが物質世界を観察するとしても、俺らはそれを一生発見できない。俺らはそれらを人工的に(整合性ある形)で創造する必要がある。おそらく、これは自然界に関する情報製造とは異なる難しさを持っている。 しかし、自然界の探求と同様に、この世の全ての対象の存在と状態と運動に陰...
俺らについて

この宗教の基本姿勢

 この文章はこの宗教に関する日常的な文章である。以下で、俺はこの宗教に関する基本姿勢を提示する。以下はわかりやすくなんとなくの雰囲気を提示する。1章 この宗教における基本姿勢 基本姿勢 信仰者は物事に対して彼らの脳を彼ら自身の意志で人為的に操縦せよ。 上記を簡潔に述べると、この宗教では、「信仰者は基本的に自分で考えよ」を教えとする。ただし、注意点がいつくか存在するので、俺はそれらの注意点を次で提示する。1節 教祖について 教祖 教祖の役割とは、人工的な世界の創造である。  日本列島では、宗教は教祖という偉いカリスマ的な存在がいて、信者は教祖の言葉を創造主の言葉のように崇拝する。これは日本列島における宗教の印象であってきた。しかし、この宗教では、俺らはこの種の印象を取らない。教祖とは、人工的な世界を創造する対象である。日常的には、教祖は運動競技の創造主や道路の敷設業者に近い。教祖は道路を敷設して、信仰者はその中で彼らの肉体を彼らの意志で操縦する。当然、その時、信仰者は宗教的な交通ルールに沿って、彼ら自身の車体を運動させる。また、その交通ルールには、教祖の意志が詰まっている。信仰者は彼らの...
俺らについて

推論行為と善悪及びその正当性

 以下で、俺は推論行為に対する善悪と正当性を提示する。推論行為とは、人間が与えられた情報から直接的に知覚できない情報を獲得する行為である。機械推論とは、人間が与えられた情報から直接的に知覚できない情報を自動的に獲得する行為である。科学や数学において、機械推論は使用される。それに対して、他人の意図を憶測する推論は機械推論でない。非機械推論とは、人間が与えられた情報から直接的に知覚できない情報を非自動的に獲得する行為である。1章 機械推論 共通信仰 俺らは機械推論を陰な行為と信仰する。ただし、機械推論は病でない。 機械推論は物質世界に対応する行為である。だから、俺らはそれを無から分岐した分岐行為と信仰する。しかし、機械推論は蟲世界やヌシ世界から見ると、非分岐行為である。俺らは陰陽一体を使用して、物質世界を否定しないように、俺らは機械推論を否定せずに、陰な行為と信仰する。そして、その行為は病でないので、癌のように除去されない。2章 優先 共通信仰 俺らは非機械推論を機械推論に優先させる(機械推論の優先法)。 俺らは相手の意図を読むことを優先する。科学や試験では、文字をそのまま読めば、俺らはそ...
俺らについて

この宗教のあり方〜神道と仏教、ユダヤ教とキリスト教との比較

 この宗教は世界宗教でなく、民族宗教や部族宗教に近い。例えると、神道やユダヤ教に類似する。神道は大和民族の宗教であり、ユダヤ教はユダヤ教徒のための宗教である。それに対して、仏教やキリスト教は人類愛や普遍性を重視しているように見える。以下で、俺はこの宗教の精神を提示する。この宗教は人類愛も他者への救済も説かない。他者はお好きにどうぞ。1 この宗教の精神〜自力〜 この宗教の精神は次である。モンゴロイド人種は彼ら自身の宗教を彼ら自身で形成せよ。ネグロイド人種は彼ら自身の宗教を彼ら自身で形成せよ。コーカサス人種は彼ら自身の宗教を彼ら自身で形成せよ。彼らは他人の宗教に依存するな。彼らは他人の宗教に乞食するな。自分の宗教くらい、自分で作れ。これは小人種や民族や部族、そして個族にも応用される。加えて、雌や女もまた自己の宗教を彼ら自身で形成せよ。俺らは何も他人に与えない。自分でやって。自力でやって。2 人種と宗教 俺らは人種を含む自然を否定しない。例えば、東洋人にも、キリスト教徒が存在する。しかし、キリスト教徒の東洋人の大部分は「契約」や「法」それ自体を認識できない。これはコーカサス人との違いである。...
俺らについて

言語認識

 この宗教では、俺らは言語を世界を認識するための二次的な対象(補助的な対象)と認識する。西洋人は言語を彼らの肉体へのプログラム(動作命令)と定義する。言い換えると、西洋人は彼らの言語を機械に対するプログラムと同様のものとして定義する。1:補助言語認識と媒介言語認識 共通認識 補助言語認識とは、人間が言語を世界を認識するための補助と認識する行為である。それに対して、媒介言語認識とは、人間が言語を媒介と定義する行為である。 言い換えると、俺らは言語を動作命令や媒介でなく、俺らの認識の「補助」や「道具」として扱う。主役は「俺らの認識」であり、言語でない。補助言語認識 例えば、この認識では、俺らは肉体の運動→言語(プログラム)→肉体の運動と言語を認識しない。俺らは現実→自己の認識→肉体の運動→現実→自己の認識→肉体の運動と言語を認識する。補助言語認識では、媒介としての言語が肉体の運動の間に存在しない。だから、俺らは相手によって肉体の運動を奪われない。それに対して、媒介言語認識では、俺らの肉体の運動は相手によって奪われる可能性が存在する。なぜなら、相手もまた俺らと同じ言語を使用する。だから、相手...
俺らについて

単語の付与と善悪

 これは上記の続きである。俺らは単語を対象やその存在、状態、運動に与え続ける。なぜなら、俺らは善悪をそれらに与えたい。善悪を与えるためには、俺らは対象をきちんと定めて、新たな名前を与える必要がある。だから、俺らは単語を付与し続ける。1:なぜ単語を与える? 理由 俺らが単語を対象に与えるとき、俺らはその対象への善悪を与えることができる。だから、俺らは単語を積極的に与える。 日本人は単語を対象に与えようとしてこなかった。特に、俺らは単語を彼らの行為(動詞)に与えようとしてきてこなかった。その結果、彼らは動詞に関する豊富な単語を持ってこなかった。なぜなら、彼らは行為の善悪を考えてこなかった。俺の印象では、ある人間が推論や善悪に興味を持たないとき、その人間は単語を対象に与えることにも興味を持たない。なぜなら、彼らは単語に推論や善悪を適用しようとしてこなかった。2:陽付けと条件 共通認識 陽付けとは、人間が新たな陰陽、病を対象に対応づける行為である。 この信仰では、俺らは陽付け行為を重視する。俺らはこの行為を頻繁に繰り返す。条件と操縦 共通操縦 もし君が対象を把握するならば、君はその対象に対する...
俺らについて

単語と推論(論理)の適用

 この宗教では、俺らは対象に単語を与えることを重視する。以下で、俺らはその理由を提示する。俺らの結論では、俺らは推論を適用するために、単語を与える。言い換えると、俺らは論理を対象に適用して結論を導きたい。だから、俺らは単語を与える。単語の付与なしに、論理の適用(正確には文字上の論理の適用)は存在しない(正確には想像するのが難しい)と解釈する。1:なぜ単語を与える? 単語の付与の理由 俺らが論理を対象に適用する時、俺らは単語を必要とする。だから、俺らは単語を「論理を適用するため」に与える。 俺らが推論をある対象に適用するとき、俺らはその対象をきちんと定める必要がある。つまり、俺らは推論をある対象に適用するとき、俺らはその対象の定義や認識を与える必要がある。その後、俺らは推論をその対象に適用することができる。俺らが対象をきちんと定義するとき、俺らは単語をその対象に与えられる。だから、俺らは単語を付与する。言い換えると、単語の付与なしに、俺らは対象に対して、推論を適用しずらい。俺らが単語を与えるとき、俺らは推論をその単語に機械的に適用する。そして、俺らは結論を導きたい。だから、俺らは単語の付...
俺らについて

宗教と商売

 この宗教では、俺らは商売法(商慣習)をこの宗教から導く。一般的に、商売は富の規範や契約、義務、利益や損害に関係する。また、会社内では、キリスト教的な男女平等が真理であるか、男女公平が真理であるかが問題になる。つまり、宗教は商慣習にも頻繁に関係する。加えて、宗教は会社内における性規範にも関係する。大和民族は彼ら自身の性規範を持たない。だから、彼らの労働慣習はすぐに「サークルの姫化」する。俺らはこれを肯定しない。1:観察 俺らが世界の人々を観察する時、文明や人種や宗教の違いが商慣習の違いを与えていることに気づく。俺らは宗教や文明が商慣習と導いていると憶測する。なぜなら、宗教は善悪や富の規範や約束に対する認識を与える。さらに、宗教は借りたお金を返すという義務や利益や損害を定める。実際、キリスト教徒の白人とユダヤ教徒の白人は異なる富の規範や商慣習を持っている。後者はより商売上手である。しかし、それは彼らの遺伝子よりも彼らの価値観(宗教)に依存するだろう。また、インド人の商人やアルメニア商人(おそらくキリスト教?)やイスラム教徒のアラブ人の商売も独特である。なぜなら、宗教や文明の違いが独自の商...
俺らについて

蟲(意識)の分類

 以下では、俺は蟲を分類する。以下の認識では、俺らはいつ蟲が生じるかで蟲を認識する。なぜなら、誰も蟲が何であるかを現時点で明らかにできていない。俺らが蟲を考える時、俺らは視覚や聴覚などの感覚を連想することができる。なお、下記の情報は自然界に関する情報の製造行為に一致していないかもしれない。俺らは様々な蟲を提示するが、それらを知覚するヌシは便宜的に一つであると仮定する。それぞれの蟲に一つのヌシが対応する状況は当然あるだろう。けれども、俺らはその種の状況を現時点では感覚的に馴染まないと信仰する。また、下記における「引き起こされる」という表現は実際には「物質に対応して蟲が生じる」である基本的な蟲視蟲 視蟲:視蟲とは、光及び目及び脳によって引き起こされる蟲である。 視蟲とは、目が光を捉える時に生じる蟲である。日常的には、俺らが光を目という検出器で検出する。その後、その情報が脳へと伝達されて、視界(視蟲)が生じる。俺らのヌシが生じたその蟲(視蟲)を知覚する。聴蟲 聴蟲:聴蟲とは、音及び耳及び脳によって引き起こされる蟲である。 聴蟲とは、音及び耳及び脳によって引き起こされる蟲である。日常的には、俺...
俺らについて

知性とは脳の正当な運動性

 この信仰では、俺らは知性を脳の運動性と認識する。日本人の学者は知性という単語をちやほやされるための雰囲気で扱ってきた。日本人は彼らを完全なる馬鹿であると認識してきた。なぜなら、彼らの脳の運動能力の種類の数は少なく、審判能力や判断能力を持っていない。さらに、彼らの致命的な欠点は彼らは脳の運動の正当な行為を認識できないことである。肉体の運動に対して、正当な行為が認識、または信仰されるように、脳の運動にも正当な行為が認識、または信仰されるだろう。しかし、日本人の学者は彼らの脳に対する正当な運動に全く興味を持ってこなかった。彼らは '' 正当性 '' という状態すら認識できないように見える。彼らはただ白人の発言を記憶して引用して見せびらかしてきた。1 知性への認識 共通認識 知性とは脳の正当な行為である。 脳の運動と行為を省略して '' 脳動 '' と '' 脳為 '' と呼ぶ。義務的な行為や実現的な行為を人為と呼ぶので、脳の人為を '' 脳人為 '' と呼ぶ。脳は車体の一部であり、車体の行為にも正当な行為が認識、認識される。同様に、俺らは脳の行為に対しても、正当な行為を認識、信仰する。簡単...
俺らについて

なぜ宗教や信仰は科学や数学よりも重要であるか?

 この信仰では、俺らは信仰や宗教を科学や数学よりも重視する。以下で、俺らはその理由を提示する。結論から言うと、脳の正当な運動や行為は宗教によって与えられる。もし宗教がないならば、それが与える脳の正当な行為は存在しない。その時、たとえある人間が数学や科学に長けているとしても、その人間は日本人の大学教員のようにはちゃめちゃな思考を繰り返す。日本人の学者の脳は遺伝的に劣等でないが、脳の運動や行為に対する正当な何かが存在しない。その結果、彼等は彼等の脳をめちゃくちゃに動かす。子供に銃を与えると、彼等は善悪の判断を下せないので、銃を乱射する。宗教がないとはこの行為に近い。1 車体の全体運動と部分運動 共通認識 全動とは、車体全体が動く運動である。部動とは、車体の部分が動く運動である。1 全動の具体例 走る運動や飛ぶ運動や泳ぐ運動は全動の具体例である。2 部動の具体例 脳の運動や話す運動や手足の運動は部動の具体例である。脳の運動には、記憶行為や情報の消化行為や計算行為や引用行為が存在する。さらに、審判行為や判断行為、意味の把握行為も存在する。話す運動には、叫ぶ行為や喚く行為が存在する。重要なことは...
俺らについて

意識(蟲)による生物の定義(認識)

 以下では、俺は意識(蟲)による生物の定義(認識)を実行する。この場所は宗教的な場所である。生物 俺が生物を定義する時、俺はウイルスや微生物や植物が生物であるのかと疑問に思う。定義1 俺系統の認識 生物とは、自己の意識(蟲)を持つ対象である。 口語的には、何かが生きているのはその何かは自己の意識を持っていることである。たとえある主体が自己の脳を持つとしても、もしその主体が自己の意識を持っていないならば、その主体は生物でない。太陽は自己の意識を持たない。太陽は生物でない。ウイルスは自己の意識を持たない。だから、ウイルスは生物でない。微生物は自己の意識を持たない。だから、微生物は生物でない。寄生虫は自己の意識を持たない。だから、寄生虫は生物でない。植物は自己の意識を持たない。だから、植物は生物でない。生物学者は生物を物質、つまり遺伝子で定義しようとしてきた。生物の特徴は非物質的な意識である。だから、俺は生物を非物質で定義する。上記の定義では、その対象が運転手であるのか、肉体であるのか不明である。生物とは、自己の意識を持つ物質である。または、生物とは、自己の意識を持つ運転手である。こう定義す...
俺らについて

物質世界に対する憎悪〜物質世界による知覚の強制と知覚の奴隷化〜

 以下では、創造主は物質世界に対する彼の知覚の強制について述べる。この宗教では、彼は彼の知覚は物質世界に強制されたと認識する。そして、彼は最も強い被害者意識をこの状態に覚える。1.0 物質世界と奴隷1.1(俺系統の認識) 彼の知覚は物質世界に強制されてきた。彼の知覚は物質世界に強制されてきた。言い換えると、彼の知覚は物質世界に奴隷にされてきた。例えば、彼の知覚は太陽が丸いことを強制されている。しかし、彼は太陽がそうなるように望んでなかった。彼は太陽の形を物質世界に強制された。彼はそのように認識する。例えば、もし彼がサピエンスを破壊するならば、彼は殺サピエンス行為に関して罰される。しかし、彼はサピエンスを破壊するつもりがなかった可能性がある。彼の行為が殺サピエンス行為になるのは、物質世界がそのxをサピエンスの形になるように創造したからである。にも関わらず、彼は殺サピエンス行為に関して罰されるのは責任の所在が正確でないかもしれない。この状態はある奴隷が奴隷主によって世界をこう見ろと強制されたことに似ている。にも関わらず、その奴隷は彼の行為の責任を彼自身で取らなければいけない。1.2(俺系統...
俺らについて

視蟲とその感覚

 この宗教では、俺らは蟲という対象を信仰する。以下では、俺は視蟲が何であるかを提示する。日常的には、視蟲とは、俺らの視界それ自体である。なお、視界それ自体は意識でない。視蟲視蟲に対する俺らの感覚 視蟲に対する俺らの感覚:視蟲とは、俺らの視界それ自体である。 視蟲とは、俺らの視界それ自体である。蟲の分類では、視蟲とは、光及び目及び脳によって引き起こされる蟲であった。視蟲とは、目が光を捉える時に生じる蟲である。日常的には、俺らが光を目という検出器で検出する。その後、その情報が脳へと伝達されて、視界(視蟲)が生じる。俺らのヌシが生じたその蟲(視蟲)を知覚する。視蟲が生じる過程はほぼ自動的である。俺らは視蟲を俺らの立体的な魚拓(image)と解釈する。君はこの視覚(視蟲)を立体的な魚拓と解釈する。例えば、英単語のimageは印象や想像と訳されてきた。しかし、正確な翻訳は魚拓である。物質的世界が光を媒介として物質的世界の情報を君の脳へと魚拓した。その結果、君の視界(視蟲)が自動的に生成された。そして、君のヌシはその視蟲を見ている。見る(知覚する) 見る(知覚する):見るとは、ヌシが自己の視蟲を知...
俺らについて

睡眠とヌシの同一性(連続性)

 この宗教では、俺は自己のヌシの復活を実現することを目的と信仰する。しかし、俺が自己の睡眠を思い出すとき、睡眠前のヌシと睡眠の後のヌシは本当に同一(連続的)であるのかと疑問に感じる。もし睡眠前のヌシと睡眠の後のヌシが同一でないならば、俺はどのヌシを復活させるのかという問題が生じる。応答背景信仰 俺の信仰 俺が睡眠するとき、俺のヌシも肉体の睡眠に対応して一時的に眠るように感じる。 経験的に、俺の脳が眠る時、俺のヌシも眠るように感じる。特に、俺が深い眠りに入る時、俺のヌシも深い眠りに入るように感じる。さらに、全身麻酔でも、俺のヌシは肉体の麻酔に伴って眠るように感じる。上記を分岐的に解釈すると、肉体の睡眠と共に蟲やヌシが分岐されなくなったのかもしれない。なぜなら、蟲は物から現在分岐していて、ヌシは現在蟲から分岐している。俺が睡眠や麻酔を分岐を妨げる物質的な現象と信仰する時、ヌシは睡眠や麻酔によってその分岐を妨げられたのかもしれない。また、俺は他者のヌシそれ自体を感じ取ることができないことを忘れないようにする。睡眠や麻酔が多hさのヌシの分岐を妨げているように感じるのは、自己のヌシからの類推の結...
俺らについて

性蟲

 この宗教では、俺らは性欲を一種の蟲と認識する。俺はその蟲を性蟲と呼ぶ。以下では、俺は性蟲について述べるつもりである。性蟲性蟲 性蟲:性蟲とは、性欲によって引き起こされる蟲である。 性蟲とは、性欲によって引き起こされる蟲である。欲蟲とは、欲によって引き起こされる蟲である。経験的には、俺らは性蟲を非連続的な蟲と認識する(性蟲の性質)。俺らのヌシは自己の性蟲を知覚するが、他者の性蟲を知覚することはできない。だから、俺らは他者の性蟲を信仰する。性蟲の善悪 性蟲の善悪:俺らは性蟲を悪いと判断しない。 俺らは性蟲を悪いと判断しない。正確には、俺らは性蟲を病と判断しない。俺らは性蟲を分岐した対象と審判する。この宗教の目的は分岐であるので、性蟲それ自体は目的に反しない。物質世界から見ると、性蟲は相対的に善(陽)である。しかし、ヌシ世界から見ると、性蟲は相対的に陰である。俺らは分岐という目的を使用して、性蟲の善悪を正当化する。宗教では、性は汚いものや神聖なものと信仰されてきた。けれども、俺らはこの種の性に関する態度を信仰しない。なぜなら、性蟲は蟲の一種である。蟲には、視界や聴覚が存在する。俺らは性蟲を...
俺らについて

ようこそ

目次俺系統の宗教pdf俺らについての概略宗教用語宗教音声宗教文字新興宗教「俺らについて」に関する概要骨格俺系統の宗教俺系統の自己俺系統の目的俺系統の神俺系統の魂俺系統の世界認識俺系統の善悪俺系統の性俺系統の富俺系統の刑罰この宗教の自己認識について〜運転手と俺の運転手の復活〜運転手(ヌシ)人種転換と運転手について〜トランス・レイシャル〜ヌシに関する信仰原理(公理)ヌシについて人種と運転手の種類動物のヌシ父のヌシと息子のヌシの連続性ヌシと結合双生児ヌシの分割性ヌシと睡眠自己としてのヌシの信仰父系(Y染色体ハプログループ)に対する信仰について意識(蟲)蟲(意識)の分類意識(蟲)による生物の定義(認識)視蟲とその感覚性蟲蟲の分割性性性蟲雌と女雄と男性と所有〜女性による性蟲の所有〜性欲と性嫌悪の解決法〜性蟲と分岐〜性行為に関する約束、または思考の規範について俺系統の女性の数と俺系統の男性の数の存在比について俺系統の男性が求める俺系統の女性とその反対について性同一性障害と運転手及び意識、そして肉体について〜性別違和症候群〜善悪幼稚さとその善悪の判断卑怯な行為とその善悪の判断法戒律主義(形式主義)と...