労働と富の交換について

俺らについて
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Work or labor (or labour in British English)[a] is intentional activity people perform to support themselves, others, or the needs and wants of a wider community.[1]

https://en.wikipedia.org/wiki/Work_(human_activity)

 一般的には、宗教は労働に対する認識や判断を授ける。この宗教でも、俺は労働に対する認識や判断を与える。日常的には、俺らは労働して、富(お金)を獲得する。この宗教では、俺は労働富を獲得する手段を認識する。

労働と富の交換について

 労働者Aが存在する。富の所有者Bが存在する。今、Aは自己の労働を売って、富をBから獲得する。この時、Aは自己の労働を労働券として視覚化する。

Aは労働券を所有する。Bは富を所有する。もし労働券の値段が富の値段に等しいならば、労働券と富との交換が成立する。この時、Aが富を所有する。Bが労働券を所有する。

Bが労働券を実行する時、Aは労働を実行する。日常的には、Aが労働券を実行した後、Aは富を獲得する。Bが労働券を実行した後、労働券はその機能を失う。

労働における肉体の解釈

 この宗教では、俺は自己の肉体を自己それ自体と認識しない。俺は運転手と意識(蟲)と肉体(物質)を認識する。俺は自己の肉体を車体(物質)と例える。この時、労働における肉体の運動は単なる物質の運動であるのか、意識と物質の運動であるのか、運転手と意識(蟲)と肉体(物質)であるのかは不明である。

俺が労働を物質の運動と解釈する時、労働は肉体という物質の運動と富との交換である。だから、富と交換される肉体の運動は車体の運動である。つまり、富それ自体は肉体(物質)の運動に対応する。この解釈は機械的な現象である。富をエネルギとして、労働を物体の運動とする。

別の解釈では、労働には、ある程度の意志が必要である。同様に、富の交換にも、ある程度の意志が必要である。家畜や犬が労働して餌をもらうように、ホモ・サピエンスという動物も労働する。この時、俺は労働を意識と物質(肉体)の運動の組と解釈する。この場合、富と労働の交換は動物的な現象である。

もし動物が自己の意志に基づいて、自己の肉体を運動させるならば、富は自己の意志に基づいた運動と交換される。同時に、富の交換もまた自己の意志に基づいた運動である。この時、労働は自己の意志に基づいた運動と自己の意志に基づいた運動との交換である。言い換えると、(意識+物質)の運動⇄富。(意識→物質)の運動⇄富。ただし、富は意識→交換であり、富の値段には、意識による何かが含まれている。

まとめ

 俺系統の認識 俺は労働を富を獲得する手段と認識する。

 大和民族の一部は労働それ自体を目的と誤認識する。彼らは働くことが目的になっている。この宗教では、俺らは労働を富を獲得する手段と認識する。日常的には、俺らは自己の社会や国家や文明の形成を俺らの目的と認識する。

 俺系統の認識 俺は労働券を富と交換する。

 この時、労働券の値段は富の値段に等しい(一致する)。

 俺系統の認識 労働における肉体の運動には、少なくとも2種類が存在する。

 一番目には、俺が肉体の運動を物質の運動と解釈する。二番目には、俺は肉体の運動を意識と物質の運動と解釈する。二番目には、富の値段は意識の作用?の値段と肉体の運動の値段の和である。

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