この宗教では、俺はこの宗教を啓典宗教とする。一般的には、啓典宗教には、根拠になる啓典が存在する。例えば、旧約聖書や新約聖書やコーランがそれに該当する。俺はこの宗教における宗教書「俺書」を啓典とする。
啓典宗教
俺系統の契約 俺はこの宗教「俺らについて」を啓典宗教と約束する。
または、俺はこの宗教「俺らについて」を啓典宗教と決定する(決める)。俺は約束と決定と命令のどれを使用するのかを迷った。決定は認識や判断には、置換されないように思える。
俺系統の認識 啓典は根拠を信者に授ける。
例えば、啓典は善悪に関する根拠を信者に授ける。この時、信者は物事の善悪をその啓典に基づいて、または引き合いに出して、思考して、判断を下す。すると、信者は「俺はこの物事を善とx教系統の善悪で判断する」と表現することができるようになる。物事の善悪を判断するためには、うまく言った経験は不十分である。そこで、この不十分さを補うために、啓典がある。
俺系統の約束 俺は俺書を根拠とする。
俺系統の命令 俺書に基づいて思考せよ。
思いつき
俺がこの宗教を啓典宗教にしたのは、「思いつきの防止」である。大和民族を観察してみよう。彼らは物事、特に物事の善悪を個人の思いつきで述べる。そして、彼らは説明して、相手からの納得や共感、理解を求めて、何かを実行しようとする。しかし、そこには、根拠がない。
例えば、性教育や男女平等を考えてみよう。彼らは欧米をチラッと見て、彼らは欧米の恣意的なモノマネを実行しようとする。彼らはキリスト教系統の性規範や概念を宗教的に無関係な有色人に思いつきで押し付けようとする。なぜなら、彼らには、啓典が存在しない。
そのため、ある時は性は汚いと主張する。別のときは自慰行為や性の実演を学校で実行させようとする。そうして、彼らは無知な子供達を彼らの思いつきで振り回す。一方、白人は聖書に基づいて、教育を実行する。
上記は男女平等にも言える。大和民族の学者は欧米をチラッと見て、男女平等をグローバルと言って実行しようとする。しかし、彼らはキリスト教徒ですらなかったりする。彼らは男女平等を思いつきで実行して、失敗しても、彼らは何ら応答義務を果たさず、ひき逃げを繰り返す。彼らは男女平等が自己の宗教の概念なのかすら関心を持っていない。
上記の話は人権や男女平等や差別、資本主義や共産主義、国民国家や日本国憲法にも一般化される。彼らは自己の啓典を持っていないので、彼らは物事をその場の思いつきで実行する。彼らはまるで法律を無視する横暴な王様のように生きている。啓典を持たないことは、王が法を持たないことに類似する。
俺は上記の思いつきを防止する。だから、俺は啓典を所有して、俺は物事を啓典に沿って思考する。俺はこの啓典を「根拠」とする。
俺系統の認識 思いつきとは、根拠を持たない脳の運動である。
俺系統の約束 俺は俺書を根拠とする。
俺系統の命令 根拠に基づいて思考せよ。