テクノロジーの定義を提示することは俺らにとって難しい。しかし、俺らがテクノロジーをソサエティと対比させる時、俺らはテクノロジーの意味を把握しやすくなる。西洋文明は古代地中海文明と同様にハイ・テクノロジーでロウ・ソサエティの文明であった。
1章 テクノロジーに対する印象
Technology (“science of craft”, from Greek τέχνη, techne, “art, skill, cunning of hand”; and -λογία, -logia[2]) is the sum of techniques, skills, methods, and processes used in the production of goods or services or in the accomplishment of objectives, such as scientific investigation.
https://en.wikipedia.org/wiki/Technology
テクノロジーに対するざっとした印象は機械的、化学的であるように見える。物理や工学がテクノロジー的である。
通信
インターネットが通信テクノロジーの代表例である。TVやラジオや電話も通信テクノロジーの具体例である。なお、言語それ自体がテクノロジーでなくソサエティである(カタカナ用語参照)。
移動
飛行機や船、自動車や鉄道が移動テクノロジーの具体例である。古代人は馬を使用していたが、それはテクノロジーでない。木製の原始的な船や馬車はその中間であるように見える。宇宙船は移動テクノロジーの象徴的な例である。
建築
古代ローマの建築はテクノロジーである。高層建築の大部分はテクノロジーの産物であるように見える。また、サッカーの競技場もテクノロジーの産物である。しかし、サッカーそれ自体はソサエティである。
医療
MRIやワクチンやクローンが医療テクノロジーの具体例である。外科はテクノロジーでないように見える。個人的には、外科(それ自体)、手術?はテクニックに近い。薬もテクノロジーである。原始的な薬草も化学的な手法があるならば、テクノロジーである。
兵器
原子力爆弾や戦闘機、大砲はテクノロジーの具体例である。銃はテクノロジーである。弓は微妙であるように見える。個人的には、弓はもう少し化学的な何かが欲しい。(鉄の)剣はその中間である。加工された石はテクニックであるように思えるが、投石機はテクノロジーであるかも。ドローンが現在ではテクノロジーである。
エネルギ
電気や原子力はエネルギーテクノロジーの具体例である。原始的な水や風の利用はテクニックに近いように感じる。水車はその中間である。
農作物(肥料)
ハーバーボッシュ法は農作物に関連したテクノロジーであるように思える。糞尿を巻くのはテクニックであるかもしれない。
2章 テクノロジー的な思考
俺らが白人の思考を見るとき、俺らはテクノロジー的な思考に接触することができる。白人の思考はテクノロジーそれ自体であり、ソサエティ的でない。白人のテクノロジー的な思考は通信や軍事兵器や移動、エネルギの分野ではうまくいくが、人間に近い分野ではうまく機能しないように思える。
人間工場と少子化の解決
現在、白人の数が減少している。この状態に対して、白人は白人専用の人間工場を作って、白人の子供を強制的に製造し続ける。そして、彼らは白人の少子化を解決しようとする。これがテクノロジー的な思考である。
その時、家族の問題や両親の問題が生じるだろう。しかし、家族や両親はソサエティの問題であり、テクノロジーの問題でない。とりあえず、白人の子供を人間工場で製造すれば、白人の数は増加して、少子化が解決される。
なお、ソサエティ的な考えでは、人間は宗教や生活形態、社会制度をうまく変形させて、少子化を解決する。そして、彼らは適切な家族制度や出産戦略を設定する。
不老不死と死生観
人間がソサエティを形成する時、人間は自己の死の問題を回避できない。テクノロジーでは、細胞を弄ったりして、老化を遅らせて、自己の死の問題を解決しようとする。そこには、適切な死生観を設定するという考えは存在しない。
それに対して、ソサエティ的な考えでは、人々は天国や地獄、子孫をうまく設定して、擬似的な永続性を作り出して、ソサエティの永続性を形作ろうとする。だから、彼らはテクノロジーによる永遠の命を必要としない。
医療
テクノロジー的な考えでは、人々は自己の死生観を必要としない。そこでは、病気は治療される対象である。だから、90歳の老人の癌も高い費用で治療される。安楽死という選択肢は存在しない。
テクノロジー的な考えでは、ソサエティが存在しない。だから、たとえ老人の費用の圧迫によって日本社会が滅亡するとしても、それはテクノロジーの問題でない。テクノロジー的な考えでは、すべての病気は治療されるべき対象である。