俺系統の認識 俺は労働を富を獲得する手段と認識する。
https://oreranitsuite.com/2022/04/11/wealth-and-work/
ある主体が綺麗事を好む時、その主体は好きなことややりたいことをやりなさいと発言してきた。しかし、この宗教では、俺はこの種の発言を俺系統の善悪で善と判断しない。以下では、俺は職業選択における考えを提示するつもりである。
職業選択
俺系統の善悪 俺は得意なこと(君が富を蓄積しやすい)を職業にすることを善と俺系統の善悪で判断する。
俺は次の命令を下す。君は得意なことを職業にせよ。または、君は向いていることを職業にせよ。俺は好きなことややりたいことを職業にすることを悪いと俺系統の善悪で判断する。
この宗教では、俺は職業や労働をお金を稼ぐ手段と認識する。もし信仰者が好きなことをやりたいならば、信仰者はこの宗教におけるソサエティの中で好きなことややりたいことを実行する。労働や職業は富を獲得する手段であり、目的でない。俺は目的をソサエティの中で実現する。
一般的に、大和民族は社会と労働の違いを認識していない。だから、彼らは自己実現を労働の中に求め始める。しかし、この宗教では、俺は自己実現や好きなことをソサエティの中に見出す。
一般的に、動物や愚かな主体は職業それ自体をうまく認識することができない。その結果、彼らは自己実現を職業を通して実現しようとする。しかし、職業は富を獲得する手段である。職業は身分でない。
俺は上記の善悪を目的と分岐から正当化する。俺は職業を富を獲得する手段と認識する。もしある主体が職業を自己実現と認識するならば、その主体っはこの宗教における労働観や職業観に反する。俺はこの状態を悪いと俺系統の善悪で判断する。従って、俺はその自己実現を悪いと判断する。
分岐は次である。愚かな主体は職業や労働や社会を正しく認識することができないので、彼らは富を獲得する手段を自己実現と誤認識する。俺はこの状態や誤認識という行為を非分岐的であると審判する。俺は非分岐を悪いと俺系統の善悪で判断する。従って、俺はその自己実現を悪いと判断する。