教義(概要)

以下では、この宗教の創造主は宗教「俺らについて」を創造するつもり。

1.0 宗教

 まず、彼はこの宗教における宗教観を提示する。日本列島の上の大和民族は宗教を他人を救済する何かや修行する何か、世界を説明する何かであると感じているように見える。しかし、この宗教では、彼は宗教を社会を形成するシステム(系)と認識する。

1.1(俺系統の認識) 宗教はシステムである、かつそれはx教系統の社会を形成する。

または、宗教は人工的な世界である、かつそれはx教系統の社会を形成する。例えば、ユダヤ教はユダヤ教系統の社会を形成する。キリスト教はキリスト教系統の社会を形成する。ヒンドゥー教はヒンドゥー教系統の社会を形成する。儒教は儒教教系統の社会を形成する。同様に、俺らについてはあるシステムである、かつそれは俺系統の社会を形成する。

例えると、宗教はサッカーや野球やバスケのような競技系である。ユダヤ教徒はユダヤ教という競技系(競技システム)の中で競技する。儒教徒は儒教という競技系の中で競技する。同様に、俺教徒は俺らについてという競技系の中で競技する。

2.0 世界観(世界認識)

図1

 彼はこの宗教における世界観を簡単に提示する。一般的には、多くの神話や民族宗教や文明宗教は世界に対するそれぞれの系統の認識を信仰者や民族に授けてきた。例えば、ユダヤ教系統の世界認識や信仰では、この世界は創造主ヤハウェによって創造された。多神教では、それぞれの物体には、何らかの擬人化された神が宿っていた、またはそれらの物体は創造主によって創造された。そこで、この宗教でも、彼は俺らについて系統の世界認識を提示する。

2.1(俺系統の認識) この世界には、3種類の何かが存在する、かつそれらは物質と意識(蟲)と運転手(ヌシ)である。

物質はエネルギを持つ対象である。感覚的には、物質は見たり、触れたりできる何かである。意識には、視界や聴覚界や性欲や感情や記憶がある。この意識それ自体は物質でない。彼は意識を蟲と便宜的に呼ぶ。そして、運転手は視界を把握する自己それ自体である。運転手は物質でも意識でもない。彼は運転手をヌシと便宜的に呼ぶ。または、彼は運転手を魂、または魂魄と呼ぶ。

例えると、この世界は車体(物質)とその中の立体映像(意識)と運転手(自己)からなっている。彼が彼の肉体を車体と仮定すると、彼の意識は車体の中の立体映像であり、彼の運転手は車体の中の運転手である。

感覚的には、物質が生まれた後、意識が生まれた。意識が生まれた後、運転手が生まれた。または、意識と運転手はほぼ同時に生まれた。彼はこの感覚を応用して、彼は次の物語(narrative)を提示する。

2.2(俺系統の認識) 物質は自動的に運動していた。意識が生まれた後、その物質は非自動的に運動するようになった。運転手が生まれた後、その物質は目的的に運動するようになった。

始め、物質は物理法則に沿って完全に自動的に運動していた。意識が生まれた後、意識を持つ物体は自由意志を持ち、非自動的に運動するようになった。この時、意識を持つ物体は物質世界における奴隷的で決定的な法則から少し解放された。運転手が生まれた後、運転手を持つ物体の一部は目的意志を持ち、目的的に運動するようになった。この時、その物体は善悪を持ち、目的的な世界を創造することができるようになった。

または、彼は次のように解釈する。始め、物質は物理法則に沿って完全に自動的に運動していた。意識が生まれたとき、その意識を捉える運転手も生まれた。この時、意識及び運転手を持つ物体は物質世界における奴隷的で決定的な法則から少し解放された。その後、運転手という魂は成長した。すると、運転手を持つ物体の一部は目的意志を持ち、目的的に運動するようになった。この時、その物体は善悪を持ち、目的的な世界を創造することができるようになった。

上記では、彼は生まれたという表現を使用した。彼はこれを分岐するや対応するや関係するや創造すると言い換える。この時、意識は運転手から分岐して、運転手は意識から分岐した。物質は無から分岐した。彼はこの分岐を用いて、彼は次の時間観を提示する。

2.3(俺系統の認識) 物質と意識と運転手は今現在生じている。

分岐を使用すると、物質は無から今現在分岐していて、意識は物質から今現在分岐していて、運転手は意識から今現在分岐している。または、創造を無理に使用すると、物質は無から今現在創造されていて、意識は物質から今現在創造されていて、運転手は意識から今現在創造されていている。感覚的には、創造主は世界を創造した、かつ物質と意識と運転手は今現在生じている。ここで、彼は創造主を便宜的に仮定する。

2.4(俺系統の認識) 彼は物質と意識と運転手の創造主とその目的及び意志を仮定する。

この時、彼は物質それ自体を無から生み出した主体と物質世界という一つの系(システム)を生み出した主体を区別する。たとえ前者が物質を生み出すとしても、もしそれが物理法則や空間を生み出して、それらからなるシステムを創造しないならば、物質世界は創造されない。

ただし、彼は物質の創造主と物質世界という系の創造主が同じであるのかを断定できない。互いに異なる主体が物質と空間と決まりを生み出した可能性もある。そして、それらから系を創造した主体も別に存在している可能性がある。少なくとも4つの創造主が物質世界に関係する。それらは物質の創造主と空間の創造主と法の創造主とそれらの系の創造主である。この時、もし命令系統が創造主に存在しないならば、物質世界には、少なくとも4種類の目的及び意志が存在する可能性がある。

彼は上記を意識世界や運転手世界へと応用する。しかし、彼は運転手世界における法が何であるのかを知らない。また、もし意識世界が単に非自動的、または自由であるならば、意識世界に関する法は存在しない。この時、彼はその法の俺系統の創造主になる。ただ、意識や運転手が住む空間(スペース)は創造されているように思える。なぜなら、物質と意識と運転手は境界を持ち、互いに混じりあっていない。

まとめると、彼は物質世界の創造主と意識世界の創造主と運転手世界の創造主の3種類の創造主を仮定する。そして、それぞれの創造主は独自の目的と意志を持つ。または、彼は唯一の創造主を仮定する、かつそれは唯一の目的と意志を持つ。

3.0 自己

図2

 彼は彼自身の自己を何と認識する、または信仰するのかを提示する。物質世界における免疫には、自己と非自己を区別する仕組みがあるらしい。仏教には、無我という考えが存在する、かつそこで自己は存在しない。このように、宗教は自己が何であるのかを提示する。

宗教なしに、大衆や平民は自己を正確に認識することができない。例えば、関西人は他人を自分と呼び、他人を自己と誤認識する。西欧白人と結婚した日本モンゴロイド人の雌は自己を白人と誤認識して、有色人を侮辱する。酷い場合には、彼らは彼らが見た非自己を自己と誤認識する。そこで、この宗教でも、彼は自己が何であるのかを提示する。

3.1(俺系統の認識、または信仰) 彼は自己を運転手と認識する、または信仰する。

彼は彼自身の自己を彼の意識と認識しない。同様に、彼は彼自身の自己を彼の肉体と認識しない。彼は物質を非自己と認識する。彼は意識を非自己と認識する。彼は非自己の運転手、つまり他者の運転手を非自己と信仰する。彼は彼自身の運転手を自己を認識する、または信仰する。

個人的には、彼が考えるのは、釈迦は彼の自己を彼の意識の中に探したので、彼は結論づけたのは自己は存在しない。この宗教では、筆者は自己を彼の意識の中に見い出さない。意識の中には、彼の自己は存在しない。また、彼は運転手という自己は肉体や意識のように変化しないと感じる。

次に、彼は現実的な自己を提示する。現実的な事故には、人種的な自己と文明的な自己が存在する。前者は生物学的な自己である、後者はより人工的な自己である。大和民族の一部は自己を西欧白人と誤認識してきた。彼らは自己を文明を認識することができないので、彼らは西欧文明の都合の良い部分を占いのようにデタラメにつぎはぎしてきた。これらの誤認識を防止するために、彼は人種的な自己と文明的な自己を提示する。

彼はモンゴロイド人種とコーカサス人種とネグロイド人種とオーストラロイド人種を認識する。自己の人種はモンゴロイド人種である。自己の小人種は古モンゴロイド人種に寄った新モンゴロイド人種である。自己の民族、または小小人種は大和民族である。彼の部族は東日本部族である。彼のY染色体ハプログループは不明であるが、D1a2aやO1b2やO2a系統であるかも。彼のmtDNAはD4かM7であるかも。

彼は東洋文明を自己の文明と認識する。彼は俺らについてを自己の民族宗教と認識する。彼は儒教を東洋文明における自己の文明宗教と認識する。彼は西洋文明を自己の文明と認識しない。彼は国民国家や日本国憲法、キリスト教系統の法体系や民主制を自己と認識しない。

4.0 目的

 彼は俺系統の目的を提示する。目的は物質世界に所属しない。たとえ彼が物質世界の全てを明らかにするとしても、彼は人生の目的を発見しない。しかし、彼が彼自身の社会を形成する時、彼は目的を必要とする。一般的に、もしある人間集団が自己の社会を形成するならば、彼らは自己の目的を必要とする。そこで、彼は俺系統の目的を創造する。

4.1(俺系統の目的) 彼は彼の運転手をそれが永遠になるように復活させる。

彼はその現象がいつどこに生じるのかを断定しない。正確には、彼の子孫と俺教徒は彼の運転手をそれが永遠になるように復活させる。また、彼の子孫と俺教徒は俺教徒の運転手をそれらが永遠になるように復活させる。

上記の目的は非現実的に見える。彼の運転手が復活できないと考えるのは、ある主体が物質世界を表現しているからである。その主体は物質世界を分析して、彼は筆者(創造主)の運転手が復活できないと説明する。

しかし、もし意識や運転手が物質世界から分岐しているならば、またはそれらが物質世界に所属していないならば、意識や運転手は物質世界における法に完全には従わないだろう。意識や運転手の世界では、運転手は物質世界では不可能な何かを物質世界を必要なものとして利用して実現することができるかも。この考えを応用して、彼は次の目的を提示する。

4.2(俺系統の目的) 彼は新たな世界を創造する。

言い換えると、彼は物質世界でも意識世界でも運転手世界でもない新たな世界を創造する。分岐を使用すると、彼はより分岐された新たな世界を創造する。彼がここから導くのは、もし彼がより分岐するならば、彼は運転手でない自己を創造する。つまり、彼は運転手でない自己を創造する。彼は次の目的を提示する。

4.3(俺系統の目的) 彼は運転手でない新たな自己を創造する。

運転手が自己であると感じるのは、それがより分岐された存在であるからである。彼が仮定するのは、肉体の免疫には、自己と非自己を区別する仕組みが存在する。これは物質世界における自己と非自己である。物質には、意識や運転手がないが、物質もまた自己を持ち、自己と非自己を自動的に区別する。

この時、意識も自己を持ち、自己と非自己を非自動的に区別するかも。ただ、彼は結合性双生児を調べる必要がある。運転手も自己を持ち、自己と非自己を区別するかも。さらに、運転手は意識と物質を非自己と認識する。意識は物質を非自己と認識するかも。この時、彼が仮定するのは、もし何かが運転手から分岐されるならば、その何かが彼にとっての自己になる。

5.0 善悪

 彼は俺系統の善悪を提示する。物質世界には、善悪は存在しない。正確には、善悪は物質世界に所属しない。そのため、たとえ彼が物質世界の全てを表現するとしても、彼は善悪をその世界の中に発見することができない。だから、もし彼が自己の社会を形成するならば、彼は彼自身の善悪を提示する必要がある。

例えば、キリスト教では、平等という社会的な概念は善であると判断される、または信仰されている。なぜなら、イエス・キリストが彼の目的を持って、この世界が平等になるように創造した。このように、善悪は創造主の目的によって正当化される。その目的に沿うことが善と判断される、かつその目的に反することが悪いと判断される。

日常的な例では、善悪は運動競技におけるレッドカードそれ自体である。サッカーという競技システムでは、ハンド行為は悪であり、ゴール行為は善である。もし競技者が善悪を持たないならば、なんでもありな状態が生じる。この時、競技それ自体が成立しない。同様に、もしある種の人間集団が自己の善悪を持たないならば、彼らは自己の社会を形成しない。そこで、彼は俺系統の善悪を次のように信仰する。

5.1(俺系統の善悪) 彼は俺系統の目的に沿うことを善と比較的に判断する、かつ俺系統の目的に反することを悪と比較的に判断する。

例えば、彼は分岐された対象やその存在及び状態及び運動を善と判断する。彼は善悪の比較級を提示する。この時、彼は意識を物質よりもより善と判断する。彼は運転手を意識よりもより善と判断する。分岐を使用しないとき、彼は意識は物質よりメタ(上位)と認識する、かつ運転手は意識より上位と認識する。この時、彼は善悪を上記と同じ手法で判断する。

また、彼は善悪二元論を0と1の物質的なものと認識するので、彼はそれを採用しない。彼は陰陽一体を採用する。この時、もしある相手が悪を彼に実行するならば、彼はより悪をその相手に実行する。

6.0 死生観

 彼は俺系統の死生観を提示する。もしある人間が死ぬならば、その人間は物質的には終わりである。この考えを突き詰めると、たとえある人間が死ぬとしても、その人間の視点(視界)や運転手は地球上及び宇宙の中には存在しないので、その人間は彼の死後の核戦争を気にしない。彼は彼の先祖や子孫やその後の文明や社会を一切考えない。なぜなら、死んだら、彼の視点は厳密には地球の上には置かれない。そのため、彼は落伍行為(テロ)や核戦争を躊躇なく実行するかも。

しかし、上記の考えでは、人々は自己の持続可能な社会を形成することができない。宗教の役割が人間社会の形成であると仮定すると、彼らは自己のx教系統の死生観を形成する必要がある。例えば、ユダヤ教やキリスト教やイスラム教では、天国や地獄や最後の審判の考えが提示されている。儒教では、現実的な子孫及び先祖の繁栄に関する死生観が提示されている。この宗教でも、彼(創造主)は俺系統の死生観を提示する。

6.1(俺系統の善悪) 彼は彼の運転手の復活とその永続性を信仰する。

また、俺教徒は彼らの運転手の復活とその永続性を信仰する。つまり、この宗教における死生観では、彼らは彼らの肉体の崩壊とともに一度死ぬが、彼らは復活して、永遠の命を獲得する。彼らの子孫が彼らの運転手をこの世界と連続した世界の中で復活させる。彼は天国や地獄を無理に仮定しない。

また、この宗教では、彼は生と死を次のように信仰する。彼が生きているとは、彼の運転手が意識から分岐していることである。彼が生きているとは、彼の運転手が存在していることである。彼が死んでいるとは、彼の運転手が意識から永続的に分岐しなくなることである。彼が死んでいるとは、彼の運転手が永続的に存在しなくなることである。

さらに、彼は睡眠について述べる。彼が睡眠するとは、彼の運転手が意識から分岐されなくなる、かつ俺の意識が肉体から分岐されなくなることである。彼が睡眠しているとは、彼が自動的に生きている状態になる、または自動的に生きている(状態)になる可能性がある状態である。

7.0 富

図3

 彼は俺系統の富を提示する。一般的には、人々が彼らの社会を形成する時、何が富であるのかや富の取り扱いを決定する必要がある。もし彼らが富の規範を持たないならば、彼らはお金の貸し借りすらまともに実行することができない。その時、その社会における経済は発展しない。

例えば、現代社会では、資本主義という富に対する考えが流行している。資本主義はキリスト教プロテスタント派の富の規範である。キリスト教では、金貸しに対する印象は宗教的に悪く、利子はある場合において禁じられてきた。一方、ユダヤ教はそうでない。イスラム教では、利子は現代でも禁じられているように見える。また、これらの宗教は奴隷を富と考えてきた。

現実的な話では、アメリカ大陸やオセアニアの土地や資源は白人のものであるのかという問題もある。西欧白人の富の規範では、西欧白人がその土地と資源を所有して、彼らの富とすることが善であるかも。このように、宗教が異なると、富に対する規範も異なる。そして、その規範はそれぞれの独特な富に関する(商業)社会や経済やを形成してきた。そこで、彼は俺系統の富の規範を創造する。

7.1(俺系統の富) 彼の運転手が彼の意識と彼の肉体を直接的に所有する。

つまり、所有の主体は運転手である。彼の運転手が彼の意識と彼の肉体を通して、外部の意識や外部の物質を間接的に所有する。例えば、彼が彼の車を所有する時、それは彼の運転手が彼の意識や彼の肉体を通して、彼の車を所有する。

7.2(俺系統の富) 富は彼の運転手が所有する対象である。

一般化すると、富はより分岐された主体が所有する対象である。または、富はより上位な主体が所有する対象である。彼は富を直接的な富と間接的な富に分類する。直富は彼の運転手が直接的に所有する対象である。間富は彼の運転手が間接的に所有する対象である。また、富は必要なものである。しかし、富は原因でない。

8.0 性

 彼は俺系統の性を提示する。もし人々が自己の人間社会を形成するならば、彼らは自己の性規範を形成する必要がある。なぜなら、もし彼らが自己の性規範を持たないならば、彼らは自己の発情行為を彼ら自身で制御することができない。その時、彼らは可愛い女の子に発情して群がり、彼らは彼ら自身の組織を崩壊させる。

また、宗教は性のあり方を規定する。例えば、キリスト教では、性は汚いものとして認識される。一方、ユダヤ教では、性は汚いものとして認識されていない。キリスト教は同性愛を罪と定義して、彼ら同性愛者を迫害してきた。現代では、LGBTやジェンダーは西欧キリスト教及びユダヤ教系統の性のあり方である。このように、宗教が異なるとき、性に対するあり方が異なる。そこで、彼は俺系統の性を創造する。

8.1(俺系統の性) 彼は物質的性と動物的性と人間的性を認識する、または信仰する。

例えば、人間的性には、x教系統の男とx教系統の女がある。この宗教では、俺教系統の男と俺教系統の女がある。それぞれの性はこの宗教によって決められる。動物的性には、雌と雄がある。彼は性を物質に便宜的に認識する。例えば、Y染色体それ自体は物質である、かつ性を持たないが、人々はある種の物質的な性をその物質に見出している。また、彼は次の性を認識する。

8.2(俺系統の性) 彼は彼自身の性を物質的性と動物的性と人間的性の組みを認識する、または信仰する。

つまり、彼は自己の性が物質的性と動物的性と人間的性の組みからなっていると認識する。そして、彼はそれぞれを互いに対立しないと認識する。彼はY染色体という物質的性を持つ、かつ彼はホモ・サピエンスの雄という動物的性を持つ、かつ彼は俺系統の性という人間的性を持つ。俺系統の性は人工的である、または運転手と結び付いている。

8.3(俺系統の性) 彼は運転手と性は不可分である可能性があると認識する、または信仰する。

つまり、性を持たない運転手が存在するのかは不明である。もし運転手が肉体に依存するならば、運転手は肉体の性に対応する性を持つ。または、もし運転手の固有性が肉体に依存するならば、運転手は肉体の性に対応する性を持つ。この時、運転手には、雌系統の運転手と雄系統の運転手が存在する可能性がある。または、運転手には、女系統の運転手と男系統の運転手が存在する可能性がある。ただし、この女や男は人工的な何かでなく、運転手と結びつく自然な何かである。その何かは与えられたものである。

9.0 契約 

 彼は俺系統の契約を提示する。もし人々が自己の人間社会を形成するならば、彼らは自己の契約観を形成する必要がある。もし彼らが契約を持たないならば、彼らはお金の貸し借りすら満足に行うことができない。この宗教においても、もし信仰者(俺教徒)たちが創造主との契約を果たさないならば、この宗教の目的は実現されない。なお、彼はその状態を目的に反するとして悪いと判断する。

上記の性と同様に、宗教が異なると、契約も異なる。例えば、西欧文明の契約が自由意志に基づく合意である。もしあるネグロイド人種が奴隷に関する契約を彼の自由意志で契約したならば、そのネグロイド人種は契約に沿って奴隷になる。ユダヤ教では、ユダヤ教徒の契約は律法主義である。そこでは、ユダヤ教徒は彼らの神の命令に従っていれば良いと考えられているように見える。

また、契約は法や国家や言語や結婚や歴史にも関係する。例えば、欧州人はアメリカ合衆国という国家の存在の善性を自由意志による人工的な契約概念で正当化している。アメリカ合衆国は西欧キリスト教系統の契約によって成立している。このように、宗教が異なるとき、契約に対するあり方が異なる。そこで、彼は俺系統の契約を創造する。

9.1(俺系統の契約) 彼は物質契約と動物契約と人間契約を認識する、または信仰する。

または、彼は機械契約と動物契約と人間契約を認識する、または信仰する。物質契約には、自然法則や組式(program)が存在する。物質契約は認識や意味、善悪及びその判断を持たない。動物契約には、自由意志による合意や共通認識の形成がある。動物契約は自由意志によって形成される、かつ認識を持つ場合があるが、善悪を持たない。人間契約には、目的意志による契約や善悪を持った法がある。人間契約は目的意志によって、善悪やはっきりとした意味及び認識を持つ。

10.0 刑罰

 彼は俺系統の刑罰を提示する。もし人々が自己の人間社会を形成するならば、彼らは自己の刑罰を形成する必要がある。例えば、サッカーを含む運動競技系にも、罰則が存在する。たとえ選手が善を実行しようとするとしても、彼らは善に違反する行為を実行する。この時、刑罰が作動する。

宗教が異なると、刑罰も異なる。例えば、イスラム教では、盗みには、手の切断が実行される。清王朝では、りょうち刑が存在した。現代では、西欧キリスト教における刑罰はキリスト教的な人道によって特徴付けられている。このように、宗教が異なるとき、刑罰に対するあり方が異なる。そこで、彼は俺系統の刑罰を創造する。

10.1(俺系統の刑罰) もし彼が唯一に正当化される善悪を持つ運転手であるならば、彼は他者を罰する正当性を持つ。

または、もし彼が最も分岐されているならば、彼は他者を罰する正当性を持つ。つまり、刑罰の主体の善性は善悪、または分岐によって正当化される。日常的には、善悪を持ち、それを正しく扱える主体が他人を罰するべきである。

10.2(俺系統の刑罰) 彼は物質に対する刑罰と動物に対する刑罰と人間に対する刑罰を認識する、または信仰する。

または、彼は物質刑罰(機械刑罰)と動物刑罰と人間刑罰を認識する、または信仰する。もしある主体が動物であるならば、その主体は動物に対する刑罰を科される。もしある主体がx教系統の人間であるならば、その主体は人間に対する刑罰を科される。機械刑罰には、違反が存在する。たとえある主体が損害を与えていないとしても、もしその主体が違反するならば、その主体は刑罰を科される。

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