新儒教〜善悪の章〜

新儒教
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以下では、創造主は儒教系統の善悪を提示する。一般的に、宗教が異なると、善悪が互いに異なる。例えば、キリスト教では、平等が善であるが、儒教では、平等は善でない。キリスト教では、罪は悪いと判断される。儒教では、礼に反する事柄が悪いと判断される。

宗教を運動競技と例えると、日常的にも、サッカーのレッドカードはバスケのレッドカードと異なる。例えば、サッカーでは、ボールに手が触れることは悪であるが、バスケでは、その行為は悪でない。このように、自己の競技系(社会やシステム)を形成するためには、善悪を創造する必要がある。そこで、彼は儒教系統の社会を形成するために、儒教系統の善悪を創造する。

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善悪の一般論

正しさに関する原初的な状態

創造主は本格的な善悪を導入する前に、彼は正しさや善悪の原初的な状態を提示する。

儒教系統の認識 サピエンスと呼ばれる個体は知覚した対象を正しいと感じる。

または、サピエンスと呼ばれる個体は把握した対象を正しいと感じる。言い換えると、その個体は見たものや聞いたものや感じたものを正しいと感じる。だから、彼らは太陽の存在や状態や運動を正しいと感じる。彼らは物理法則を正しいと感じる。彼はこれらを現状崇拝や自然崇拝と認識する。

現実的には、たとえモンゴロイド人のメスが子供を誘拐するとしても、上記の個体はその状態を傍観する。なぜなら、その個体は知覚した対象を正しいと感じる。言い換えると、その個体は知覚した対象、ここでは現象に違和感を覚えない。英語を話せない教師や論文を書いていない学者も同様である。

歴史的には、西欧白人がアメリカ大陸やオセアニアの資源を不自然に所有している。そして、彼らは統治者をそこで担っている。同様に、上記の個体はその状態を傍観する。なぜなら、その個体は知覚した対象を正しいと感じる。言い換えると、その個体は知覚した対象、ここでは現象に違和感を覚えない。

善悪の芽生え

創造主は善悪の芽生えを提示する。言い換えると、彼は善悪に関する初期状態を提示する。原初的な状態では、個体は知覚した対象を正しいと感じた。その個体はその対象や現象に違和感を覚えなかった。しかし、その個体が何らかの違和感を現実に覚えるとき、その個体の善悪は芽生える。

儒教系統の認識 善悪の芽生えはある対象に対するある主体の違和感である。

例えば、洪水がサピエンスを押し流す。狼が家畜を襲う。病気が子供を殺す。西欧白人がアメリカ大陸で資源を所有している。西欧白人が他人を差別主義者と侮辱する。ある主体がこれらの存在や状態や運動に違和感を覚える時、善悪や正しさが芽生える。違和感を覚えない場合は下記である。

儒教系統の思考規範 もしある主体が自然を崇拝するならば、その主体は善悪を持たない。

言い換えると、もしある主体が把握する存在や状態や運動を崇拝するならば、その主体は善悪を持たない。上記の自然は現状でも良い。一般的には、サピエンスと呼ばれる個体は把握したものを正しいと無意識的に感じるように見える。だから、彼らは太陽や物理法則や自然界を正しいと感じる。

善悪の基準の芽生え

善悪が芽生える時、ある個体は違和感を覚える。しかし、個体の数が多い時、どの違和感が正しいのかと言う問題も生じる。言い換えると、善悪の(原初的な)基準の芽生えが生じる。創造主は善悪の(原初的な)基準の芽生えを提示する。

儒教系統の決まり 善悪の基準は主体の違和感である。

言い換えると、基本的には、善悪の基準は主体の違和感である。上記の場合、違和感それ自体が悪である。違和感を覚えないのが悪でないことになる。例えば、西欧白人が有色人を差別主義者と侮辱する時、彼は違和感を覚える。それぞれの主体は違和感をそれぞれに覚える。この時、どの主体の違和感が正しいのかという問題が生じる。

儒教系統の決まり 創造主の違和感が正しい違和感である。

善悪の基準は創造主の違和感である。創造主には、競技系の創造主が存在する。もしこの世界の創造主が存在するならば、その違和感が正しい違和感である。正しい違和感は違和感の善性が唯一に正当化される違和感であるかもしれない。日常的には、違和感に基づいたシステムを作れる主体の違和感がそのシステムの中で正しい。

善悪と目的

目的はある主体が実現するつもりである対象の存在や状態や運動である。創造主はこの目的を使用して、彼は目的と善悪を関連づける。つまり、彼は善悪を目的から導出する。

儒教系統の決まり 目的は善を導く。

西欧白人が他人を差別主義者と侮辱する時、彼は違和感を覚える。彼は西欧白人が他人を差別主義者と侮辱しない状態を悪いと判断しない。さらに、彼は理想的な状態を設定して、その状態を目的とする。この時、その状態に沿うことが善になる。

儒教系統の決まり 目的に沿うことが善である。

例えば、サッカーでは、球を足でゴールに入れることが目的である。だから、選手が球をけって、その球をゴールに入れることが善である。もし創造主がこの世界を平等になるように創造したならば、平等な状態は創造主の目的に沿うので、善である。

儒教系統の決まり 目的に反することが善でない。

例えば、サッカーでは、球を足でゴールに入れることが目的である。球を手でゴールに入れることはその目的に反する。だから、それは善でない。

悪と目的

創造主は目的に沿うことが善であると決めた。彼はこの善を応用して、悪を決める。

儒教系統の決まり 原初的な悪は違和感である。

例えば、洪水がサピエンスを押し流す。狼が家畜を襲う。病気が子供を殺す。西欧白人がアメリカ大陸で資源を所有している。西欧白人が他人を差別主義者と侮辱する。ある主体が違和感を覚える時、その違和感は悪に関係する。

ただし、この状態には、目的が存在しない。そのため、上記の違和感が目的に反しているのかは不明である。そこで、目的を導入して、彼は上記の違和感が目的に反していることを表現する必要がある。

儒教系統の決まり 目的を妨害することは悪である。

または、目的の実現を妨害することは悪である。より日常的には、目的に反することは悪である。例えば、サッカーでは、球を足でゴールに入れることが目的である。ある選手が試合中に暴れたり、手を使用することは目的を妨害することである。それらは目的に反することである。だから、それらは悪である。

目的の基準

目的は善悪を導く。しかし、上記の違和感と同様に、それぞれの個体はそれぞれの違和感を持ち、それぞれの目的を持つ。この時、どの目的が正しいのかと言う問題が生じる。創造主は目的の基準を次のように決定する。

儒教系統の決まり 創造主の目的がその競技系の中で正しい。

言い換えると、システムの創造主が作った目的がその競技系の中で正当化される。目的は善悪を導くので、その善悪も創造主から正当化される(断定化される)。違和感と同様に、どの目的が正しいのかという問題が生じる。彼はシステムを作れる創造主の目的がシステムの中で正しいと信仰する。

儒教系統の思考規範 もし正しい主体が存在するならば、その主体が正しい違和感と正しい善悪と正しい目的を生み出す。

言い換えると、違和感と善悪の正しさや正当化は正しい主体によって行われる。正しい主体とそうでない主体が存在する。正しい主体が正しい違和感と正しい善悪を生み出す。

真理

科学者や数学者は真理という単語を使用する。その真理は授けられた対象の正確な表現である。彼らはその正確な表現を真理と感じている。しかし、創造主は真理をそのようには認識しない。彼は男女平等と男女公平のどちらが正しいのか、善であるのかを考えるとき、彼は真理について思考する。

儒教系統の決まり 真理は唯一に正当化される善である。

または、真理は唯一に正当化される善悪である。悪の場合、悪と唯一に断定される。あるいは、真理は唯一に正当化される正しさである。例えば、平等が善であるのか、悪であるのかは、自然界を調べるとしても、明らかにならない。真理は自然界を正確に表現することでなく、どの善悪が正しいのかを決定することに近い。もし唯一に正当化される善な人間性が存在するならば、その人間性を受け継いできた人間が善である。その人間が正しい人間である。

善悪と自然界

科学者や数学者の一部は非常に高慢である。彼らが物質の世界や数学の世界を正確に表現した後、彼らは彼ら自身がこの世の全てを知っているのかのように振る舞う。しかし、彼らはたとえ彼らが物質の世界や数学の世界を正確に表現するとしても、彼らは男女平等と男女公平のどちらが善であるのか、正しいのかを表現しない。

儒教系統の認識 善悪は物質の世界には存在しない。

または、正しさは物質の世界には存在しない。日常的には、なぜサッカーのお手つき(ハンド行為)が悪い(レッドカード)であるのは、たとえ科学者や数学者が物質の世界を調べるとしても、わからない。なお、上記は理論的なものでなく、日常的なものである。実際、科学者や数学者が男女平等が善であることを科学的に証明するような論文を書くことはできない。少なくとも彼はそのような科学論文を知らない。

善悪と事実

創造主が善悪をある種の個体に質問するとき、その種の個体は善悪でなく事実で返答する。彼は善悪を尋ねているが、その種の個体はその個体の善悪をいつまでも表現しようとしない。その種の個体は自己の善悪を誤魔化し続ける。そこで、彼は善悪と事実の関係を次のように決める。

儒教系統の決まり 善悪は事実によって正当化されない。

言い換えると、たとえある主体が事実を提示するとしても、それは善悪でない。そのため、その主体は善悪を表現していない。例えば、ある主体はナチスを悪いと判断することをその主体の善悪から導く必要がある。「ナチスは多くの人々を殺した。」は説明であり、善悪の判断でない。その主体は「俺はナチスを悪いと儒教系統の善悪で判断する。」と表現する。

実際、彼が「君はナチスを悪いと判断するのか」と尋ねると、上記の種類の個体は「ナチスは多くの人々を殺した。」と事実で返答する。彼らは彼ら自身の善悪をいつまでも表現しようとしない。彼らは事実を提示して、事実を説明して、相手に納得してもらおうとする。彼らは相手を事実で説得しようとする。

善悪の表現

大和民族を含むモンゴロイド人種は善悪の表現を誤魔化してきた。彼らは善悪を匂わすが、彼らは善悪を彼らの言葉ではっきりと表現してこなかった。そこで、創造主は言葉による善悪の表現の方法を次のように明確に決定する。

儒教系統の決まり 「俺は対象xを儒教系統の善悪で善と判断する。」

なお、対象xは現象xでも良い。むしろ現象xであることがほとんどであるように思える。例えば、「俺は対象xを儒教系統の善悪で善と判断する。」がある。なお、上記の表現には、主語がある。どの宗教系統の善悪で判断したのかが明確である。ある対象xを善と判断すると、判断がはっきりと表現されている。つまり、誰が何をどの宗教系統の善悪で善か悪を判断したことが表現されている。

儒教系統の決まり 「俺は対象xを儒教系統の善悪で悪と判断する。」

例えば、原爆に関して、「俺は原爆の投下を儒教系統の善悪で悪と判断する。」がある。ナチスに関して、「俺はナチスを儒教系統の善悪で悪と判断する。」がある。同様に、上記の表現には、主語がある。どの宗教系統の善悪で判断したのかが明確である。ある対象xを悪と判断すると、判断がはっきりと表現されている。つまり、誰が何をどの宗教系統の善悪で善か悪を判断したことが表現されている。

善悪と感情

未開の人々や子供は善悪を感情から区別することができない。彼らは彼ら自身の好き嫌いや快不快、不安や安心を善悪と誤認識する。そこで、創造主は善悪と感情を次のように決める。善悪は感情でない。

儒教系統の決まり 善悪は感情でない。

上記の感情には、好き嫌いや快不快、不安や安心がある。つまり、善悪は好き嫌いでない。善悪は快不快でない。善悪は不安や安心でない。

儒教系統の善悪

儒教系統の善悪

キリスト教では、平等は善である。儒教では、平等は善でない。キリスト教と儒教では、平等に対する善悪が異なる。このように、宗教が異なると、それぞれの宗教における善悪も異なる。つまり、善悪には、系統性が存在する。そこで、創造主は儒教系統の善悪を提示する。

儒教系統の決まり x教系統の善悪はx教徒が信仰する善悪である。

儒教をxに代入すると、儒教系統の善悪は儒教徒が信仰する善悪である。悪の場合、違和感が存在する。違和感を宗教に関連させると、x教系統の違和感と儒教系統の違和感が存在する。

儒教系統の目的

善悪と同様に、宗教が異なると、それぞれの宗教における目的も異なる。つまり、目的には、系統性が存在する。例えば、儒教目的では、礼節のある世界を形成することがある。西欧文明におけるキリスト教では、差別のない世界を形成することがある。

また、現実的にも、個人的な目的は異なる。ある主体は東京大学に合格することを目的とする。別の主体は宮廷大学の医学部に入学することを目的する。このように、個人的な目的も社会的な目的も個人や宗教によって異なる。そこで、そこで、創造主は儒教系統の目的を提示する。

儒教系統の決まり x教系統の目的はx教徒が信仰する目的である。

儒教をxに代入すると、儒教系統の目的は儒教徒が信仰する目的である。ここで、彼は目的と善悪の関係を次のように決定する、または認識する。

儒教系統の決まり x教系統の目的がx教系統の善悪を導く。

儒教をxに代入すると、儒教系統の目的が儒教系統の善悪を導く。それぞれの宗教における目的がそれぞれの宗教における善悪を導く。つまり、目的が互いに異なると、善悪も互いに異なる。なお、x教系統の違和感と儒教系統の違和感もx教系統の悪や儒教系統の悪を導く。

善悪と性

この世界におけるすべての善悪はx教系統の男性によって創造されてきた。そして、その善悪は父から息子へと伝達されてきた。このように、善悪にも、性が存在する。そして、善悪の性は

x教系統の男性のみである。なぜなら、サピエンスのメスやx教系統の女性は彼女ら自身の善悪を創造してこなかった。創造主は善悪の性を次のように導入する。

儒教系統の決まり x教徒の男性系統の善悪が存在する。

xを儒教とすると、儒教徒の男性系統の善悪が存在する。例えば、平等が善であるのは、キリスト教徒の男性系統の善悪である。その父系はY染色体ハプログループJ系統である可能性がある。

儒教系統の決まり x教徒の男性系統の目的が存在する。

xを儒教とすると、儒教系統の男性系統の目的が存在する。ここでの善悪や目的の全ては儒教徒の男性系統の善悪及び目的である。例えば、礼節のある世界を形成するは、儒教系統の男性系統の目的である。

礼の導入

創造主がある対象の善悪を判断するとき、彼は善悪を判断するための言葉を必要とする。例えば、あるサッカー審判がハンド行為を悪いと判断するためには、その審判はレッドカードを必要とする。西欧キリスト教徒が差別を悪いと判断するのためには、罪という言葉を必要とする。同様に、彼は善悪を判断するための言葉を次のように導入する。その言葉は礼である。

儒教系統の決まり 礼に沿うことが善である。

礼に沿うことが善である。または、礼に沿う対象の存在及び状態、運動が善である。例えば、彼は自己の宗教及び自己の所属文明を表現することを礼にそうと認識する。だから、彼はその表現を善と儒教系統の善悪で判断する。

儒教系統の決まり 礼に反することが善でない。

礼に反する対象の存在及び状態、運動が善でない。なぜなら、礼が儒教系統の目的の一つである。例えば、自己の人種や民族、自己の宗教や文明を誤魔化すことは礼に反することである。

礼の分類

サッカーでは、レッドカードとイエローカード、そしてファールの笛という善悪が存在する。レッドは退場である。ファールは注意という意味合いがあるように見える。そして、イエローカードはその中間の警告であるように見える。同様に、創造主は礼を分類して、善悪の度合いを決定する。

儒教系統の決まり 失礼は悪い。

上記はファールである。例えば、ある主体が相手をお前と呼ぶ。この時、この行為は失礼と認識される可能性がある。ただし、法律で罰される程度の行為でない。

儒教系統の決まり 無礼は強く悪い。

上記はイエローカードである。例えば、ある主体が自己の宗教や自己の文明、自己の人種や文明を誤魔化する。彼はこの行為を無礼と認識する。ただし、法律で罰される程度の行為であるのかは不明であるが、法や宗教における善悪で禁じられるべき行為である。

儒教系統の決まり 非礼は非常に強く悪い。

上記はレッドカードである。例えば、ある主体が人間を殺す。これは殺人行為に該当する。法律がこの行為に適応されて、その主体は罰をうける。

陰陽一体

コーカサス人種の文明では、善悪二元論が観察される。例えば、彼らは彼ら自身を善の立場に置き、敵を悪に置く。そして、彼らは敵を善な立場から倒す。アメリカ合衆国においても、彼らは敵対勢力をテロリストと悪魔化して、彼らはその敵を倒してきた。たとえ敵が拷問を実行するとしても、彼ら自身は拷問を実行せずに、あくまでも、彼らは善の立場を維持してきた。

言い換えると、たとえ敵が悪な行為を実行するとしても、彼らは悪な行為を相互的に実行するのでなく、彼らは善な行為を実行し続ける。そして、彼らはその悪な行為を善の立場から破壊しようとする。しかし、儒教では、創造主はこの種の善悪二元論を採用しない。彼は陰陽一体を採用する。

儒教系統の思考規範 もしある主体が悪を実行するならば、創造主はより悪を実行する。

彼を儒教徒に置き換えると、もしある主体が悪を実行するならば、儒教徒はより悪を実行する。現実的には、もしある主体は相手が汚いことをしないと認識したならば、その主体は相手の善意に甘えるようになる。そして、その主体はその善の部分を甘えて悪用しようとする。儒教では、彼はこの種の甘えを悪いと判断する。また、彼は相互的でないことを悪いと判断する。

自己の善悪を持たない場合

創造主は自己の善悪を持たない場合における思考規範を次のように決定する。サッカー審判がハンド行為を悪いと判断するためには、サッカー系統のレッドカードが必要である。

儒教系統の思考規範 もしある主体が自己のx教系統の善悪を持っていないならば、その主体が存在や状態や運動の善を正当化する可能性は0である。

例えば、もしある主体が自己の儒教系統の善悪を持っていないならば、たとえその主体が誰かに礼儀正しく振る舞われるとしても、その主体がその行為の善性を正当化する可能性は0である。言い換えると、その主体がその行為の善性を判断する可能性は0である。なぜなら、その主体は善性を正当化するために必要な善悪を持っていない。その主体は善性を善と判断するために必要な善悪を持っていない。

儒教系統の思考規範 もしある主体が自己のx教系統の善悪を持っていないならば、その主体が存在や状態や運動の悪を断定する可能性は0である。

例えば、もしある主体が自己の儒教系統の善悪を持っていないならば、その主体はナチスや原爆、黒人奴隷の悪と断定する可能性は0である。なぜなら、その主体は悪性を断定するために必要な善悪を持っていない。その主体は悪性を悪と判断するために必要な善悪を持っていない。

善悪の判断の手引き化

サッカーでは、審判による笛やカードの出し方は手引き化(マニュアル化)されている。同様に、儒教でも、創造主は善悪の判断を手引き化する。言い換えると、可能な範囲で、彼は判断を機械化、自動化する。

儒教系統の決まり 創造主は善悪の判断を代数計算のように手引き化する。

儒教徒は善悪の判断を代数計算のように手引き化する。なお、判断の簡単な過程は次である。ある主体は現象を知覚する。その主体は現象を認識する。その主体は現象の善悪を判断する。ただし、これはある個人による主観的な手引きである。知覚や認識が共有されない場合は善悪や善悪の判断から入る。

善悪の使用の主体

大和民族の一部は無礼だと騒いできた。しかし、彼らは自己の宗教を明らかにせずに、彼らは儒教系統の善悪を使用してきた。普通に考えれば、もしある主体が儒教徒でないならば、その主体は何が無礼であるのかを認識する人工的能力を持っていない。創造主はこの思考規範を提示する。

儒教系統の思考規範 もしある主体がa教徒出ないならば、その主体はa教系統の善悪を扱う人工的能力を持たない。

aを儒教徒とすると、もしある主体が儒教徒出ないならば、その主体は儒教系統の善悪を扱う人工的能力を持たない。x教系統の善悪を使用する主体はx教徒である。儒教系統の善悪を使用する主体は儒教徒である。

善悪とその否定

感覚的には、善の否定は悪である。悪の否定は善である。しかし、創造主はこの種の考えを採用しない。彼は善悪の否定を次のように決定する。

儒教系統の決まり 善であるの否定は善でないである。

善であるの否定は悪であるでない。善であるの否定はあくまでも善でないである。英語で例えると、isのようなbe動詞をis notにするだけである。

儒教系統の決まり 悪であるの否定は悪でないである。

悪であるの否定は善であるでない。悪であるの否定はあくまでも悪でないである。英語で例えると、isのようなbe動詞をis notにするだけである。

善悪と連続性

コーカソイド人種の文明では、善悪は連続的でなく、1か0であるように見える。しかし、創造主は善悪を連続的に考える。つまり、善悪には、より善であるやより悪であるが存在する。

儒教系統の決まり 善悪は連続的である。

善悪は1であるか、0であるかでない。なお、目的も日常的な意味で連続的である。カラスやライオンの運動の一部は目的的である。カラスは実を道路の上に置いて、車に割らせようとする。この行為は目的的であるように思える。サピエンス、またはx教系統の人間のみが目的的でなく、彼らはより目的的である。目的が連続的であるので、目的から導出される善悪も連続的である。

位置と善悪の性質

西欧白人は大和民族を含むモンゴロイド人種を差別主義者を侮辱してきた。しかし、もし彼らがアメリカ大陸からそれを実行するならば、創造主は彼らの行為をより悪いと判断する。彼は位置を善悪の判断に組み込む。

儒教系統の決まり ある主体の位置は善悪及び善悪の判断を変化させる。

言い換えると、善悪及び善悪の判断はある主体の位置に関係する。例えば、欧州人がモンゴロイド人を欧州から侮辱することの善悪は欧州人がモンゴロイド人をアメリカ大陸から侮辱することの善悪と異なる。後者はより悪い。

歴史と善悪の性質

西欧白人は大和民族を含むモンゴロイド人種を虐殺してきた。にも関わらず、彼らは大和民族を含むモンゴロイド人種を差別主義者と侮辱してきた。もし彼らがそれを実行するならば、創造主は彼らの行為をより悪いと判断する。彼は歴史を善悪の判断に組み込む。

儒教系統の決まり ある主体の歴史は善悪及び善悪の判断を変化させる。

言い換えると、善悪及び善悪の判断はある主体の歴史に関係する。例えば、欧州人がモンゴロイド人を欧州から侮辱することの善悪はモンゴロイド人が欧州人を侮辱することの善悪と異なる。前者はより悪い。

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