jewは名詞である。jewishは形容詞である。長い間、俺はこれらの両方はともに名詞であると勘違いしてきた。
I am a jewと I am jewishでは、感覚が異なるように思える。以下で、俺はjewishの感覚を東洋文明の観点から提示する。人種や宗教や文明が異なるとき、人種や民族に対する認識や定義がそもそも異なる。
1章 jewishはユダヤ的、またはユダヤ教徒的
日本語訳 jewishの日本語訳はユダヤ的である。
jewishの日本語訳はユダヤ的である。正確には、jewishの日本語訳はユダヤ教徒的である。この「的」を感覚的に把握することが難しい。個人的には、俺はjewishをjew-believer-ishとして欲しい。
日常的には、ある人がjewishというのは、ユダヤ教徒的であることである。その人間がヤハウェの意志に沿って、生活することをjewishといっているように見える。
キリスト教とユダヤ教では、政治信条やお金に対する規範、性に対する規範が少し異なる。このとき、キリスト教徒とユダヤ教徒では、価値観が宗教的に異なる。その結果、ユダヤ教徒の振る舞いがキリスト教から異質に映るので、彼らはjewish、すなわちユダヤ的である、またはユダヤ教徒的であると言われるように見える。
2章 jewishという単語に対する違和感
違和感の原因 白人は彼らの自己を現在から未来へと人工的に構成する。東洋人は彼らの人工性や時間概念に違和感を覚える。
1節 白人の自己形成
白人は彼らの自己を現在から未来へと人工的に構成する。彼らは彼らの自己を彼らの自由意志で、創造主の意志に沿って、人工的に構成しようとする。彼らは彼らの肉体を彼らの意志で創造主の意志にようように操縦する。
その結果、彼らはユダヤ教徒的、つまりjewishになる状態が形成される。そのあと、jewishという状態がjewという存在を形成する。意志による運動(ユダヤ教徒的運動)→状態(ユダヤ教的=jewish)→存在(ユダヤ教徒=jew)
また、彼らには過去が存在しない。彼らの自己形成には、過去がほとんど存在していない。加えて、彼らは自然も否定する。
2節 東洋人の自己形成
東洋人は彼らの人工性や時間概念に違和感を覚える。なぜなら、東洋人は自己認識を過去(先祖)から現在、そして未来へと自然に認識する。東洋人的、つまりeast-asian-ishはjewishのように現在から未来へと人工的に構成されない。
東洋人にとって、東洋人的であるのはほぼ存在に近い。そこには、東洋人の意志が介在しない。東洋人は発生とともに自然に東洋人になり、東洋人的である。彼らの世界には、東洋人という存在が存在して、その存在が東洋人的という状態を形成して、その状態が東洋人的な行為を(ある程度の自由意志を仮定した上で)導く。
存在(東洋人=east asian)→状態(東洋人的=east-asian-ish)→運動(東洋人運動)である。このとき、東洋人という存在は過去から現在に沿って自然に認識される。
3章 白人がjewishであることは正当か?
俺の認識 白人がjewishであることは西洋文明やコーカサス文明では正当である。
東洋人の大部分はユダヤ教徒の白人がjewishやjewと呼ばれることに強烈な違和感を覚える。なぜなら、東洋人は彼らは中東人でなく、白人であるので、jewishやjewにはなれないように感じる(jew-believer-ishやjew-believerは可能)。
だから、白人がwhite-ishやゲルマン神話-ishであることができても、中東人(middle east-ish)であることはできないと感じているように見える。
しかし、西洋文明では、白人は自然と過去を否定し、彼らの自己を現在から未来へと人工的に構成しようとする。だから、もし白人が彼らの創造主の意志に沿って、創造主の意志的な運動を実現できるならば、その運動はjewishな状態を形成して、その状態はjewという存在を形成する。その結果、白人はjewになれる(と感じる)。