
我思う、ゆえに我あり〜ルネ・デカルトと方法序説〜
全てについて疑うべし(De omnibus dubitandum。カール・マルクスの言葉)という方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識している我だけはその存在を疑い得ない。「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である(我思う、ゆえに我あり)、とする命題である。コギト命題といわれることもある。哲学史を教える場合の一般的な説明によれば、デカルトはこれを哲学の第一原理に据え、方法的懐疑に付していた諸々の事柄を解消していった、とされる。我思う、ゆえに我あり この宗教では、創造主は彼の運転手の復活を信仰する。もし彼がそれを信仰するならば、彼は運転手が実際に存在することを証明する必要がある。なぜなら、もし運転手が存在しないならば、復活させる対象もまた存在しない。そこで、彼は運転手の実際の存在について以下のように思考する。1.0 思考する1.1(俺系統の思考規範) もし彼が思考するならば、彼の脳は存在する...