なぜなら、オウムは善悪や認識、判断を高学歴に授けることに成功した。オウム真理教の幹部には、理系高学歴が多かった。野田成人(物理)と中川智正(医学部)と富永昌宏(医学部)と林郁夫(医学部)と石川公一(医学部)、豊田亨(物理)と村井秀夫(物理)、渡部和実(工学?)があった。
上記のように、オウム真理教の幹部には、高学歴が多い。実際、彼らの試験の点数や学力は世界でも有数であったはず。しかし、彼らはオウムにハマってサリン事件を引き起こした。オウム真理教の奇妙な点は理系が宗教にハマったことである。一般的に、理系は宗教を嫌って、変な宗教にはまらない「雰囲気」が存在してきた(ただし、数学科を除く)。
だから、人々は理系高学歴を見て、非常に驚いた。しかし、俺は理系がオウムにハマったことは不思議でないと感じる。なぜなら、善悪は自然界には存在しない。しかし、人々が人間社会を形成するとき、人間は何らかの善悪を必要とする。サッカーの試合を形成するとき、行為に対するレッドカードが必要とされるように。
x教系統の善悪(レッドカード)
俺系統の認識 自然界には、自己の善悪や自己の判断や自己の認識は存在しない。だから、大和民族の理系は自己の善悪、自己の善悪の自己の判断、そして自己の認識を扱うことを苦手とする。
なぜなら、自己の善悪と自己の善悪の自己の判断、そして世界に対する自己の認識は自然界には存在しない。しかし、人間が自己の人間社会を形成するとき、自己の文明を作るとき、人間は自己の善悪を必要とする。さらに、彼らは判断や認識を苦手とする。
一般的には、宗教は自己のを授けたり、その自己の善悪を正当化する。宗教は自己の正しい判断と自己の正しい認識を信仰者に授ける。だから、自己の善悪を授ける宗教の需要は無くならない。
人々は高学歴の理系がオウムにはまったことに驚いた。しかし、たとえ理系が学問を修めるとしても、彼らは善悪を自然界の中に発見することができないので、善悪の問題は日常的には残り続ける。
x教系統の善悪に関する具体例
例えば、自然界には、善悪は存在しない。だから、日常的には、科学は平等と公平のどちらが正しいか(善であるのか)を決定できない。野田成人は物理の人間であるが、たとえ彼が物理を極めるとしても、善悪の問題は日常的には残される。
理系が男女平等と男女公平のどちらが善であるのかを渇望するとき、彼らがオウムにパッと飛びつく余地は常に存在するように思える。なぜなら、オウムは善悪を信仰者に授ける能力を持っていた可能性があった。
科学や数学は「男女公平が善である」と言ってくれない。一方、オウムは「男女公平が善である」と言ってくれた可能性があった。もしある種の理系が善悪を求めたならば、彼らがそのオウムに飛びついた可能性はあっただろう。特に、彼らは善悪の正当性を求める。
善悪の問題は大学教員による暴力や嫌がらせにも言えるだろう。大和民族の理系学者は「ゲーデルの不完全性定理を理解できないクズ」や「汚物」や「とんでも」や「ゴミ」と契約相手である民を侮辱してきた。彼らの行為に対して、学生たちは強烈な違和感を覚えてきたはずである。
なぜ奈良女子大学や東北大学の未開人やヴォルデモート卿は契約相手を侮辱することを認識して、かつ悪いとx教系統の善悪で判断することができないのだろうか?数学や科学は契約相手を「ゲーデルの不完全性定理を理解できないクズ」と侮辱することすら悪いと判断することができない。学生が科学や数学にある種の物足りなさを感じるのは不思議なことでない。
一方、オウム真理教は「ゲーデルの不完全性定理を理解できないクズ」と侮辱することすら悪いという善悪を授ける能力を持っていたかもしれない。もし学生が大和民族の学者による客に対する侮辱に違和感を覚えてきたならば、彼らがオウム真理教が授ける善悪に魅了されても不思議でないだろう。
実際の具体例
理系が善悪を扱うことを苦手とする例を見てみよう。例えば、男女平等の平等はキリスト教系統の考えである。しかし、理系はなぜか男女平等を善と感じている。おそらく、彼はキリスト教徒でないのにも関わらず、彼は男女平等に賛成する。なぜなら、彼は西側白人に「日本は男女平等でない」と怒られるのが怖いからである。彼は白人と同じじゃないと不安であるので、彼は日本人や日本国がキリスト教徒の西側白人と同じように男女平等になってほしいと感じてる。
さらに、真木和彦(Willy OES)は男女比が同じでないことを差別と「認識(cogintion)」している。しかし、ある程度、善悪や認識に執着する人間は男女比が同じでないことを「差別」とも「失礼」とも認識しない。彼は自己の善悪や自己の認識に無関心であり、西側白人の善悪や認識に完全に依存しているので、彼は自己の善悪や自己の認識を渇望しない。
けれども、もし真木和彦が成熟した大人になり自己の善悪や自己の認識を本当に渇望するならば、オウム真理教が彼の心の中に入り込む余地があるだろう。実際、オウムにはまった理系はキリスト教でなく、仏教であった。彼らはキリスト教徒の西側白人に依存しない自己の善悪や自己の認識を求めたのでないかと憶測する。その自己を授けたのがたまたまオウム真理教であった。
また、真木和彦は日本社会という単語を使用したが、その日本社会はキリスト教系統の社会であるのだろうか?もしそうでないならば、日本社会は男女平等を実現する必要はない。
上記の真木和彦と立川裕二と下記の大栗博司は実質的なキリスト教徒であり、男女平等に賛成している。たとえ彼らが数学や科学を極めるとしても、彼らは男女平等が正当であるか、男女公平が正当であるかを判断できない。そのため、オウム真理教のような宗教が入り込む余地が常に存在する。
上記の学者たちが宗教を必要ないと感じるのは、彼らが白人のキリスト教的な価値観を引用し続けてきたからである。俺は上記の3人はオウム真理教にハマる余地が存在すると審判する。なぜなら、彼らは彼ら自身の善悪(レッドカード)を持っていない。
俺の印象では、西側白人やキリスト教系統の善悪に違和感を覚える人間ほどオウムにハマりやすい。上記のように、本当に洗脳されやすい白人崇拝者はオウムにはハマらないだろう。しかし、彼らはキリスト教というキリスト真理教に完全にハマっている。または、彼らは白人真理教に完全にハマってる。
彼らは宗教という人間競技を持たない人間である。だから、キリスト教的な価値観、つまり男女平等が彼らにスルッと入り込んでしまった。野田成人もまた彼自身の善悪(レッドカード)を持たなかったので、オウム真理教の教えがスルッと入り込んだように。
x教系統の死生観
オウム真理教の幹部には、中川智正のような医者が多かった。それはなぜであるか?なぜなら、商業柄、医者は「死生観の問題」に対峙する必要がある。その死生観の問題の解は善悪と同様に自然界には存在しないので、宗教がそこに入り込む。
x教系統の死生観の問題
医者が老人や癌患者に接するとき、医者は死生観の問題に接する。それは老人を治療することは正当であるか、癌患者を治療することは正当であるか、である。行為の正当性、つまり行為の善悪は自然界には存在しない。
だから、宗教が必要となる。なぜなら、宗教は行為の正当性や善悪を与える。科学や数学は癌患者を治療することが正当であるかを教えない。
一般的に、医者は科学者や数学者よりもこの種の善悪や治療行為の正当性に関すり問題に接する。その時、たとえ医者が科学書や数学書を調べるとしても、その答えはその種の書籍には存在しない。その結果、医者の一部は正当な医療行為を求めて宗教にハマる。
x教系統の死生観
統一された死生観なしに、医療現場は正常に回らない。ある人間は安楽死に反対して、ある人間は安楽死に賛成する。または、ある人間は輸血行為を正当でないとみなすので、輸血に反対する。
死生観がバラバラでは、任意の医者はその種の患者に対応できない。だから、正常な医療のためには、ある種の統一された死生観を必要とする。そして、宗教がそれを与える。
人間社会という運動競技を回すためには、行為に対するレッドカード、つまり善悪が必要である。同様に、医療現場を回すためには、死生観が必要である。優秀でない人間を治療する必要があるのかという問題も存在してきた(もちろん、医者はこれを言わないが、)。