新儒教(1.1.1版)〜9章 死生観〜

新儒教
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以下では、人間界の創造主は儒教系統の死生観を創造する。一般的に、宗教が異なると、死生観が異なる。例えば、アブラハムの宗教では、天国や地獄の存在が仮定されている。その存在に基づいて、キリスト教系統の社会は安楽死や尊厳死、医療に関して設計されている。ここでは、彼は儒教系統の死生観を提示する。彼はそれを応用して、安楽死や尊厳死、医療を設計する。

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1節 儒教系統の死生観

【死生観】

彼は次を信仰する。

(1)x教系統の死生観はx教徒が信仰する死生観である。
(2)儒教系統の死生観は儒教徒が信仰する死生観である。

【死生観と性】
彼は次を信仰する。

(1)x教系統の母系死生観が存在する。
(2)x教系統の父系死生観が存在する。

彼は儒教系統の生と儒教系統の死を次のように信仰する。

【儒教系統の生】
彼は次を信仰する。

(1)ある主体が生きているとは、その主体の肉体と意識(感覚)と主体(中の人)の組みが存在することである。
(2)ある主体がx教系統の人間として生きているとは、彼が競技系の中で競技していることである。

上記の生きているは完全に生きている、覚醒的に生きているであるかもしれない。場合により、彼は競技を所属すると置き換える。

【儒教系統の眠り】
彼は次を信仰する。

(1)ある主体が眠っているとは、その主体の肉体のみが存在することである。

上記には、睡眠や気絶、麻酔による眠り、昏睡や植物状態が存在する。上記の眠りは非覚醒的な状態であるかもしれない。

【儒教系統の死】
彼は次を信仰する。

(1)ある主体が死ぬとは、その儒教徒の肉体が死ぬことである。
(2)ある主体がx教系統の人間として死ぬとは、彼がx競技系から退場することである。

なお、(1)に関して、次の次の思考規範が仮定される。

(3)もしある主体の肉体が死ぬならば、その主体の意識(感覚)と主体(中の人)も死ぬ。

上記は経験的、または感覚的である。また、もし主体がそれのみで存在するならば、たとえ別の主体がある主体の肉体を破壊するとしても、その行為は殺人行為にならない可能性がある。それを防止するためにも、肉体の死と主体の死を連動させる。

【生及び死における個と集団】
彼は次を信仰する。

(1)個人的な死と集団的な死が存在する。
(2)個人的な生と集団的な生が存在する。

例えば、個人的な死では、もしある主体が死ぬならば、その視点からの世界は亡くなるだろう。なぜなら、何かを把握する主体が存在しない。その主体の視点は地球上には存在しない。しかし、集団的な死では、たとえある主体が死ぬとしても、その主体はその視点を地球上に置くだろう。そして、その主体は死後における遺体の収容や家族について考える。一般的に、テロリストは集団的な死を考えないので、後先考えずに、自爆テロを実行する。

彼は儒教系統の生と死を次のように信仰する。

(3)儒教系統の人間の死は個人的な(儒教系統の)死と集団な(儒教系統の)死の組みである。
(4)儒教系統の人間の生は個人的な(儒教系統の)生と集団な(儒教系統の)生の組みである。

彼は生と死を個人と集団の二重性と信仰する。彼は儒教系統をx教系統へと一般化する。

【死における無】
彼は次を信仰する。

(1)もしある主体が死ぬならば、その主体は個人的な死として無になる。
(2)もしある主体が死ぬならば、その主体は集団的な死として無にならない。

上記はおそらくである。だから、もしある主体が死ぬならば、その主体は個人的な死としておそらく無になるだろう。例えば、その主体は残された家族について考えるだろう。

【死後の世界】
彼は次を信仰する。

(1)もし死後の世界が存在するならば、死後の世界はある主体がその死後について想像する競技系である。

ただし、死後の世界の存在は仮定されない。例えば、ある主体が死ぬとき、その主体は残された家族の世界を想像する。それが死後の世界である。より正確には、ある主体が死ぬと、その主体が世界を把握する主体を失うので、その主体の視点は地球には存在しない。しかし、人々は視点を地球上に起き続けて、残された家族の未来について考えてきた。ここでは、彼はその世界を死後の世界と仮定する。

【生の永続性】
彼は生の永続性を次のように信仰する。

(1)もしある儒教徒がその子孫を残すならば、儒教系は永続的である。
(2)もしある儒教徒がその子孫を残すならば、東洋文明系は永続的である。
(3)もしある主体が儒教徒であるならば、集団としての永続性を上記の(1)と(2)で信仰する。

日常的には、個人の生は永遠でない。しかし、ある主体が競技系を設計するとき、その主体は何らかの永続性を提示する必要がある。そこで、彼は競技系の永続性や集団としての永続性を提示する。

【生と死の善悪】
彼は次を信仰する。

(1)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は儒教系統の生を善と判断する。
(2)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は儒教系統の死を悪と判断する。
(3)人間界の創造主が儒教系統の生の善性を正当化する。

または、もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は儒教系統の死を善と判断しない。より正確な(3)は次である。もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が信仰するのは、人間界の創造主が儒教系統の生の善性を正当化する。

【病気】
彼は病気を次のように決める。なお、下記は宗教的な意味での病気である。

(1)病気は自然現象である、かつそれは儒教系統の生の善性を否定する。
(2)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は病気を悪いと判断する。

上記の現象は存在や状態を含む。また、上記に現象は骨折などを含む。日常的には、病気は生を破壊したり、阻害する現象である。上記の自然現象は基本的には自動的である。しかし、非自動的な可能性もあるように感じる。そこで、彼は機械現象でなく、自然現象とした。または、もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は病気を善と判断しない。

【治療】
彼は治療を次のように決める。なお、下記は宗教的な意味での治療である。

(1)治療は行為である、そこである主体は病気によって否定された生の善性を回復する。

治療は行為である、そこである主体は病気によって否定された生の善性をもと通りにする。

【健康】
彼は健康を次のように信仰する。

(1)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は健康を善と判断する。
(2)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は不健康を悪いと判断する。

彼は不健康を生の善性を破壊する可能性がある状態と認識する。

【医療に関する思考規範】
彼は次を決める。

(1)もしある主体が自己の生の善性を正当化しないならば、その主体は医療を受ける権利を持つ。

または、もしある主体が自己の生の善性を正当化しないならば、その主体は治療される必要がない。もしある主体が医療を受けたいならば、その主体は自己の善性を正当化する必要がある。そして、その主体は自己の善性を否定する病気を悪いと判断する必要がある。この時、その主体は医療を受ける権利を持つ。

【自殺】
彼は次を信仰する。

(1)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は自殺を善と判断しない。
(2)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は自殺を悪いと判断しない。

ただし、ある主体が自己の生を善と判断しないという条件が存在する。この時、自殺は悪いと必ずしも判断されない。彼は安楽死と尊厳死をここから導く。

【安楽死及び尊厳死の系統性】
彼は次を信仰する。

(1)x教系統の安楽死はx教徒が信仰する安楽死である。
(2)x教系統のy死はx教徒が信仰するy死である。

例えば、儒教系統の安楽死は儒教徒が信仰する安楽死である。なお、自殺をx死に含める。x教系統の自殺はx教徒が信仰する自殺である。

【生きているように見えるもの】
彼は次を認識する。

(1)次のxは生きているように見える。

xには、植物、微生物、サピエンスを含む動物が存在する。ウイルスは機械的に見える。

【権限】
彼は死生観の設計や創造に関する権限を次のように認識する、かつ決定する。

(1)設計者のみがx教系統の死生観を創造する。
(2)設計者のみがx教系統の死生観を決定する。
(3)設計者のみがx教系統の死生観を信仰者に授ける。

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