新儒教〜所有と富の章〜

新儒教
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創造主は儒教系統の富と儒教系統の所有を創造する。宗教や生活形態が異なると、富のあり方や富の取り扱いが互いに異なる。例えば、イスラム教では、利子が禁じられているらしい。キリスト教では、お金儲けがあまり好まれていない。一方、ユダヤ教やヒンドゥー教では、この種の禁忌は存在しないように見える。近代以降、キリスト教プロテスタント派系統の富の考え「資本主義」が生み出された。

宗教や人種、文明が異なると、何が富であるのかも異なる。例えば、アブラハムの宗教では、牧畜という生活形態のためか、奴隷が一つの富とされてきたように見える。実際、黒人奴隷やモンゴロイド人奴隷は富として扱われてきた。現在では、x教系統の人間を要素とする会社やサッカーチームも一つの富として扱われてきた。さらに、肉体を動産のように扱うのかも宗教によって異なるように思える。

さらに、所有は次の問いを導く。アメリカ大陸の西欧白人がアメリカ大陸の資源をアメリカ先住民を押しのけて所有していることの善性は正当化されるのかである。以下では、彼は儒教系統の富を提示する。

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1章 儒教系統の所有

所有の主体

所有が何であるのかを定める前に、創造主は所有の主体を次のように提示する。彼は所有の主体を中の人と信仰する。

儒教系統の信仰1 所有の主体は中の人である。

もし中の人が存在しないならば、意識の何かが所有の主体である。例えると、肉体を車体とする。意識を車内の立体映像とする。中の人は運転手である。この時、何かを所有するのは、その運転手である。何かを所有するのは、車体や立体映像でない。

儒教系統の信仰2 所有の主体はx教系統の人間性を持つ中の人である。

信仰1では、動物が所有の主体になる可能性がある。そこで、彼はx教系統の人間性を持つ中の人として、動物を所有の主体から除外した。たとえ動物が中の人?(中の主体)を持つとしても、動物はx教系統の人間性を持たない。動物の人間性は言葉を含む手段によって表現されない。だから、動物は所有の主体でない。

儒教系統の思考規範1 もしある主体が所有の主体を持たないならば、その主体は任意の対象を所有しない。

何かを所有するためには、対象を所有する自己が必要である。上記の主体は日常的な意味での主体であり、中の人でない。彼はその主体を中の人(主体)と信仰する。なお、その主体の自己が表現されている必要がある。

所有

所有が何であるのかは厳密には定義されていない。創造主は所有が何であるのかを現時点で定義する。感覚的には、所有する主体が存在して、その主体が対象をその意志で動かすことができる。幾何学的には、所有する主体と対象が線で結ばれている。

儒教系統の決まり1 ある対象を所有するとはある状態である、かつそこで所有の主体がその対象をその意志で運動させることができる。

なお、対象の運動に、対象の状態を変化させることがあるとする。例えば、ある主体がお金の状態を変化させる。彼はこれをお金の運動と解釈する。より正確には、ある対象を所有するとはある状態である、かつそこで所有の主体がその対象をその意志で対象との契約なしに運動させることができる。その状態の時、彼は線を所有の主体とその対象との間に考える。そして、彼はその線を所有線と便宜的に呼ぶ。

儒教系統の決まり2 ある対象を所有するとはある状態である、かつそこで所有線が所有の主体とその対象との間に認識される。

口語的には、所有線が認識されるとき、その対象は所有される。その認識は言葉で表現されたり、契約書に書かれる。幾何学的には、所有の主体とその対象との間に、a-bのような線-が存在する。

所有の系統性

創造主は所有の系統性を導入する。宗教が異なると、所有とは何であるのかが異なる可能性が高い。イスラム教における所有の考えは仏教における所有の考えと異なるだろう。そこで、彼は儒教系統の所有という単語を下記で提示する。

儒教系統の決まり1 x教系統の所有はx教徒が実行する所有である。

儒教をxに代入すると、儒教系統の所有は儒教徒が実行する所有である。儒教系統の所有が何であるのかは下記である。当然、儒教系統の所有はキリスト教系統の所有と異なる。

所有の性

創造主は所有の性を導入する。彼が信仰するのは、中の人には性に関する系統性がある。所有の主体は中の人である。もし中の人に性に関する系統性があるならば、中の人による所有にも性に関する系統性がある。彼は次の思考規範を提示する。

儒教系統の思考規範1 もしある主体が儒教徒であるならば、その主体はx教徒の男性系統の所有をx教徒の女性系統の所有から区別する。

認識の形式で書くと、彼はx教徒の男性系統の所有とx教徒の女性系統の所有を認識する。口語的には、x教徒の男性系統の所有とx教徒の女性系統の所有が存在する。ただし、女性系統の所有が何であるのかは女性によって創造される。

物質と所有

歴史的には、人々は物質を所有してきた。例えば、彼らは土地や建物や水や食物や石油を所有してきた。これらは物質である。創造主は物質の所有を言葉で表現する。

儒教系統の認識1 彼は物質を所有の対象と認識する。

思考規範の形式で書くと、もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は物質を所有の対象と認識する。

動物と所有

歴史的には、x教系統の人間は家畜を所有してきた。家畜には、馬や牛や豚が存在する。馬や牛や豚は動物である。つまり、x教系統の人間は動物を所有してきた。所有される動物には、家畜の他に、犬猫のような愛玩動物も存在する。創造主は動物の所有を言葉で表現する。

儒教系統の認識1 彼は動物を所有の対象と認識する。

思考規範の形式で書くと、もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は動物を所有の対象と認識する。

無形の所有

現在の世界では、人々は権利を所有する。例えば、彼らは著作権を持っている。彼らはxする権利を売買したり、行使したりする。しかし、これらは物質でも動物でもない。これらは物質でも意識でもない。そこで、創造主は無形の何かを所有することを次ように認識する。

儒教系統の認識1 彼は物質化された無形を所有の対象と認識する。

物質化された無形には、書類がある。文字として表現された無形の何かは物質である。例えば、契約書に書かれた権利は無形の何かである。物質化された無形には、言語や文字や認識や善悪や競技系や宗教や国家や文明がある。

肉体の所有と意識の所有

肉体は物質である。中の人はその肉体をその意志で運動させることができる。だから、中の人は肉体を所有する。創造主は肉体の所有を次のように提示する。

儒教系統の思考規範1 もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は自己の肉体を所有する。

認識の形式では、彼は彼は彼の肉体を所有すると認識する。彼を儒教に置き換えると、儒教徒はその肉体を彼自身で所有する。

儒教系統の思考規範2 もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は自己の意識を所有する。

認識の形式では、彼は彼は彼の意識を所有すると認識する。彼を儒教に置き換えると、儒教徒はその意識を彼自身で所有する。ただし、意識が運動するのかや意識を運動させることができるのかは不明である。そこで、彼は次のように解釈する。

例えば、目を瞑ると、視界は遮断される。彼は肉体を運動させて、意識の状態を間接的に変えることができる。彼はこの状態の変化を意識の運動と便宜的に解釈する。

儒教系統の思考規範3 もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は自己の中の人を自己所有する。

中の人は所有の主体であり、所有の対象でない。自己所有は便宜的な考えである。自己の中の人を自分で所有しないと、非自己によって所有される可能性がある。そこで、彼は中の人を自分で自己所有すると便宜的に仮定する。この時、非自己によって容易に所有されない。なぜなら、自己を自分で所有している。

認識の形式では、彼は彼は彼の中の人を所有すると認識する。彼を儒教に置き換えると、儒教徒はその中の人を彼自身で所有する。もしある中の人が自己の中の人を彼自身で所有することができないならば、彼は次の思考規範を使用する。

儒教系統の思考規範4 もしある主体が儒教徒であるならば、創造主は自己の中の人を所有する。

つまり、創造主が儒教徒の中の人を所有する。儒教徒は中の人の所有を創造主に委ねる。

人間の所有について

歴史的に、コーカサス人種の牧畜民は奴隷を所有してきた。近代では、黒人奴隷やモンゴロイド奴隷が有名である。彼らは奴隷の存在を前提として彼らの社会や文明を形成してきた。新儒教では、創造主は奴隷を所有しない。

儒教系統の思考規範1 もしある主体が儒教徒であるならば、その主体はx教系統の人間及び人間の集合を所有しない。

なお、人間の集合には、会社や運動選手の集団が存在する。彼は会社や運動選手の集団それ自体を所有しない。特に、彼は会社や運動選手の集団それ自体を売り買いしない。株式会社は奴隷につながる可能性が高い。

売買と所有

以下では、創造主は所有を売買の観点から書き換える。例えば、感覚的には、奴隷が奴隷的であるのは、奴隷が所有者の都合で売買されるからである。一般的には、奴隷は所有されるサピエンスであるように感じる。しかし、たとえ両親が子供を所有して、子供を管理するとしても、もしその両親が子供を売買しないならば、人々はその状態を奴隷と認識しない可能性がある。

つまり、対象を所有することは対象を所有する、かつその対象を売買することと異なる可能性がある。そこで、彼は所有と売買を含む所有を区別する。

儒教系統の決まり1 売買所有は所有である、かつ所有の主体は対象を売買する。

日常的には、売買所有(ばいばいしょゆう)が所有である。売り買いを実行しない所有は所有でない。彼は売り買いを実行しない所有を純粋所有と便宜的に呼ぶ。

奴隷と所有

以下では、創造主は奴隷に関する思考規範を提示する。また、彼は奴隷の系統性を提示する。

儒教系統の思考規範1 もしあるx教系統の人間が所有の主体によって富として所有される、かつもしその人間が売買される対象であるならば、その人間は奴隷である。

上記の思考規範を使用すると、株式会社の社員や運動選手の集団は集団の所有者の奴隷である。なぜなら、選手や社員は富である。そして、選手や社員は個人や集団として売買されている。

儒教系統の決まり1 x教系統の奴隷はx教系統の人間である、かつx教系統の中の人がその人間をx教系統の所有で所有する。

または、x教系統の奴隷はx教系統の人間である、かつx教系統の所有の主体がその人間をx教系統の所有で所有する。キリスト教をxに代入すると、キリスト教系統の奴隷はキリスト教系統の人間である、かつキリスト教系統の中の人がその人間をキリスト教系統の所有で所有する。

奴隷と牧畜民

一般的には、奴隷を取るのは牧畜民である。それに対して、農耕民や狩猟民は奴隷を取らない。狩猟民は所有の認識を持っていない。創造主はこの認識を表現する。

儒教系統の認識1 牧畜民はx教系統の奴隷を取る。

より正確には、彼が認識するのは、牧畜民はx教系統の奴隷を取る。彼らは家畜や奴隷を財産と考える。牧畜民は奴隷の存在を前提とした社会を形成して、彼らは奴隷を使役することを当然と考える。そのため、牧畜民は他人を使役する高い能力を持っている。ただし、牧畜民は労働に関して怠惰である。

一方、農耕民は自分で労働するので、彼らは奴隷を必要としない。彼らは奴隷を使役せずに、自分で労働して、彼らは富を彼ら自身で築く。例えば、漢民族やインド人が農耕民族的である。漢民族の商売もインド人の商売も牧畜的でなく、奴隷的でない。漢民族やインド人はモンゴル人を除くアジア人へと一般化される。

所有する権利の源泉

権利は人工的な能力である。新儒教では、創造主は創造主が所有するx教系統の人工的な能力を創造する。そして、創造主がその能力をx教徒に授ける。さらに、統治者がその能力を統治する。つまり、新儒教では、所有する権利の源泉は創造主にある。

儒教系統の認識1 創造主が儒教系統の所有権を創造した後、創造主がその権利を儒教徒に授ける。その後、場合により、統治者がその権利を社会的に統治する。

儒教徒は創造主によって授けられた所有権をもつ。儒教徒はその権利を発現させる。儒教徒は所有権を創造主の意志と目的に沿って自分で統治する。場合により、統治者はその権利に社会的に干渉する。例えば、もしある主体が違法行為を実行するならば、統治者は富を所有する権利に干渉して、富をその主体から取り上げる。

対象を所有する権利は創造主によって創造されたものである。対象を所有する権利はそれぞれの個人が生得的に持つ何かでない。

所有と社会

所有は個人的な何かであるのか、社会的な何かであるのかは議論されてきた。もし所有が個人的な何かであるならば、たとえ社会や国家が存在しないとしても、ある主体が何かを所有する。そして、その所有する権利は侵害されない。もし所有が社会的な何かであるならば、社会や国家が存在しないとき、ある主体が何かを所有しない。感覚的には、後者は前者よりも現実的である。そこで、創造主は次の思考規範を提示する。

儒教系統の思考規範1 もしある競技系が存在しないならば、所有も存在しない。

言い換えると、もしある競技系が存在しないならば、所有権も存在しない。もしある社会や宗教が存在しないならば、所有も存在しない。もしある宗教が存在しないならば、所有も存在しない。競技系なしに、所有は存在しない。所有は社会的なものでもある。

なお、思考規範の対偶を取ると、もし所有が存在するならば、競技系が存在する。時間的な順序は、競技系が存在した後、所有が存在する。競技系を社会に変えると、社会が存在した後、所有が存在すつ。これを解釈すると、所有は個人という局所から集団という大局へと構成されない。

アングロサクソン的な所有観だと、彼の印象では、個人が初めに存在して、その個人が不可侵な所有権を持つ。その後、その個人の所有権を集団という大局へと構成して行って、社会的な所有権が生じる。儒教的な所有観では、創造主が社会を創造して、所有権を儒教徒に授ける。その儒教徒が所有権を持つ。

儒教系統の思考規範2 もしある儒教が存在しないならば、儒教系統の所有も存在しない。

もしある儒教が存在しないならば、儒教系統の所有権も存在しない。上記で述べたように、対象を所有する権利は創造主によって付与される。もし儒教が存在しないならば、対象を所有する権利は創造主によって付与されない。その時、ある主体は何かを所有する権利を持たない。だから、もしある儒教が存在しないならば、儒教系統の所有権も存在しない。上記を書き換えると、もしある儒教の創造主が存在しないならば、儒教系統の所有権も存在しない。

所有における西洋と東洋

アングロサクソン諸国では、個人の所有権は不可侵であると感じられている。それに対して、東洋文明では、個人の所有権は弱く、統治者の都合によって侵害されると感じられている。しかし、創造主はこの感じ方は逆であると認識する。つまり、東洋における個人の所有権はより強い。

儒教系統の認識1 東洋文明における個人の所有権は西洋文明における個人の所有権よりも強い。

上記の具体例には、景観が存在する。東洋では、個人の所有権が強すぎて、景観が破壊されている。また、空港の建設や公共施設の建設も個人の所有権によって延々と妨害されている。東洋人は個人主義というよりも単なる我儘や我欲である。それに対して、白人を含むコーカサス人種は集団的であり、社会的である。

それに対して、西洋では、西洋文明における個人の所有権はより弱い。西洋では、社会のために、個人の所有権は容易に侵害される。そして、所有者もそれに従う。西洋では、社会は個人に優越する。

所有における個人と社会

儒教では、創造主は社会を個人に優先させる。特に、景観や空港の建設の場合、彼は個人的な所有を解除する。

儒教系統の思考規範1 もし個人の所有が競技系と対立するならば、競技系が優先される。

競技系を社会と置くと、もし個人の所有が社会と対立するならば、社会が優先される。この例には、景観の整備や空港などの公共施設の建設がある。

儒教では、創造主が所有権を儒教徒に授ける。もし個人の所有権が創造主やその意志や目的に反するならば、創造主やその意志や目的が優先される。同様に、もし個人の所有権が創造主の競技系に反するならば、創造主の競技系が優先される。

所有権の目的性

創造主はこの世界を自動的なものと非自動的なものと目的なものからなっていると認識した。彼はこの認識を所有権にも応用する。所有権を授けられた儒教徒は創造主の目的と意志に沿って、所有権を扱う必要がある。

儒教系統の思考規範1 もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は所有権を目的的に使用する。

より正確には、もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は所有権を創造主の目的と意志に沿って目的的に使用する。日常的には、儒教徒は対象を所有する能力を儒教系統の目的意識を持って、発現させる。

自然所有と反自然所有

西欧白人はオセアニアやアメリカ大陸の資源を所有している。アメリカ先住民というモンゴロイド人種やアボリジニはアメリカ大陸の資源やオセアニアの資源を所有していない。もしネグロイド人種でなく西欧白人がサブサハラの資源を所有しているならば、その時、人々はその状態を植民地主義や白人帝国主義の継続と認識するだろう。

または、もしアラブ人でなく西欧白人がサウジアラビアの石油を所有していたならば、人々はその状態を植民地主義や白人帝国主義の継続と認識するだろう。そこで、創造主は自然性と半自然性を所有に導入して、この種の違和感を解消する。

儒教系統の決まり1 自然所有は所有である、かつある主体が自然な生息地を自然に所有する。

自然所有は所有である、かつある自然な主体が自然な生息地を自然に所有する。例えば、アラブ人がサウジアラビアの石油を所有する。これは自然所有である。ネグロイド人種がサブサハラの資源を所有する。これは自然所有である。

儒教系統の決まり2 反自然所有は所有である、かつある主体が反自然な生息地を反自然に所有する。

反自然所有は所有である、かつある不自然な主体が反自然な生息地を反自然に所有する。反自然は不自然に置き換えられる。例えば、白人がアメリカ大陸及びその上の資源を所有することは反自然所有である。白人がオセアニア及びその上の資源を所有することは反自然所有である。

儒教系統の決まり3 もしある主体がある対象を反自然所有するならば、その主体は自然な主体を奴隷化している。

例えば、もし西欧白人がアメリカ大陸の資源を反自然所有するならば、その西欧白人は自然な主体を奴隷化している。奴隷化は不可触民化や間接的な奴隷化である。自然な主体はアメリカ先住民というモンゴロイド人種である。

西欧白人はアメリカ大陸の資源を反自然所有して、モンゴロイド人種を強制的に労働させて、その資源をモンゴロイド人種に売りつけて、利益を貪っている。彼はこの状態を奴隷化と認識する。

多重所有

一般的には、ある主体はある対象を所有する。主体の数を一般化して、複数の主体がある対象を所有する場合を考える。

儒教系統の決まり1 多重所有は所有である、かつある種の主体たちがある対象を多重に所有する。

例えば、モンゴロイド人種が彼らの自然な生息地を多重に所有する。東洋人と東南アジア人とアメリカ先住民がアメリカ大陸を多重に所有する。または、東洋人と東南アジア人とアメリカ先住民がアメリカ大陸および東アジア及び東南アジアを多重に所有する。サピエンスが地球を多重に所有する。

比較所有

一般的には、ある主体はある対象を所有する。創造主はこれを比較的に考える。つまり、ある主体はある対象を別の主体と比較して比較的に所有している場合を考える。

儒教系統の決まり1 比較所有は所有である、かつそこである主体はある対象を別の主体に対して比較的に所有する。

例えば、アメリカ先住民はアメリカ大陸を自然に所有する。東洋人や東南アジア人はアメリカ大陸をコーカサス人種に対して比較的に所有する。アメリカ先住民はアメリカ大陸を東南アジア人はアメリカ大陸に対して比較的に所有する。

アメリカ大陸の所有

西欧白人はアメリカ大陸の当然のように所有している。しかし、アメリカ先住民というモンゴロイド人種がアメリカ大陸とその上の資源を所有していないのは不自然である。そこで、創造主はアメリカ大陸の所有に関する思考規範を次のように考える。

儒教系統の思考規範1 もしある主体が儒教徒であるならば、モンゴロイド人種がアメリカ大陸を自然に多重に比較的に所有する。

言い換えると、もしある主体が儒教徒であるならば、モンゴロイド人種がアメリカ大陸を非モンゴロイド人種に対して自然に多重に比較的に所有する。アメリカ先住民がアメリカ大陸を最も強く比較的に所有する。東洋人と東南アジア人とアメリカ先住民がアメリカ大陸を多重に所有する。東洋人や東南アジア人はアメリカ大陸をコーカサス人種及びネグロイド人種及びオーストラロイド人種に対して比較的に所有する。

所有の善悪

一般的に、ある主体が奴隷を所有するとき、その所有行為の善悪が問題になる。現実的には、西欧白人がアメリカ大陸や市の上の資源を所有していることも問題になる。そこで、創造主は所有行為の善悪を考える。つまり、悪な所有と善な所有が存在する。

儒教系統の思考規範1 もしある主体がある対象を所有するならば、その主体は自己の所有の善性を正当化する。

儒教の場合、もしある主体が儒教徒であるならば、その主体がある対象を所有するとき、その主体は自己の儒教系統の所有の善性を儒教系統の善悪で正当化する。例えば、西欧白人は彼らがアメリカ大陸とその上の資源を所有していることの善性を彼ら自身で正当化する必要がある。対偶を取ると、もしある主体が自己の所有の善性を正当化しないならば、その主体はある対象を所有しない。

所有と統治者

創造主が所有権を創造して、所有権を儒教徒に授けた。統治者はその所有権を必要に応じて統治する。創造主は所有における統治者の役割とその思考規範を提示する。

儒教系統の思考規範1 もしある所有が悪と判断されるならば、統治者はその所有を変化させる。

または、もしある所有が悪と判断されるならば、統治者はその所有を解除する。例えば、景観や空港を建設するとき、統治者は土地の所有権を解除することができる。あるいは、もしある主体が違法行為を実行するならば、その主体はその主体が所有する対象とその主体との所有を解除することができる。

儒教系統の思考規範2 もしある主体が創造主の意志及び目的に沿って彼自身で統治しないならば、統治者がその所有を代わりに統治する。

基本的には、儒教徒は対象を各自で所有する。ただし、彼らは対象を創造主の意志及び目的に沿って所有する。もし彼らが好き勝手に所有するならば、その時、統治者がその所有に干渉する。

儒教それ自体の所有

新儒教では、創造主が儒教を永続的に特別に所有する。ただし、彼は儒教を売買しない。また、儒教系の相続は父から息子である。

儒教系統の決まり1 創造主が儒教を特別に所有する。

創造主が儒教を特別に所有するが、彼は儒教を運動させない。当然、彼は儒教を売買しない。正確には、創造主のみが儒教を特別に所有する。創造主以外が儒教を所有しない。

2節 儒教系統の富

所有物

富が何であるのかは現時点では不明である。そこで、創造主は所有物を提示する。彼は富を所有物の一種と認識する。

儒教系統の決まり1 所有物はある主体が所有する対象である。

所有物には、物質がある。その物質には、土地や水や建物や車がある。物質でない所有物には、権利や言語や宗教や競技系、認識や善悪や自己認識(アイデンティティ)、国家や文明がある。自己の肉体や自己の意識も所有物である。

なお、もしある主体が対象を所有するならば、その主体は対象の存在及び状態及び運動を所有する。だから、自己の肉体の状態や運動も所有物である。例えば、ある主体は自己の肉体による労働という運動それ自体を所有する。

富の系統性

富を正確に認識する前に、創造主は富の系統性を提示する。なぜなら、宗教が異なると、何が富であるのかも互いに異なる。そこで、彼はそれを提示する。

儒教系統の決まり1 x教系統の富はx教徒が所有する富である。

正確には、x教系統の富はx教徒がx教系統の所有で所有する富である。儒教をxに代入すると、儒教系統の富は儒教徒が所有する富である。儒教系統の富は儒教徒が儒教系統の所有で所有する富である。

儒教系統の決まり2 x教系統の所有物はあるx教徒が所有する対象である。

x教系統の所有物はあるx教徒が所有する対象である。x教系統の所有物はあるx教徒がx教系統の所有で所有する対象である。儒教をxに代入すると、儒教系統の所有物は儒教徒が所有する対象である。

儒教系統の富

現時点では、富が何であるのかは不明である。感覚的には、富は所有物の一種である。例えば、建物やお金や土地が富である。それらは取引や貿易で交換可能であり、100円のように数値化される。一方で、自己の意識は所有されるが、それは交換可能でない。

儒教系統の決まり1 富は所有物である、かつその所有者はそれを他の所有物と交換することができる。

例えば、土地は富である。なぜなら、ある主体は所有する土地をお金と交換することができる。自己の意識は富でない。なぜなら、ある主体は所有する意識をお金と交換することができない。儒教系(システム)も富でない。なぜなら、任意の主体は儒教それ自体をお金と交換することができない。

労働も富である。上記により、ある主体は自己の肉体による労働という運動それ自体を所有する。その労働はお金と交換可能である。

富の性

創造主は性を富にも導入する。彼は儒教徒の男性系統の富を考える。同様に、彼は性を所有物にも導入する。彼は儒教徒の男性系統の所有物を考える。

儒教系統の思考規範1 もしある主体が儒教徒であるならば、その主体はx教系統の男系富をx教系統の女系富から区別する。

つまり、彼はx教系統の男性系統の富とx教系統の女性系統の富を考える。例えば、同じ建物でも、女性系統の富であるのか、男性系統の富であるのかが区別される。

儒教系統の思考規範1 もしある主体が儒教徒であるならば、その主体はx教系統の男系所有物をx教系統の女系所有物から区別する。

つまり、彼はx教系統の男性系統の所有物とx教系統の女性系統の所有物を考える。例えば、同じ建物でも、女性系統の所有物であるのか、男性系統の所有物であるのかが区別される。

富の所属

日本国の富は日本国に所属する。ある個人をシステムと考えるとき、その個人の富はそのシステムに所属する。この考えを拡張して、創造主は次の思考規範を提示する。

儒教系統の思考規範1 もしある対象がx教系統の富であるならば、その対象はx教系統の社会に所属する。

xを儒教とすると、もしある対象が儒教系統の富であるならば、その対象は儒教系統の社会に所属する。その富は儒教における富の取り扱い方によって扱われる。

富と必要

創造主は富を土地や水や空気に類似した対象と認識する。つまり、彼は富を生きるために必要な対象と認識する。実際、サピエンスが生きるためには、水や空気や土地が必要である。

儒教系統の認識1 儒教系統の富は儒教系統の社会形成及び社会系(システム)に必要である。

上記は認識でなく、決まりであるかもしれない。例えば、水や富は富である。そして、水や富は産業に必要な対象である。しかし、それらは社会を作る原因でない。

儒教系統の認識2 儒教系統の富は儒教系統の社会形成及び社会系(システム)の原因でない。

原因は意志や力、人間集団や人間社会、宗教である。例えば、アメリカ先住民は広大な土地や水を身近に置いていたが、社会を作る原因を持たなかったので、彼らはその土地や水を有効に活用することができてこなかった。

富の善悪

西欧白人は黒人奴隷を富と定義した。しかし、現在では、彼らはその富をキリスト教系統の善悪で悪いと判断している。

儒教系統の思考規範1 もしある主体がx教徒であるならば、その主体はx教系統の富の善悪を正当化(断定化)する。

儒教をxに代入すると、もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は儒教系統の富の善悪を正当化(断定化)する。ある富の善悪は儒教によって正当化される。

儒教系統の思考規範2 もしある主体が無宗教であるならば、その主体はx教系統の富の善悪を正当化(断定化)することができない。

何故なら、その主体は自己の富を善と判断することができない。その主体は自己の富を悪いと判断することができない。

富と奴隷

西欧白人は黒人奴隷を富と定義した。新儒教では、創造主は奴隷を富と定義することを悪いと判断する。

儒教系統の思考規範1 もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は奴隷という富を悪いと判断する。

言い換えると、彼は奴隷という富を悪いと判断する。儒教徒は奴隷という富を悪いと判断する。彼は奴隷という富を非礼と認識する。彼は非礼を悪いと判断する。従って、彼は奴隷という富を悪いと判断する。

儒教系統の思考規範2 もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は奴隷を富と認識しない。

言い換えると、彼は奴隷を富と認識しない。儒教徒は奴隷を富と認識しない。彼は奴隷を富と認識するのは、牧畜民族の特徴であると認識する。例えば、白人は牧畜民族的であるので、西欧白人は黒人奴隷を実行した。一方、農耕民族は奴隷をそもそも取らない。彼らは彼ら自身で働くので、奴隷を必要としない。

富の保護

アングロサクソン諸国では、富は言語上では不可侵である。国家の統治者は個人の富に恣意的に干渉することができない。それに対して、中国では、国家の統治者は個人の富に恣意的に干渉している。新儒教では、創造主は次の思考規範を提示する。

儒教系統の思考規範1 もしあるx教徒が自己のx教系統の社会を作るつもりがないならば、その主体の富は保障及び保護されない。

儒教をxに代入すると、もしある儒教徒が自己の儒教系統の社会を作るつもりがないならば、その主体の富は保障及び保護されない。

儒教系統の思考規範2 もしあるx教徒が創造主のx教系統の意志、または目的に反するならば、その主体の富は保障及び保護されない、かつ正当に没収される。

儒教をxに代入すると、もしある儒教徒が創造主の儒教系統の意志、または目的に反するならば、その主体の富は保障及び保護されない、かつ正当に没収される。口語的には、もしある主体が創造主の世界に反するならば、その主体の富は保障及び保護されない、かつ正当に没収される。

富の消滅

創造主が所有を儒教徒に授けた。儒教徒はその能力を発現させて、何かを所有する。そして、彼らは彼らの富を築く。もし創造主階級やその子孫が絶滅するならば、またはもし儒教が滅亡するならば、儒教徒の富も消滅する。なぜなら、儒教徒は所有する能力を失う。

儒教系統の思考規範1 もし儒教が滅亡するならば、儒教徒はその富を失う。

より強い条件は次である。もし創造者の父系子孫の全てが滅亡するならば、儒教徒はその富を失う。もし創造者階級が滅亡するならば、儒教徒はその富を失う。何らかの理由により、もし創造者階級が滅亡するならば、現実的には、儒教徒は創造者階級を創造者の父系子孫から作り出す。

富の取り扱い

国民国家という形式での日本国では、国民は自分の富を自由に扱うことができる。アングロサクソン諸国でも、同様である。そこで、国民は自分の富を自由に扱うことができる。一方、共産主義では、民は彼らの富を自由に扱うことができない。統治者が彼らの富を管理する。儒教では、創造主は儒教徒は彼らの富をその目的に沿って目的的に扱う。統治者は正常な状態では干渉しない。

儒教系統の思考規範1 もしある主体がx教徒であるならば、その主体はx教系統の富をx教系統の目的で目的的に取り扱う。

または、もしある主体がx教徒であるならば、その主体はx教系統の富をx教系統の目的で目的的に取り扱う。または、もしある主体がx教徒であるならば、その主体はx教系統の富を創造主の目的及び意志にそって目的的に取り扱う。儒教をxに代入すると、もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は儒教系統の富を儒教系統の目的で目的的に取り扱う。

アメリカ大陸と富

西欧白人はアメリカ大陸及びその上の富を所有している。そして、彼らはその資源を彼らの富としている。しかし、創造主はアメリカ大陸及びその上の資源は西欧白人の富でないと認識する。

儒教系統の思考規範1 もしある主体が儒教徒であるならば、その主体はアメリカ大陸及びその上の資源は西欧白人の富でないと認識する。

言い換えると、彼はアメリカ大陸及びその上の資源は西欧白人の富でないと認識する。儒教徒はアメリカ大陸及びその上の資源は西欧白人の富でないと認識する。

儒教系統の思考規範2 もしある主体が儒教徒であるならば、その主体はアメリカ大陸及びその上の資源は比較的に自然なモンゴロイド人種の富である。

言い換えると、彼はアメリカ大陸及びその上の資源は比較的に自然なモンゴロイド人種の富であると認識する。儒教徒はアメリカ大陸及びその上の資源は比較的に自然なモンゴロイド人種の富である。

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