一般的に、イスラム教やユダヤ教では、豚肉は禁止されている。そして、その理由はアッラーやヤハウェがそう言ったからである。以下では、俺はこの理由を別の観点から提示するつもりである。
理由
俺系統の思考の規範1.1 もしある主体がイスラム教徒であるならば、その主体は豚肉を食べない。
対偶を取ると、もしある主体が豚肉を食べるならば、その主体はイスラム教徒でない。口語的には、豚肉を食べる、または食べないは、ある主体がイスラム教徒であるのかを表現している。上記はイスラム教徒の行為的な定義である。
ある主体aが存在して、その主体が「俺はイスラム教徒である」と言った。しかし、その主体を観察すると、その主体は豚肉を食べた。この時、その主体の行為は上記の思考の規範1.1「その主体は豚肉を食べない」に反している。だから、その主体aはイスラム教徒でない。
つまり、上記の疑問への回答は次である。なぜイスラム教徒は豚肉を食べてはいけないのか?なぜなら、その行為がある主体がイスラム教徒であるのかどうかを判定している。イスラム教徒がある主体がイスラム教徒であるのかを区別するために、豚肉を食べて良いのかという教えがある。
俺系統の思考の規範1.2 もしある主体がユダヤ教徒であるならば、その主体は豚肉を食べない。
上記も同様である。ある主体が本当にユダヤ教徒であるのかを区別するために、上記の思考の規範が存在する。
背景
俺系統の思考の規範2.1 もしある主体がイスラム教徒であるならば、その主体はある主体がイスラム教徒であるのかを行為で判定する。
この時、上記の思考の規範1.1が機能する。豚肉を食べる→イスラム教でない、豚肉を食べない→イスラム教。彼らはこのような思考の規範を持っている。
ある主体がx教徒であるのかを判定する方法には、行為の他に、状態や存在がある。例えば、俺は状態に関する次の思考の規範を提示する。
俺系統の思考の規範2.2 もしある主体がイスラム教徒であるならば、その主体はイスラム教系統の服装を着ている。
上記はイスラム教徒の状態的な定義である。上記では、イスラム教徒がある主体がイスラム教徒であるのかを状態、つまりきている服で判定する。この場合、たとえある主体が豚肉を食べるとしても、その主体はイスラム教徒である。なぜなら、その主体はイスラム教系統の服装をきている。存在の場合は次である。
俺系統の思考の規範2.3 もしある主体がイスラム教徒であるならば、その主体はイスラム教系統の両親を持つ。
上記はイスラム教徒の存在的な定義である。上記では、イスラム教徒がある主体がイスラム教徒であるのかを存在、つまり先祖で判定する。この場合、たとえある主体が豚肉を食べるとしても、イスラム教系統の服を着ていないくても、その主体はイスラム教徒である。なぜなら、その主体はイスラム教系統の先祖を持っている。
電飛
- 信仰者の定義及び認識について この宗教でも、俺は信仰者の存在的、かつ状態的、かつ行為的な定義を実行する。