大和民族は多神教徒の未開の民であり、彼らはあらゆる対象を神様として崇拝する。俺がは山口雄也に対する大和民族の態度を見た後、俺は山口雄也は病人として崇拝されていると審判した。以下では、俺は大和民族の病人崇拝を提示する。
病人崇拝とは?
俺の認識:病人崇拝とは、ホモ・サピエンスが病人を神様として崇拝する行為である。
病人崇拝とは、ホモ・サピエンスが病人を神様として崇拝する行為である。つまり、大和民族の多神教社会では、大和民族は病人を神様として崇拝している。ここでは、白血病に侵された山口雄也が神様である。
弊害
病人は神様である。だから、病人に対する批判は神様に対する冒涜となる。なぜなら、病人に対する伐採は神様に対する冒涜と認識される。その結果、病人はどんなに失礼なことをやっても、レッドカード(悪)を出されず、神や人権や差別などの単語によって擁護される。
一般的に、多神教は未開で遅れた宗教であると認識される。なぜなら、多神教徒は何でもかんでも神様として崇拝してしまう。その結果、俺らが何らかの対象を批判する時、その対象を神様として崇拝する日本人がその批判を神様に対する冒涜と解釈して、怒り狂ってくる。
さらに、彼らはその神様を何でもかんでも擁護しようとする。なお、病人は若くて不治の病いに侵されているほうがより崇拝されやすい。将来有望な若者が不治の病いによって将来の芽をつまされるという話がより強い崇拝対象になる。
未開性
病人崇拝の未開性は統治や管理に関係する。一般的に、神様は崇拝される対象であると同時に、民を適切に管理・統治する対象として機能する。大和民族が病人を神様として崇拝することは「大和民族という民族はもう死ぬ病人によって管理される人々である」と言ってることに等しい。
文明民は病人を神様として崇拝しない。なぜなら、文明的な民は自己を管理させるために、彼らは一神教や法概念や統治制度、痛みや軍事、お金や言葉を必要とする。彼らは単なる木や障害者、病人やオタサーの姫によって管理・統治されない。
病人崇拝では、単なる病人が神様として崇拝される。病気の言葉を聞く病人が自己の病気を通して、神道の大和民族を管理・統治しようとする。例えば、病人は「血が足りません。献血をもっとして。これをRTして下さない」などというように。キモオタがオタサーの姫の一言によって容易に管理されるように、大和民族は病人の一言によって容易に管理される。
社会における献血の是非の話(山口の電子場所への電飛)は非常に難しく、知的な人々による精密な社会設計が必要である。俺らは病人による献血の呼びかけに安易に応じる必要はない。献血に関する社会設計にそって、冷静に運動する必要がある。