大和民族の科学者や数学者は科学者や数学者を天才と過剰に持ち上げてきた。しかし、大和民族の平民は科学者や数学者を天才と感じてこなかった。以下では、俺はその理由を提示するつもりである。
俺は数学を何も知らないが、河東泰之はきちんとした数学者であるように見える。また、俺の勝手な印象では、河東泰之は素晴らしい業績を残してきたように感じた。けれども、俺は河東泰之を素晴らしい知的選手であると認識する一方、俺は河東泰之が(人類史における)天才であると感じない。
以下では、俺は大和民族の科学者(理論物理学者)と数学者に対する俺の違和感を提示するつもりである。また、俺の勝手な印象では、河東泰之は(あまり目立たない)本物の神童であったように感じた。
河東泰之の知的能力
知覚
俺の認識 河東泰之は運動競技における知的選手として非常に高い知的能力を持っているように見える。
河東泰之の知的能力は運動競技における西アフリカ人の運動能力に似ている。河東泰之の知的能力はマイケル・ジョーダンの運動能力に対応するように見える。一般的に、科学者や数学者の知的能力はサッカー選手やバスケ選手の運動能力に対応する。
この知的能力は数理能力や記憶能力、情報処理能力である。この種の知的能力に関して、河東泰之は世界で最も優秀な人間であり、白人の科学者や数学者をしばしば凌駕する。俺は河東泰之は世界的にも高い知覚能力?を持っていると感じる。
認識
俺の認識 河東泰之は正常な認識能力を持っていない。
大和民族の平民が河東泰之を天才と感じないのはこの認識能力(cognition?)の低さである。一般的に、運動競技における運動選手は運動を競技していれば十分である。だから、運動選手には、正常な認識能力が必要とされない。運動選手は試合における平等性や公平性を認識する必要がない。
上記の運動選手と同様に、河東泰之もまた高い認識能力を持っていない。例えば、俺の印象では、河東泰之はアメリカ大陸の欧州人がアメリカ大陸の資源を所有して、統治者をやり、爆弾を世界中へと落としてきたことを白人帝国主義の継続と認識していない。河東泰之は俺らモンゴロイド人種が資源をアメリカ大陸の欧州人から購入しなければいけない状況を「奴隷」と認識していないように見える。
この状態はまるでジュニア・アイドルが大人によって性的に搾取されていることを認識できない状況である。河東泰之は非常に高い知的能力を持つのに、なぜ彼はこの状態を何かおかしいと認識できないのか疑問に思う。
判断
俺の認識 河東泰之は正常な判断能力を持っていない。
また、河東泰之は(善悪の)判断を下す能力を持っていない。さらに悪いことに、俺の印象では、河東泰之は自己の宗教を持っていないので、彼はx宗教系統の善悪(レッドカード)も持っていないように見える。もし俺らが自己の善悪を持っていないならば、俺らは物事の善悪を原理的に判断することができないだろう。
実際、大和民族の科学者や数学者の一部はアメリカ大陸の多様性を賛美してきた。なぜなら、彼らはその行為が善であるのか、悪であるのかを判断することができない。そして、彼らはその善悪を判断するための善悪それ自体を持っていない。俺の印象では、本当に簡単なことですら、河東泰之は善悪の判断を下せないように見える。
河東泰之と文明
文明
俺の認識 俺は河東泰之がどの文明に所属しているのかを認識することができない。
具体的には、俺は河東泰之が東洋文明(卓球)に所属しているのか、西洋文明(サッカー)に所属しているのかすら認識することができない。下衆の勘ぐりを実行すると、アメリカ先住民が国家を認識できなかったように、河東泰之は文明それ自体を認識できないので、彼は文明に対する自己の所属に無関心であってきたように見える。
これは河東泰之だけでなく、立川裕二も大栗博司も彼ら自身がどこの文明に所属しているのかに本当に無関心であるように見える。個人的には、俺にとってx文明とはx運動競技である。日常的には、任意の運動選手が彼がどの運動競技に所属しているのかを気にするように、文明民は彼ら自身がどこの文明に所属しているのかを気にする。
国家
俺の認識 河東泰之は自己の国家それ自体を認識していない。
この性質は河東泰之だけでなく、立川裕二も大栗博司にも応用される。一般的に、大和民族は国家、特に自己の国家それ自体を認識していないように見える。例えば、河東泰之は現在の日本国が国民国家制度(nation-state)を採用していることを何かおかしいと感じない。
さらに、河東泰之は河東泰之の肉体の存在や状態、そして運動(または行為)がキリスト教系統の日本国憲法によって縛られていることに違和感を覚えないように見える。もし河東泰之が自己の国家それ自体を認識したならば、彼は国民国家や日本国憲法のおかしさ(国家的、及び文明的な正当性の欠如)を感じているはずである。
宗教
俺の認識 河東泰之は宗教それ自体を認識していない。
この性質は河東泰之だけでなく、立川裕二も大栗博司にも応用される。一般的に、大和民族は文明と国家、そして宗教の3つを認識していない。例えば、河東泰之については不明であるが、大和民族は人権や差別、男女平等という単語を使用してきた。
けれども、俺が彼はキリスト教徒であるのかと彼らに尋ねると、彼らは彼らはキリスト教徒でないと応答する。なぜなら、彼らは宗教それ自体を認識できないので、これらの単語がキリスト教系統の単語であると認識していない。彼らは彼ら自身がキリスト教徒でないのに、人権や差別、男女平等という単語を使用していることのおかしさを感じ取ることができないように見える。
また、大和民族はキリスト教徒の石破茂が天皇の女系男系を決定しようとしていることにおかしさを感じないように見える。さらに、彼らはキリスト教系統の憲法を持って、選挙で天皇を廃止しようとすらする。おそらく、天皇は神道における宗教的な存在であるので、その存在はキリスト教や地中海文明における手法(選挙)によって変更及び廃止されることは宗教的に正当でない。けれども、彼らは宗教や文明それ自体を認識できないので、彼らは彼ら自身の発言のおかしさを認識できないように見える。
河東泰之と社会性
言語
俺の認識 河東泰之は自己の言語それ自体を認識していない。
または、河東泰之は自己の言語を彼自身で形成する能力を持っていない。もっというと、河東泰之は自己の言語を彼自身で形成するという発想それ自体を持っていない。例えば、現在の日本国では、カタカナ用語が氾濫している。この状態は言語の治水がなされていない状態である。IT業界でも会社名でも本当に不要なカタカナ用語が溢れている。
しかし、河東泰之を含む大和民族はこの状態が何かおかしいと感じていないように見える。なぜなら、彼らは言語それ自体を認識していない。言語もデザインも歴史も社会システムから導かれるように感じる。だから、もし河東泰之が社会システムそれ自体を認識することができないならば、その時、河東泰之が言語もデザインも歴史も認識できていなくても不思議でない。
デザイン
俺の認識 河東泰之はデザインそれ自体を認識していない。
または、河東泰之は自己のデザインを彼自身で形成する能力を持っていない。もっというと、河東泰之は自己のデザインを彼自身で形成するという発想それ自体を持っていない。デザインには、肉体のデザインや街のデザイン、文字のデザインが存在する。
河東泰之は数学者であるのに、彼は自己の肉体のデザインにも無関心であるように見える。それだけでなく、河東泰之は日本列島の上の街並みのデザインや日本語のデザイン、ホームページのデザインにも無関心であるように見える。この状態を見ると、河東泰之が幾何学や微分幾何学を生み出すことができなかったのは当然であるように感じる。
一方、コーカサス人種はデザインに非常に執着してきた。彼らは街のデザインや自己の肉体のデザインに関する強い関心を持ってきた。俺の印象では、デザインに関する彼らの強い関心は幾何学の発展に関係していたように見える。河東泰之はおそらく数学が非常にできる。にも関わらず、彼はデザインに無関心であり、より良い街並みや肉体のデザインを作ろうする発想を持っていないように見える。
歴史
俺の認識 河東泰之は自己の歴史を認識していない。
また、河東泰之は自己の歴史を彼自身で形成する能力を持っていない。もっというと、河東泰之は自己の歴史を彼自身で形成するという発想それ自体を持っていない。彼が感じている歴史とは、白人視点の認識や判断の記憶である。
もし河東泰之が自己の歴史それ自体を認識するならば、その時、彼はアメリカ大陸の多様性を安易に賛美する歴史を書こうとしないだろう。または、河東泰之はこの種の白人視点をきちんと拒絶するはずである。けれども、河東泰之だけでなく、大和民族の科学者や数学者はアメリカ大陸の多様性が賛美されている状態をおかしいと指摘せず、そのような歴史が書かれても傍観している。
河東泰之と社会形成能力
怠惰
俺の認識 河東泰之は自己の社会形成に関して非常に怠惰である。
大和民族の学者は日本国民を「バカ」や「アホ」と侮辱している。しかし、河東泰之は学問の自由や大学の自治を主張してきたのにも関わらず、彼はこの種の侮辱者を排除するようなアカデミアを彼自身で形成することを怠ってきた。この種の性質は河東だけでなく、大和民族の学者のほとんどに言える。彼らは非常に怠惰であり、彼らは居心地の良い状態を変化させようとしない。
社会性能力の欠如
俺の認識 河東泰之はスラム街のような自己の社会(組織)しか形成することができない。
河東泰之は(知的)運動選手として非常に高い能力を持っている。一方、彼は自己のまともな社会すら彼自身で形成することができない。彼が作っている組織は子供の学芸会やスラム街のような組織である。河東泰之は契約相手を馬鹿と呼ぶことを悪いと判断して、かつ侮辱者を排除する社会を彼自身で形成することができない。
自衛隊も警察官も国民を実名で侮辱しない。けれども、大学教員は国民をゲーデルの不完全性定理を理解できない馬鹿と侮辱する。そして、この種の侮辱者は「研究室は独立だから…」などと言って放置されている。俺が彼らを見ると、彼らは彼ら自身の組織を彼ら自身で形成する意志それ自体を持っていないように見える。彼らは侮辱や中傷が蔓延するスラム街に居心地の良さを覚えるように見える。