ここでは、人間界の創造主は新儒教における宗教を決定する。一般的に、宗教や文明、人種が異なると、宗教が何であるのかそれ自体も異なる。例えば、アブラハムの宗教における宗教観は仏教やヒンドゥー教における宗教観と異なるように見える。また、時代に応じても、宗教のあり方が異なっているように感じる。ここでは、彼は儒教における現代的な宗教観を提示する。彼は宗教を社会それ自体や一種の競技系と認識する。
1章 儒教系統の宗教
1節 宗教
一般的に、宗教は人類を救済したり、人類を幸福にするものと感じられているように見える。新儒教では、人間界の創造主は宗教を一種の競技系(システム)と決める。
儒教系統の決まり1 宗教は競技系である、かつその系はx教系統の社会を形成する。
宗教は例えば、儒教は競技系である、かつその系は儒教系統の社会を形成する。キリスト教は競技系である、かつその系はキリスト教系統の社会を形成する。例えると、宗教はサッカーやバスケのような運動競技系である。
上記の決まりは日常的にも自然である。実際、ユダヤ教徒のアメリカ国民はユダヤ教系統の社会をアメリカ合衆国で形成している。キリスト教プロテスタント派のアメリカ国民はキリスト教プロテスタント派教系統の社会をアメリカ合衆国で形成している。その他も同様である。このように、宗教はある種の社会の形成を担っている。
それぞれの宗教の社会では、それぞれの教徒は彼ら自身の善悪や認識、性規範や富の規範を持っている。例えば、キリスト教の社会では、キリスト教徒は平等を善と判断する。イスラム教の社会では、イスラム教徒は豚肉を食べない。
儒教系統の決まり2 宗教は人間競技系である、かつその系はx教系統の社会を組式(プログラム)する。
正確には、宗教は人間競技系である、かつその系の創造主はx教系統の社会を組式する。この考えでは、言い換えると、宗教は人工的な世界それ自体である。または、宗教は電計(コンピュター)における管理系(OS)のような何かである。そこでは、信仰者は組式に沿って運動する。教徒は信仰者の言い換えである。例えると、宗教は映画マトリックスのような組式された世界それ自体である。
2節 相続
資産は親から子供へと相続される。一方、宗教はそうでない。しかし、新儒教では、人間界の創造主は宗教の相続を決める。つまり、宗教も資産のように親から子供へと相続される。
儒教系統の決まり1 儒教は儒教徒の父から儒教徒の息子へと父系で相続される。
言い換えると、儒教という人工的な世界は儒教徒の父から儒教徒の息子へと父系で相続される。Y染色体ハプログループは父から息子へと父系で伝達される。同様に、宗教も父から息子へと父系で伝達される。なお、基本的には、印欧語族も約5000年前から現在まで父系でY染色体ハプログループR1系統と共に伝達されている。また、神話もそれを記述する言語と共に父系で伝達されているように見える。つまり、ある場合において、神話と言語とY染色体は対になって父から息子へと伝達されている。
なお、儒教は父から娘へも伝達される。しかし、娘が異教徒と結婚する場合、たとえ相手が儒教徒になるとしても、その娘の子供は儒教徒でない。x教系統の男性が宗教も言語も創造してきた。そして、彼らはそれらを父系で伝達させてきた。彼は言語と宗教を父系に人工的に対応させて、先祖と子孫を人工的に追跡する。
3節 信仰する
日本語では、信仰するという単語は悪い意味で好き勝手に使用されている。例えば、信仰するとは何かに盲目になる、神秘を感じると雰囲気で感じられているように見える。人間界の創造主は信仰するという単語を次のように決める。彼は信仰することを考えることと決める。
儒教系統の決まり1 信仰するとは、ある行為である、かつある主体がある対象が実際的であると考える。
上記の対象には、現象も含まれる。創造主を信仰するとは、ある行為である、かつある主体が創造主が実際的であると考える。物質を信仰するとは、ある行為である、かつある主体が物質が実際的であると考える。つまり、信仰するとは、実際と考えることである。
儒教系統の決まり2 信仰するとは、ある行為である、かつある主体がある対象が正しいと考える。
例えば、男女平等が善である、または男女平等が正しいと考えるのは、信仰である。つまり、キリスト教徒は男女平等が善である、または男女平等が正しいことを信仰する。平等を信仰するとは、ある行為である、かつある主体が平等が正しいと考える。なお、平等が正しいのかは自然界を分析するとしても、わからない。つまり、信仰するとは、正しいと考えることである。その正しさは自然界には存在しない。だから、彼はその正しさを信仰する必要がある。
4節 授ける対象
宗教は善悪や認識を授ける。例えば、儒教は儒教系統の善悪や認識を儒教徒に授ける。もしある宗教が善悪を授けないならば、その宗教は宗教でないように感じる。なぜなら、善悪なしに、社会は形成されない。実際、運動競技も赤札(レッドカード)なしに形成されない。彼は次の思考規範を提示する。
儒教系統の思考規範1 もしある対象が宗教であるならば、その対象は次のxを持つ。
主要なxには、世界観や目的、人間性、善悪や自己、富の規範、性規範、刑罰、契約や法体系が存在する。その他のxには、認識や判断、力や意志、時間や空間、管理及び統治、人間観や労働観、国家観や歴史観が存在する。また、その他のxには、言語や文字や建築や創造主や神や正しさが存在するかもしれない。実際、キリスト教系統の建築が存在する。
儒教系統の思考規範2 もしある対象が宗教であるならば、その対象はその宗教系統の善悪を持つ。
宗教に必ず必要なのは善悪である。また、宗教は管理や統治にも必要である。例えば、認識には、西欧白人がアメリカ大陸で統治者を担っていることは植民地主義や奴隷主義の継続でないのかが存在する。判断には、現在のアメリカ大陸の状態は善であるのか、悪であるのかが存在する。日常的には、宗教は善悪の基準や正しさの基準を信仰者に授ける。
性規範は性欲を自己管理、自己統治する。富の取り扱いはお金の貸し借りや利子、資本主義に関係する。死生観は葬式や墓、胃ろうや安楽死や尊厳死に関係する。契約や法は国家や商業、会社に密接に関係する。刑罰は死刑や裁判に関係する。人間観は家畜や殺人や中絶に関係する。労働観は奴隷や牧畜や農耕などの生活形態に密接に関係する。
5節 統治
ローマ帝国の崩壊の後、ゲルマン民族の王様はキリスト教に改宗した。チンギス・ハンの子孫もイスラム教に改宗した。なぜなら、宗教なしに、彼らは彼らの民を統治することができなかった。
儒教系統の認識1 宗教は競技系を統治する手段を授ける。
特に、宗教はある統治者が競技系を統治する手段を授ける。現在の世界では、もしアメリカ合衆国がアフガニスタンを統治するつもりであるならば、その国家はタリバンをイスラム教を通じてしか統治することができない。宗教は社会形成だけでなく、統治にも密接に関係する。上記を思考規範の形式で書くと、もしある対象が宗教であるならば、その対象は競技系を統治する手段を授ける。
6節 主義
西欧白人は全てを主義化しようとする。彼らは性を性主義と呼び、人種を人種主義と呼び、民族を民族主義と呼び、国家を国家主義と呼ぶ。彼らは自然も主義化して、自然主義と呼ぶ。そして、彼らは宗教も主義化する。そこでは、ユダヤ教もキリスト教もユダヤ主義やキリスト主義になる。
しかし、自然や宗教は主義であるのだろうか。性や人種や民族は主義主張であるのだろうか。人間界の創造主は宗教を次のように認識する。彼は宗教を主義と認識しない。
儒教系統の認識1 宗教は主義でない。
言い換えると、宗教は主義主張でない。彼は宗教を遺伝や性のようにすぐには変えられない何かと認識する。西欧白人は宗教や人種や性を主義と考えるので、彼らはそれらを変えられる何かと考える。新儒教では、彼はこれらを主義と認識しない。だから、彼らはこれらを変えられない何かと認識する。
上記では、彼は信仰するを考えると認識すると提示した。おそらく、西欧白人も信仰すると考えると定義するので、彼らは宗教も主義化する。なぜなら、考えることは変えられることである。彼らは儒教徒のように考えれば、彼らは儒教徒になることができると考える。
西欧白人にとって、信仰とは思考である。思考は変えられるので、信仰も変えられると考える。その結果、彼らは宗教に関して浅はかであるように見える。言い換えると、西欧白人はキリスト教やユダヤ教を本当に信じているのかが不明であるように見える。彼らはキリスト教を本当には信じていないが、信じているように振る舞っているだけに見える。
上記を防止するために、儒教では、彼は宗教を主義や単なる思考と認識しない。彼は宗教を遺伝や人種や性と同様に変えられない何かと認識する。彼は主義化を【宗教と相続】の決まり1で防止する。
7節 自己認識
イスラム教では、豚肉を食べることは悪である。この規範には、理由がないように見える。人間界の創造主の憶測では、この種の規範は自己と非自己を区別するために存在してきた。つまり、ある主体がイスラム教徒であるのかを判定するために、この種の無意味な規範が存在する。
儒教系統の認識1 宗教は自己を授ける。
言い換えると、宗教は自己認識を授ける。より正確には、宗教はその宗教系統の自己を授ける。宗教はその宗教系統の自己認識を授ける。現実的には、宗教は自己を授けて、自己と非自己を区別する。
現実的には、異人種との中間種は自己認識の戸惑いを経験する。彼らは彼ら自身が誰であるのかを認識することができなくなる。その結果、彼らは大和民族(日本人)になろうとして、彼らは日本人のように意図的に振る舞い始める。
例えば、異人種との中間種は清潔や治安や日本語や景観をより重視する。なぜなら、大和民族は民族的に治安や清潔に執着する。彼らは日本人になろうとして、日本人よりも日本国の歴史に詳しくなる。
その延長線上に、彼らは大和民族が信仰する宗教をより強く信仰して、日本人になろうとする。なぜなら、宗教は日本人とそうでない人々を区別する。神道は大和民族とそうでない民族を区別する。宗教が授ける慣習や規範は自己と非自己を区別して、自己を信仰者に授ける。
歴史的にも、自己の宗教や神話を失った民族や人種は遺伝的にも人工的にも消失する。例えば、シュメール人は自己の神話を失い、その他の中東人に吸収された。ローマ人も自己の神話を失い、キリスト教化されて、彼らはどこかへと消えてしまった。
8節 誤認識
ここでは、人間界の創造主は宗教に関する典型的な誤認識を提示する。その誤認識には、説明や救済がある。
儒教系統の認識1 宗教は世界を説明する何かでない。
例えば、儒教は自然界を説明する何かでない。儒教は自然界を分析する何かでない。儒教は儒教系統の社会を形成する何かである。儒教は自然界を説明する何かでない。儒教は自然界を分析する何かでない。自然界の説明や分析は自然科学の役割である。
仏教徒の大和民族にも、自然界を仏教で説明しようとする仏教徒が存在する。しかし、それは仏教の役割でない。仏教は仏教系統の社会を形成する。仏教は仏教系統の善悪や性規範を仏教徒に授ける。それは分析や説明でない。
儒教系統の認識2 宗教は信仰者を救済する何かでない。
ある種の範囲では、宗教は人類を救う何かであると感じられているように見える。しかし、それはキリスト教的な宗教観であるかもしれない。新儒教では、宗教は儒教系統の社会を形成する何かである。そのため、新儒教では、宗教は信仰者を救済する何かである必要はない。
2章 新儒教
1節 呼称
人間界の創造主はこの宗教に関する名前を次のように決める。
儒教系統の決まり1 彼はこの宗教を新儒教と呼ぶ。
儒教系統の決まり2 彼は新儒教を信仰する主体を新儒教徒と呼ぶ。
彼は新儒教の略称を儒教と呼ぶ。彼は新儒教徒の略称を儒教徒と呼ぶ。なお、信仰者と教徒は互いに等しい。
2節 所属
宗教には、世界宗教と民族宗教がある。世界宗教には、キリスト教や仏教がある。民族宗教には、神道や道教、ヒンドゥー教やユダヤ教がある。人間界の創造主は新儒教を次のように決める。
儒教系統の決まり1 新儒教は文明宗教である。
文明宗教は宗教である、かつその宗教はある文明で信仰される。文明宗教は民族宗教と世界宗教の中間あたりに位置する。新儒教は民族宗教でない。新儒教は世界宗教でない。新儒教は東洋文明で信仰される。言い換えると、新儒教は東洋文明に特有な宗教である。つまり、新儒教は東洋文明宗教である。
儒教系統の決まり2 新儒教は東洋文明に所属する。
新儒教は西洋文明に所属しない。新儒教はインド文明にも中東文明にも所属しない。上記を言い換えると、もしある対象が新儒教であるならば、その対象は東洋文明に所属する。
儒教系統の思考規範1 もしある主体が新儒教徒であるならば、その主体は東洋文明に所属する。
対偶をとると、もしある主体が東洋文明に所属しないならば、その主体は主体が新儒教徒でない。上記の使い方はなりすましの防止である。
3節 文明宗教と民族宗教
文明宗教には、キリスト教がある。民族宗教には、ユダヤ教がある。西洋文明では、キリスト教とユダヤ教は両立しない。つまり、ある主体がキリスト教徒である、かつその主体がユダヤ教徒であるが成立しない。もしある主体がキリスト教徒であるならば、その主体はユダヤ教徒でない。新儒教では、人間界の創造主は民族宗教と文明宗教の組を考える。そして、彼は民族宗教と文明宗教を両立させる。
儒教系統の思考規範1 もしある主体が新儒教徒であるならば、その主体は民族宗教と新儒教の組みを信仰する。
つまり、儒教徒は民族宗教と新儒教の組みを信仰する。信仰するの定義により、その主体は民族宗教と新儒教の組みを正しいと考える。例えば、ある主体は神道と新儒教の組みを信仰する。別の主体は神道と仏教を信仰する。ある主体は道教と新儒教の組みを信仰する。別の主体はテングリ信仰と仏教を信仰する。文明宗教か民族宗教かでなく、彼はその組を考える。
4節 語族
人間界の創造主は新儒教の言語を決める。例えば、ユダヤ教やイスラム教の言語は基本的にはセム語族、またはアフロ・アジア語族である。ヒンドゥー教の言語は印欧語族である可能性がある。同様に、彼は新儒教の言語を決める。
儒教系統の決まり1 新儒教の言語は日琉語族及びシナチベット語族と朝鮮語族とアルタイ語族(諸語)とウラル語族の一部とそれらの子孫や派生である。
新儒教の語族はモンゴロイド人種の語族、特に新モンゴロイド人種の語族である。いわゆる、新儒教の言語は東洋人の言語である。広義には、新儒教の言語はモンゴロイド人種の言語である。狭義には、新儒教の言語は東洋人の言語である。
儒教系統の思考規範1 もしある主体が新儒教徒であるならば、その主体は日琉語族及びシナチベット語族と朝鮮語族とアルタイ語族(諸語)とウラル語族の一部とそれらの子孫や派生を話す。
上記は決まり1の思考の規範の形式である。対偶を取ると、もしある主体が日琉語族及びシナチベット語族と朝鮮語族とアルタイ語族(諸語)とウラル語族の一部とそれらの子孫や派生を離さないならば、その主体は新儒教徒でない。
5節 人種
人間界の創造主は新儒教の言語を決める。例えば、実質的には、アブラハムの宗教はコーカサス人種のための宗教である。同様に、彼は新儒教の人種を決める。
儒教系統の決まり1 新儒教の人種はモンゴロイド人種、特に新モンゴロイド人種及びその派生である。
または、新儒教における中心的な人種はモンゴロイド人種、特に新モンゴロイド人種及びその派生である。派生は遺伝的な分岐である。基本的には、それぞれの人種は自己の宗教を彼ら自身で自力で作る。モンゴロイド人種が将来的に分岐した場合も同様である。
儒教系統の思考規範1 もしある主体が新儒教徒であるならば、その主体はモンゴロイド人種及びその派生である。
上記は決まり1の思考の規範の形式である。対偶を取ると、もしある主体がモンゴロイド人種及びその派生でないならば、その主体は新儒教徒でない。
儒教系統の決まり2 新儒教の地域はモンゴロイド人種の自然な生息地、特に東洋地域である。
または新儒教の中心的な地域はモンゴロイド人種の自然な生息地、特に東洋地域である。モンゴロイド人種の自然な生息地には、東洋地域と東南アジア地域、そしてアメリカ大陸が存在する。なお、アブラハムの宗教の中心的な地域は欧州と地中海、そして中東と北アフリカである。それらはコーカサス人種の自然な生息地である。
6節 設計者
人間界の創造主は新儒教の設計者を次のように決める。
儒教系統の決まり1 新儒教の設計者は人間界の創造主(設計者)である。
新儒教の設計者は孔子でない。場合により、彼は設計者を創造者や創造主と呼ぶ。新儒教の設計者は新儒教の統治者でない。新儒教の設計者は新儒教の統治者及び競技者によって保護される。
7節 修正
人間界の創造主は新儒教の修正や更新を次のように決める。ユダヤ教やキリスト教、イスラム教では、神の教えは修正や更新されない。その教えは不変である。その種の信仰者は神の教えをうまく解釈して、彼らは現実に適応してきた。新儒教では、彼は新儒教を電具のように修正されたり、更新されるものと決める。
儒教系統の決まり1 この新儒教は新儒教徒によって連続的に修正・拡張・更新される。
修正の仕方は次である。もし新儒教徒が彼の認識1を修正するならば、その教徒は関数(認識1)のように修正する。または、f(認識1)=認識2。連続的にとは、現実的には、断絶がないことである。
儒教系統の決まり2 この新儒教は新儒教徒によって連続的に整理整頓、理論化、一般化される。
ただし、意味や意図や意志は変化しない。同様に、認識や善悪も変化しない。理論化や一般化は理論科学や数学における理論化や一般化に近いかもしれない。具体的な現象に新儒教を適用していくと、ごちゃごちゃする場合が予想される。その場合、新儒教はそれらを整理整頓、理論化、一般化して、ユークリッド幾何のような体系を再度作って行く。
儒教系統の決まり3 この新儒教は否定されない。
西欧白人は既存の宗教を否定して、彼らは何らかの改革を実行しようとする。時に、彼らは自己の先祖や自己の文明を否定する。実際、キリスト教はユダヤ教を否定して、宗教改革を実行した。プロテスタント派はカトリック派を否定して、宗教改革を実行した。その他にも、王の否定や性の否定、人種や民族の否定、宗教それ自体の否定、自然の否定がある。新儒教では、儒教徒はこの種の改革を採用しない。
儒教系統の思考規範1 もしある新儒教徒が新儒教を修正するならば、その新儒教徒は人間界の創造主よりも優秀である。
新儒教は修正されるが、修正の主体は人間界の創造主よりも優秀である必要がある。上記を変形すると、もしある主体が新儒教を修正するならば、その主体は前の修正者よりも優秀である。ただし、初めの修正者は人間界の創造主である。
3章 目的
1節 現実的な目的
人間界の創造主は新儒教の目的を提示する。目的はある主体の存在や状態や運動である、かつある主体が実現したい。または、目的はある主体の存在や状態や運動である、かつある主体が実現するつもりである。
儒教系統の決まり1 新儒教の目的は、モンゴロイド人種が自己の文明「東洋文明」を形成することである。
つまり、新儒教の目的はモンゴロイド人種が自己の文明「東洋文明」を形成することである。西洋文明、特に西欧文明は近代以降の世界を支配した。現在、その西欧文明は衰退している、または没落している。そして、プーチンを代表とするロシアや習近平を代表とする中国を含む非西欧は西欧文明の強制を嫌っているように見える。
しかし、たとえ彼らが西欧を嫌うとしても、もし彼らが西欧文明よりも優れた文明や制度を形成することができないならば、彼らは西欧文明と対峙することができないだろう。結局、彼らが西欧に押し切られる可能性は残り続ける。これはたとえ西欧白人が彼らの父なる神を殺したキリスト教を嫌うとしても、もし彼らがキリスト教よりも優れた宗教を創造することができないならば、彼らはキリスト教の呪縛から逃れることができないことに似ている。
彼らは自由主義や民主制、国民国家や法体系、人権に代わる新たな何かを提示する必要がある。そこで、人間界の創造主は西欧文明に対峙することができるような文明を形成することを目的とする。つまり、彼は自由主義や民主制、国民国家や法体系、人権に代わる何かを創造する、または設計する。
儒教系統の決まり2 新儒教の目的は、モンゴロイド人種が西洋文明を含む非自己の文明と宗教的に文明的に対峙することである。
上記は決まり1に関係する。大和民族は自己の宗教や自己の文明を持っていない。そのため、彼らは西欧白人と宗教的に文明的に対峙することができない。特に、彼らは西欧白人と言語的に対峙することができない。そこで、彼は上記を新儒教の目的として、この状況を改善する。
儒教系統の決まり3 新儒教の目的は、モンゴロイド人種らがアメリカ大陸をアメリカ先住民とモンゴロイド人種のために奪還することである。
西地中海人及び西欧白人による植民地主義は大航海時代から始まり、第二次世界大戦の後の植民地の独立で終わったと感じられてきた。しかし、アメリカ大陸やオセアニアはいまだに白人帝国主義と植民地主義と奴隷地主義と不可触民地主義が継続している。
実際、西欧白人が統治者を担い、資源を所有して、爆弾を世界へと落下させている。アメリカ大陸やオセアニアの現状は戦前のインドやサブサハラ、東南アジアと同じである。モンゴロイド人種はこの種の状態を終了させて、アメリカ大陸をモンゴロイド人種のために奪還する。
当然、たとえモンゴロイド人種がアメリカ大陸を現在の状態で奪還しようとするとしても、彼らはその奪還を実現することができないだろう。なぜなら、彼らは主権や国民国家、自由主義や民主制に代わる新たな競技系(制度)を設計することができない。そこで、人間界の創造主は奪還のための国家系や価値観や善悪、新たな統治制を含むその他の制度を創造する。
儒教系統の決まり4 新儒教の目的は、モンゴロイド人種らがオセアニアやアメリカ大陸における白人帝国主義と植民地主義と奴隷地主義と不可触民地主義を終了させる。
上記の決まり3と4は政治的なものや統治的なものや国家的なものでなく、宗教的なものである。
儒教系統の決まり5 新儒教の目的は、新儒教徒がモンゴロイド人種及びその遺伝的に分岐された子孫の近世以降における虐殺及び絶滅の再発と奴隷化や植民地化の再発を防止することである。
例えば、アメリカ大陸の多様性はモンゴロイド人種の虐殺と絶滅の結果である。にも関わらず、その多様性が素晴らしいことのように賛美されている。さらに、アメリカ国民はその多様性を世界へと強制しようとしている。この行為はナチスの賛美や黒人奴隷に賛美に等しい。けれども、モンゴロイド人種は西欧白人のこの行為を傍観している。
酷い場合、彼らはその多様性を賛美して、アメリカ大陸の多様性は素晴らしいとモンゴロイド人種の子供達に教育しようとしている。これはホロコーストの生還者の子供にホロコーストは素晴らしいと強制的に賛美させるような行為である。これは黒人奴隷であった子供に黒人奴隷は素晴らしいと強制的に賛美させるような行為である。
この状態では、多様性が西欧白人の流入を再度実現させて、彼らがアジアにおけるモンゴロイド人種をアメリカ先住民のように虐殺、絶滅させる可能性が上昇する。そこで、人間界の創造主はその虐殺及び絶滅、その奴隷化及び植民地化を防止する。なお、新儒教徒は新儒教徒らでも良い。
2節 宗教的な目的
ここでは、人間界の創造主は新儒教の宗教的な目的を提示する。
儒教系統の決まり1 新儒教の目的は、新儒教徒は礼に沿った世界を形成することである。
人間界の創造主がその世界を人工的に創造した(設計した)。彼が礼に沿った世界を設計して、新儒教徒がその設計に基づいて、礼節ある世界を実現する、またはそれを形成する。
儒教系統の決まり2 新儒教の目的は、新儒教徒が遺伝的に分岐された種としても宗教的にも文明的にも永遠に生き残り続けることである。
この新儒教の目的は生存である。または、この新儒教の目的は生存の維持である。
儒教系統の決まり3 新儒教の目的は、新儒教徒がより善な方向に人間離れした系を形成することである。
儒教系統の決まり4 新儒教の目的は、新儒教徒がより善な系を形成することである。
より善な方向は(既存の存在から)より高次な方向に置き換えられるかもしれない。または、より善な方向はより高次的に進化したであるかもしれない。より善な方向は物質から意識、主体(中の人)、そして未知の高次な何かの方向である。より善な系はより正しい系である。
儒教系統の決まり5 新儒教の目的は、新儒教徒が宇宙を含む世界のどこでも空間的にも時間的にも永続的に機能する競技系を形成することである。
上記の競技系は新儒教である。例えば、儒教徒が新儒教を火星に持って行って、その競技系を地球と火星おいて機能させる。中国やロシアのような統治系はその権力を火星にまで及ぼせないので、火星と地球の両方で機能する統治系でない。
アメリカ合衆国も彼らの軍事力を地球から火星まで一回一回展開させることができない。新儒教徒が地球と火星における民を同時に統治することができるような競技系を形成する。これを一般化して、新儒教徒は世界のどこでも空間的にも時間的にも永続的に機能する競技系を形成する。
儒教系統の決まり6 新儒教の目的は、新儒教徒が正しい競技系を形成することである。
または、新儒教徒が唯一に正当化された善な競技系を形成する。あるいは、新儒教徒が真理である競技系を形成する。この時、新儒教徒はもし彼らがこの競技系で競技するならば、またはもし彼らがこの競技系で生きるならば、彼らは正しく生きることができると信仰する。または、彼らは間違えなく生きることができると信仰する。
儒教系統の決まり7 新儒教の目的は、儒教徒が信仰可能な競技系を形成することである。
信仰可能な競技系は新儒教である。彼は新儒教という競技系それ自体を信仰の対象になるようにする。新儒教徒は創造主の代わりに新儒教という競技系を信仰する。または、彼らは正しさや善善悪の基準を新儒教という競技系に置く。新儒教という競技系はそれ自体が善である。その人工的な世界それ自体が唯一に正当化された善な世界である。この時、人々のほとんどが自然界を正しい世界と感じるように、新儒教徒は新儒教という競技系を正しい世界と感じる。
書き込み欄