古代メソポタミア文明は「こちら」から
無宗教の東洋人、特に日本人や朝鮮人は中東の歴史を感覚的に把握することは非常に難しい。ここで、俺は東洋人が中東の歴史を捉える方法を提示する。
ここで、俺は中世中東の歴史をイスラム教の勃興600年〜東ローマ帝国の滅亡1400年までと認識する。特に意味はない。
上記の方法を採用するとき、中世中東の歴史は「イスラム教の勃興600年〜十字軍1100」と「十字軍〜モンゴル帝国1200」と「モンゴル帝国〜東ローマ帝国1400」に分割する。その後、君は各時代をさらに分割しよう。
イスラム教の勃興の前の状態(初期状態)
パルティア(紀元前200〜紀元後200年で漢帝国に対応)が滅びた後、ササン朝ペルシアが起こった。当時、ローマ帝国も健在であったが、約500年にゲルマン人による侵略と破壊によって崩壊した(西ローマの崩壊)。その百年後に、イスラム教が生まれて、ササン朝ペルシアが滅亡した。
その約900年後、イスラム教のオスマン帝国が東ローマ帝国を滅亡させた。ただ、東ローマ帝国もオスマン帝国もトルコを基本的な舞台とした。だから、東洋人は異なる宗教の内戦(キリスト教東方教会VSイスラム教)の様相を呈していたと感じるだろう。
中東人種はコーカサス人種の下位分類である。なお、俺は民族をエスニックでなく人種の下位分類として認識する。
アラブ人とペルシャ人は異なるとしばしば指摘されるが、ペルシャ人もアラブ人も同じ中東人種であるように見える。少なくとも、ペルシャ人は地中海人種や白人種でない。ただし、アラブ人とペルシャ人は非常に異なる文化をもつ。チベット人と中国人は互いに異なる文化を持つが、彼らは同じ東洋人種である。
中世中東は非常に複雑であり、理解しがたい。だから、君が人種に着目して、捉える時、君は中東をなんとなく把握する。中世の中東の覇権はアラブ民族→ペルシャ民族→トルコ人?であった。各覇権の期間は約200年であり、合計600年。ただし、現代のトルコ人は地中海小人種であった。
その後、中東における覇権がモンゴル帝国→ティムール→オスマン帝国と移動して、近世界へと突入していった。
イスラム教の勃興から十字軍まで
この時代はさらに、「ムハンマド及び3正統カリフ時代」と「ウマイヤ朝及びアッバース朝」と「混乱期」に分類される。
ムハンマド及び3正統カリフ時代〜600年から650年
ムハンマドはイスラム教を作った。その後、三人の後継者はその遺志を継ぎイスラム世界を拡張した。この時点で、ペルシャやエジプトがイスラム圏に組み込まれた。
しかし、スペインや北アフリカはイスラム圏になっていない。この時代の領土の拡張は東西でなく南北への拡張であった。ムハンマドから3正統カリフ時代はアラブ人の時代であった。アラブ人によるこの状態はウマイヤ朝とアッバース朝の800年まで続いた。
ウマイヤ朝及びアッバース朝〜650年から800年
ウマイヤ朝はシリア辺りに重点を置いた地中海世界的な王朝(東ローマやギリシア)であり、アッバース朝はバグダッドに重点を置いたペルシャ的な王朝であった。ウマイヤ朝の時点で、イベリア半島がイスラム圏に組み込まれた。
ウマイヤ朝は650〜750年の約100間継続して、この王朝はアラブ人のための王朝であった。それに対して、アッバース朝は800年にアラブ人とペルシャ人の中間族(アラブもペルシャも同じ中東小人種)の後継者(マームーン)が選出されて、アラブとペルシャの民族的な対立が表面化した。
俺の勝手な印象によると、アッバース朝は800年の時点でペルシャの統治能力を失いバラバラになっていてた。実際、アッバース朝はモンゴル帝国まで細々と継続したが、君は800年を実質的な分裂期を認識できるかも。
混乱期〜800年から1000年
簡単にまとめると、アッバース朝は800年の時点で統治能力を実質的に失った。その結果、エジプトやペルシャが独立して王朝を別々に作った。これがイスムラム圏の出来事であった。
800年代では、アラブ人のアッバース朝からペルシャ人が独立して、独自の王朝を作り始めた。また、エジプト人も独立して独自の王朝を作り始めた(ただし、王様はエジプト人でないかも)。900年代になると、アラブとペルシャの力関係が完全に逆転したが、そのペルシャ人は1000年にトルコ人に支配された。
さらに、1000年、中央アジアからやってきたトルコ人?(コーカソイド人種かモンゴロイド人種かは不明かも)がトルコへと侵入して、イスラム教に改宗して、セルジューク朝をそこに立ち上げて、中東を一度支配した。このセルジューク朝はピザンツ帝国と戦争して、彼らを敗北させ、十字軍の遠因を作った。
十字軍からモンゴル帝国まで
十字軍〜1100年
セルジュークはピザンツ帝国と戦闘して勝利した。その後、ピザンツ帝国は欧州に救援を求めた。その結果、十字軍が立ち上げられて、彼らによる侵略が実行された。
モンゴル帝国〜1200年
混乱期から十字軍で、中東はさらに混乱した。そこに、モンゴル帝国が信仰して、エジプトの支配地域とアラビア半島を除く中東のほぼ全域が支配された。
モンゴル帝国の後から東ローマ帝国の滅亡まで
ティムール
モンゴル帝国がペルシャを支配した後、モンゴル帝国は中国とペルシャとロシア辺りと中央アジア辺りに分裂した。ペルシャの部分はイル・ハン国と呼ばれ、三代続いた後に、ティムールによって滅亡させられた。
ティムール朝は約1300年から1500年までの200年間継続した。その後の時代がペルシャ人による国家になった。ペルシャはイスラム教の勃興から長い間他者によって支配され続けたように思える。その後、ペルシャはサファヴィー朝からガージャール朝、そして現代へとつながる。
ペルシャはアカイメネス朝ペルシャからパルティア、ササン朝ペルシャ辺りまでの約1000年が全盛期であったように思える。
オスマン帝国と東ローマの消滅まで
俺はオスマン帝国がいつ形成されたかをいまいち理解できない。オスマン帝国の前には、トルコにはセルジューク朝やルーム・セルジューク朝が存在した(1000年から)が、それらはモンゴル帝国によって滅ぼされた。その後、オスマン帝国がトルコから出現した(1300)。
中央アジア起源のトルコ人イスラーム政権。11世紀に大移動を行い、西アジアに入り、1055年にバグダードを占領、ブワイフ朝を倒しカリフからスルタンの称号を与えられる。1071年のマンジケルトの戦いでビザンツ軍を破り、小アジアに進出。小アジアのトルコ化の第一歩となった。その西アジアへの進出は、ヨーロッパのキリスト教世界に大きな脅威を与え、十字軍の発端となった。その後、いくつかの地域政権に分裂、十字軍とモンゴルの侵攻があって、13世紀には消滅した。
https://www.y-history.net/appendix/wh0502-004.html
セルジューク族はもとはオグズ族といわれるトルコ系民族で、アラル海に注ぐシル川の下流(現在のカザフスタン)にいた。スンナ派イスラームを信奉し、はじめガズナ朝に服していたが、トゥグリル=ベクがニーシャープールで自立し、1038年に建国。セルジュークは一族の伝説的な始祖の名前からきた。
モンゴル帝国の後、上記のティムールの帝国がペルシャを支配してオスマン帝国と戦闘して勝利した(1400年)。オスマン帝国は幸運にも滅亡しなかった。その50年後、オスマン帝国は東ローマ帝国を滅亡させた。
その後、イベリア人による大航海時代(大虐殺時代)が始まって、現代につながる。ちなみに、イベリア人やイタリア人は白人種でなく地中海人種であった。白人の台頭は産業革命の後であり、比較的最近の出来事であった。
イスラムの中心の人種的変移:イスラム教の中心はアラブ民族(600年〜800年)→ペルシャ民族(800年〜1000年)→トルコ人?(1000〜1200年)と移っていた。ただし、このトルコ人と呼ばれた人間がモンゴロイド人種⊃東洋小人種であった、コーカソイド人種⊃地中海小人種かは不明である。