新儒教〜物質観と動物観と人間観の章〜

新儒教
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以下では、新儒教の創造主は新儒教系統の物質観と動物観と人間観を提示する。一般的には、多くの宗教はその系統の人間観を提示してきた。その人間観は人間を単なる動物から区別した。特に、牧畜民は家畜を扱うので、彼らは人間と動物の明確な違いを求めたように思える。

神話や宗教にも、神と人間と動物が入り混じった神話と動物と人間と神が明確に区別された宗教が存在する。前者には、エジプト神話とヒンドゥー教が存在する。エジプト神話では、ホルスはハヤブサの頭を持っている。ヒンドゥー教では、ガネーシャは象の頭を持っている。後者には、アブラハムの宗教がある。

現実的には、人間観は殺人行為に関する法律の適用に関係する。例えば、ある人間がタコ型の火星生命体と出会って、その火星生命体を破壊した。このとき、この行為は殺人行為に該当するのかが問題になる。一般的には、ある主体が人間であるのかどうかは知的能力に依存する。だから、もしその生命体が人間と同等の知的能力を持つならば、その行為は殺人行為に該当する。

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1章 物質観

物質観の系統性

神話の世界では、太陽は性や人格を持っていた。近代科学の発達以降、統一的な物質観が提示されて、物質は性や人格を持たなくなった。そこでは、物質は単なる機械になった。このように、時代や文明や宗教に関して、物質観は異なる。そこで、新儒教の創造主は物質観の系統性を提示する。

儒教系統の決まり x教系統の物質はx教徒が信仰する物質である。

xを儒教と仮定する。この時、儒教系統の物質は儒教徒が信仰する物質である。現実的には、現代の人々の物質観は近代科学によって世界的に統一されている。そのため、儒教系統の物質観はキリスト教系統の物質観にほとんど等しい。その他の宗教に関しても同様である。

物質と運動

物質と動物では、運動の仕方が異なる。物質は完全に自動的に運動しているように見える。それに対して、動物は完全には自動的に運動せずに、非自動的に運動しているように見える。新儒教の創造主はこの運動の性質の違いを使用して、彼は物質と動物の違い認識する。

儒教系統の思考規範 もしある主体が物質であるならば、その主体は自動的に運動する。

上記は定義のような文である。上記が実際であるのかは不明である。対偶をとると、もしある主体が自動的に運動しないならば、その主体は物質でない。例えば、犬は自動的には運動しない。対偶を使用すると、犬は物質でない。

その他の形式の思考規範には、次がある。もしある主体が自動的に運動するならば、その主体は物質である。もしある主体が物質であるならば、その主体は非自動的に運動しない。

物質と性

一般的には、物質は性を持たない。一方、動物は性を持つ。植物はその中間である。そこで、新儒教の創造主は物質と動物の違いを性で認識する。

儒教系統の思考規範 もしある主体が物質であるならば、その主体は性を持たない。

対偶をとると、もしある主体が性を持つならば、その主体は物質でない。例えば、犬は性を持つ。だから、犬は物質でない。当然、この思考規範は生物学では普遍的に成立しない可能性がある。

その他の形式の思考規範には、次がある。もしある主体が性を持たないならば、その主体は物質である。これが成り立つのかは不明である。

物質と内面

物質は内面を持たない。それに対して、動物は内面を持つ。新儒教の創造主は物質と動物の違いを内面で認識する。

儒教系統の思考規範 もしある主体が物質であるならば、その主体は内面を持たない。

対偶をとると、もしある主体が内面を持つならば、その主体は物質でない。例えば、犬は内面を持つ。だから、犬は物質でない。ここでの内面は感情や記憶などの低次な何かである。犬は飼い主を認識して、感情を表現する。人間はより高度な内面を持つ。

その他の形式の思考規範には、次がある。もしある主体が内面を持たないならば、その主体は物質である。これが成り立つのかは不明である。また、現実的には、ある主体が内面を持つのかは直接的には確認することができない。それは外部からの推論に依存する。

物質と意識

物質は意識を持たない。それに対して、動物は意識を持つ。新儒教の創造主は物質と動物の違いを意識で認識する。

儒教系統の思考規範 もしある主体が物質であるならば、その主体は意識を持たない。。

対偶をとると、もしある主体が意識を持つならば、その主体は物質でない。例えば、犬は意識を持つ。だから、犬は物質でない。意識には、視界や感情や性欲や記憶がある。

その他の形式の思考規範には、次がある。もしある主体が意識を持たないならば、その主体は物質である。これが成り立つのかは不明である。例えば、睡眠中は、その主体は意識を持たない可能性がある。しかし、その主体を破壊すると、殺人行為に該当する可能性がある。当然、睡眠中、その主体は物質になったと考えることができる。

2章 動物観

動物観の系統性

牧畜民と農耕民では、動物観が互いに異なる。また、牧畜民の影響を受けた宗教の動物観も牧畜的である。新儒教の創造主は動物観の系統性を提示する。

儒教系統の決まり x教系統の動物はx教徒が信仰する動物である。

xを儒教と仮定する。この時、儒教系統の動物は儒教徒が信仰する動物である。以下では、彼は儒教系統の動物を提示する。

物質と運動

物質と動物では、運動の仕方が異なる。物質は完全に自動的に運動しているように見える。それに対して、動物は完全には自動的に運動せずに、非自動的に運動しているように見える。新儒教の創造主はこの運動の性質の違いを使用して、彼は物質と動物の違い認識する。

儒教系統の思考規範 もしある主体が動物であるならば、その主体は自動的に運動しない。

または、もしある主体が動物であるならば、その主体は非自動的に運動する。上記は定義のような文である。上記が実際であるのかは不明である。現実的には、もしある主体が自動的に運動しないならば、その主体は動物である。または、もしある主体が非自動的に運動するならば、その主体は動物である。

対偶を取ると、もしある主体が自動的に運動するならば、その主体は動物でない。例えば、太陽は自動的に運動する。上記の思考規範を使用すると、太陽は動物でない。

今、彼は次を仮定する。犬は動物である。上記の思考規範を使用すると、犬は自動的に運動しない。実際に、彼が犬を観察すると、彼の認識では、犬は自動的に運動しない。この観察は思考規範の結論に一致する。だから、犬は動物である。

動物と性

一般的には、物質は性を持たない。一方、動物は性を持つ。植物はその中間である。そこで、新儒教の創造主は物質と動物の違いを性で認識する。

儒教系統の思考規範 もしある主体が動物であるならば、その主体は性を持つ。

上記は定義のような文である。上記が実際であるのかは不明である。対偶を取ると、もしある主体が性を持たないならば、その主体は動物でない。例えば、太陽は性を持たない。だから、太陽は動物でない。現実的には、もしある主体が性を持つならば、その主体は動物である。

今、彼は次を仮定する。犬は動物である。上記の思考規範を使用すると、犬は性を持つ。実際に、彼が犬を観察すると、犬は性を持つ。この観察は思考規範の結論に一致する。だから、犬は動物である。

動物と内面

物質は内面を持たない。それに対して、動物は内面を持つ。新儒教の創造主は物質と動物の違いを内面で認識する。

儒教系統の思考規範 もしある主体が動物であるならば、その主体は内面を持つ。

上記は定義のような文である。上記が実際であるのかは不明である。対偶をとると、もしある主体が内面を持たないならば、その主体は動物でない。例えば、太陽は内面を持たない。だから、太陽は動物でない。現実的には、もしある主体が内面を持つならば、その主体は動物である。

今、彼は次を仮定する。犬は動物である。上記の思考規範を使用すると、犬は内面を持つ。実際に、彼が犬を観察すると、犬は内面を持つ。この観察は思考規範の結論に一致する。だから、犬は動物である。ここでの内面は感情や記憶などの低次な何かである。犬は飼い主を認識して、感情を表現する。人間はより高度な内面を持つ。

動物と意識

物質は意識を持たない。それに対して、動物は意識を持つ。新儒教の創造主は物質と動物の違いを意識で認識する。

儒教系統の思考規範 もしある主体が動物であるならば、その主体は意識を持つ。

上記は定義のような文である。上記が実際であるのかは不明である。対偶を取ると、もしある主体が意識を持たないならば、その主体は動物でない。例えば、太陽は意識を持たない。だから、太陽は動物でない。

今、彼は次を仮定する。犬は動物である。上記の思考規範を使用すると、犬は意識を持つ。実際に、彼が犬を観察すると、犬は意識を持つ。この観察は思考規範の結論に一致する。だから、犬は動物である。

現実的には、もしある主体が意識を持つならば、その主体は動物である。これが現実に近い。例えば、睡眠中、動物は意識を持たない。上記をそのまま適用すると、動物は動物でない。当然、睡眠中の動物は動物でない可能性もある。

動物と中の人

動物は意識を持つ。だから、動物はその意識を把握する中の人も持つ可能性がある。しかし、もし動物が中の人を持たないならば、中の人の存在の有無が人間を動物から区別する。そこで、新儒教の創造主は次の仮定を提示する。

儒教系統の思考規範 もしある主体が動物であるならば、その主体は中の人を持たない。

または、もしある主体が動物であるならば、その主体は人間の中の人に等しい中の人を持たない。対偶を取ると、もしある主体が中の人を持つならば、その主体は動物でない。

動物とサピエンス

大和民族はホモ・サピエンスと人間を区別していない。新儒教では、新儒教の創造主はx教系統の人間をサピエンスから区別する。

儒教系統の認識 サピエンスは動物である。

サピエンスはx教系統の人間でない。サピエンスは動物である。例えば、キリスト教では、生まれた後に、幼児洗礼が行われる。彼の解釈として、幼児洗礼はサピエンスをキリスト教系統の人間にするために実行されている。生まれたばかりの赤ん坊は動物であり、x教系統の人間でない。

物質と動物の組

動物は非自動的に運動する。同時に、動物の運動のほとんどは自動的である。新儒教の創造主は動物を物質的なものと動物的なものの組と認識する。

儒教系統の認識 動物は物質的なものと動物的なものの組である。

言い換えると、彼は動物を物質的なものと動物的なものの組と認識する。動物は物質であるか、動物は動物であるかでなく、動物は物質的な性質と動物的な性質の両方を持つ。なお、上記を使用すると、物質は物質的なものの組である。物質的なものと動物的なものは物質性や動物性である。

動物と自由意志

物質は自動的に運動する。動物は非自動的に運動する。動物は自由意志を持っているので、動物は非自動的に運動することができる。新儒教の創造主はそのように解釈する。彼は次を提示する。

儒教系統の認識 動物は自由意志を持つ。

言い換えると、動物は自動的な運動を非自動的な運動に変化させる。動物と運動における思考規範によって、動物は自動的に運動しない。自動的に運動しないを非自動的に運動すると置き換えると、動物は非自動的に運動する。

さらに、物質と動物の組みを使用すると、動物は物質的なものと動物的なものの組である。つまり、動物は自動的に運動する性質と非自動的に運動する性質を持つ。彼の認識では、動物は自己の自動的な運動を非自動的な運動に変化させる。だから、動物は自由意志を持つ。なお、以上は感覚的な話であり、厳密な証明でない。

動物性と連続性

虫も犬も動物である。犬は虫よりもより非自動的に運動しているように見える。一方、虫は機械のように運動している。動物性は1か0でなく、動物性は連続的である。新儒教の創造主は次を提示する。

儒教系統の認識 動物性は連続的である。

言い換えると、動物性は1か0でない。一般的には、下等生物ほど機械のように運動する。虫は機械的である。それに対して、シャチや犬やカラスはより非自動的に運動する。植物は物質と虫の中間あたりに配置される。ウイルスは不明であるが、植物と虫の間に配置されるかもしれない。

動物と家畜

牧畜民は家畜を扱う。そのため、彼らは野生動物と家畜を明確に区別する。新儒教の創造主は牧畜民の動物観を提示する。

儒教系統の認識 動物には、家畜と野生動物がある。

豚や馬は家畜である。犬や猫は愛玩動物である。野生動物には、シャチやクマがある。家畜は自由でない。愛玩動物は野生動物よりも自由でない。

3章 人間観

人間観の系統性

一般的には、宗教が異なると、人間観それ自体が互いに異なる。また、生活様式が異なると、人間観が互いに異なる。牧畜民と農耕民では、人間観が互いに異なる。牧畜民は人間を家畜から明確に区別しようとする。新儒教の創造主は動物観の系統性を提示する。

儒教系統の決まり x教系統の人間はx教徒が信仰する人間である。

xを儒教と仮定する。この時、儒教系統の人間は儒教徒が信仰する動物である。以下では、彼は儒教系統の人間を提示する。

人間と運動

物質と動物と人間では、運動の仕方が異なる。物質は完全に自動的に運動しているように見える。それに対して、動物は完全には自動的に運動せずに、非自動的に運動しているように見える。人間は目的的に運動しているように見える。新儒教の創造主はこの運動の性質の違いを使用して、彼は物質と動物と人間の違い認識する。

儒教系統の思考規範 もしある主体がx教系統の人間であるならば、その主体は目的的に運動する。

または、もしある主体がx教系統の人間であるならば、その主体は目的的に運動する。上記は定義のような文である。上記が実際であるのかは不明である。

対偶を取ると、もしある主体が目的的に運動しないならば、その主体は人間でない。例えば、太陽は自動的に運動するので、太陽は目的的に運動しない。上記の思考規範を使用すると、太陽は人間でない。多くの動物も同様である。例えば、ネズミは基本的には目的的に運動しない。だから、ネズミは人間でない。ただし、カラスや高等動物は目的的に運動する場合がある。

今、彼は次を仮定する。あるサピエンスはx教系統の人間である。上記の思考規範を使用すると、サピエンスは目的的に運動する。実際に、彼がサピエンスを観察すると、彼の認識では、サピエンスは目的的に運動する。例えば、キリスト教徒はキリスト教系統の目的に沿って運動している。この観察は思考規範の結論に一致する。だから、そのサピエンスはx教系統の人間である。

人間と性

一般的には、物質は性を持たない。一方、動物は性を持つ。植物はその中間である。x教系統の人間はその宗教が授ける人工的な性を信仰する。そこで、新儒教の創造主は性を次のように認識する。

儒教系統の思考規範 もしある主体がx教系統の人間であるならば、その主体は人工的な性を持つ。

上記は定義のような文である。上記が実際であるのかは不明である。対偶を取ると、もしある主体が人工的な性を持たないならば、その主体はx教系統の人間でない。例えば、太陽は人工的な性を持たない。だから、太陽はx教系統の人間でない。

今、彼は次を仮定する。あるサピエンスはx教系統の人間である。上記の思考規範を使用すると、サピエンスは人工的な性を持つ。なぜなら、そのサピエンスは宗教が授ける人工的な性を持つ。実際に、彼がサピエンスを観察すると、サピエンスは人工的な性を持つ。この観察は思考規範の結論に一致する。だから、そのサピエンスはx教系統の人間である。

人間と内面

物質は内面を持たない。それに対して、動物は内面を持つ。人間はより高度な内面を持つ。新儒教の創造主は物質と動物と人間の違いを内面で認識する。

儒教系統の思考規範 もしある主体がx教系統の人間であるならば、その主体は高度な内面を持つ。

上記は定義のような文である。上記が実際であるのかは不明である。ここでの高度な内面は恨みや辛み、憎悪や復讐心、宗教的な意図や商業や外交における内面、その他である。対偶をとると、もしある主体が内面を持たないならば、その主体はx教系統の人間でない。例えば、太陽は高度な内面を持たない。だから、太陽はx教系統の人間でない。

今、彼は次を仮定する。あるサピエンスはx教系統の人間である。上記の思考規範を使用すると、そのサピエンスは高度な内面を持つ。実際に、彼がサピエンスを観察すると、サピエンスは高度な内面を持つ。サピエンスは原爆やモンゴロイド人種の虐殺を恨み、復讐しようとする。この観察は思考規範の結論に一致する。だから、サピエンスはx教系統の人間である。

人間と中の人

動物は意識を持つ。だから、動物はその意識を把握する中の人も持つ可能性がある。しかし、もし動物が中の人を持たないならば、中の人の存在の有無が人間を動物から区別する。そこで、新儒教の創造主は次の仮定を提示する。

儒教系統の思考規範 もしある主体がx教系統の人間であるならば、その主体は中の人を持つ。

または、もしある主体がサピエンスであるならば、その主体は中の人を持つ。中の人は宗教に無関係に存在する可能性がある。思考規範の対偶を取ると、もしある主体が中の人を持たないならば、その主体はx教系統の人間でない。

人間と善悪

x教系統の人間のみが善悪をもつ。x教系統の人間のみが善悪を判断する。新儒教の創造主は次を提示する。

儒教系統の思考規範 もしある主体がx教系統の人間であるならば、その主体は善悪を持つ。

正確には、もしある主体がx教系統の人間であるならば、その主体はx教系統の善悪を持つ。対偶をとると、もしある主体が善悪を持たないならば、その主体はx教系統の人間でない。例えば、太陽は善悪を持たない。だから、太陽はx教系統の人間でない。同様に、犬は善悪を持たない。だから、犬はx教系統の人間でない。

今、彼は次を仮定する。あるサピエンスはx教系統の人間である。上記の思考規範を使用すると、そのサピエンスは善悪を持つ。実際に、彼がサピエンスを観察すると、サピエンスは善悪を持つ。サピエンスはキリスト教系統の善悪や儒教系統の善悪を持つ。儒教徒は礼に反することを悪いと判断する。この観察は思考規範の結論に一致する。だから、サピエンスはx教系統の人間である。

儒教系統の思考規範 もしある主体がx教系統の人間であるならば、その主体は善悪を判断する。

正確には、もしある主体がx教系統の人間であるならば、その主体はx教系統の善悪を正しく判断する。対偶をとると、もしある主体が善悪の判断しないならば、その主体はx教系統の人間でない。例えば、太陽は善悪を判断しない。だから、太陽はx教系統の人間でない。同様に、犬は善悪を判断しない。だから、犬はx教系統の人間でない。

今、彼は次を仮定する。あるサピエンスはx教系統の人間である。上記の思考規範を使用すると、そのサピエンスは善悪を判断する。実際に、彼がサピエンスを観察すると、サピエンスは善悪を判断する。サピエンスはアメリカ大陸の多様性を悪いと判断する。この観察は思考規範の結論に一致する。だから、サピエンスはx教系統の人間である。

人間と認識

認識も人間を動物から区別する。動物は高度な認識を持たないので、彼らは母による児童虐待や人種的な侮辱を認識することができない。また、子供は侮辱や礼を認識できないので、彼らは他人の容姿を笑いながら馬鹿にしたりする。子供は性的な虐待も認識できないので、彼らは大人に何をされているのかも認識することができない。その他にも、痴呆老人は自己の息子を知覚するが、自己の息子を認識しない。新儒教の創造主は次を提示する。

儒教系統の思考規範 もしある主体がx教系統の人間であるならば、その主体は認識を持つ。

正確には、もしある主体がx教系統の人間であるならば、その主体はx教系統の認識を持つ。その主体は認識を持つはその主体には、x教系統の認識があるに近い。対偶をとると、もしある主体が認識を持たないならば、その主体はx教系統の人間でない。

例えば、太陽は自己の認識を持たない。だから、太陽はx教系統の人間でない。同様に、犬は自己の認識を持たない。だから、犬はx教系統の人間でない。ただし、正確には、犬は自己のより高度な認識を持たない。犬は飼い主を認識している。カラスも攻撃してきたサピエンスを認識する、かつ記憶する。その後、カラスはそのサピエンスを襲撃する。

今、彼は次を仮定する。あるサピエンスはx教系統の人間である。上記の思考規範を使用すると、そのサピエンスは認識を持つ。実際に、彼がサピエンスを観察すると、サピエンスは認識を持つ。サピエンスは西欧白人がアメリカ大陸やオセアニアで統治者を担っていることを白人帝国主義や植民地主義の継続と認識する。この観察は思考規範の結論に一致する。だから、サピエンスはx教系統の人間である。

人間と意味

意味も人間を動物から区別する。動物は物事の意味を認識することができない。例えば、大和民族は日本国憲法の意味を認識できないので、キリスト教系統の法体系がキリスト教の民族でない大和民族に適用されて、死刑に処されていることの意味を把握できない。また、大和民族の教師はハレルヤの意味を認識できないので、彼らは大和民族の生徒にハレルヤを歌わせる。

儒教系統の思考規範 もしある主体がx教系統の人間であるならば、その主体は意味を認識する。

正確には、もしある主体がx教系統の人間であるならば、その主体はx教系統の意味を認識する。認識するは把握するであるかもしれない。対偶をとると、もしある主体が意味を認識しないならば、その主体はx教系統の人間でない。例えば、太陽は意味を認識しない。だから、太陽はx教系統の人間でない。同様に、犬は意味を認識しない。だから、犬はx教系統の人間でない。

今、彼は次を仮定する。あるサピエンスはx教系統の人間である。上記の思考規範を使用すると、そのサピエンスは意味を認識する。実際に、彼がサピエンスを観察すると、サピエンスは意味を認識する。サピエンスはキリスト教系統の法体系がキリスト教の民族でない大和民族に適用されていることを宗教的な侮辱と認識する。サピエンスはその法体系での死刑を処刑でなく、単なる殺害行為と認識する。この観察は思考規範の結論に一致する。だから、サピエンスはx教系統の人間である。

人間と表現

誰も非自己の意識を直接的に把握することができない。そのため、ある主体はその主体が自己の意識を持っていることをある手段で表現する。x教系統の人間のみがそれを言語で表現する。この表現は人間を動物から区別する。新儒教の創造主は次を提示する。

儒教系統の思考規範 もしある主体がx教系統の人間であるならば、その主体は自己を表現する。

より正確には、もしある主体がx教系統の人間であるならば、その主体は自己の何かを表現する。この何かには、自己の意識は自己の宗教や自己の所属文明がある。対偶をとると、もしある主体が自己を表現しないならば、その主体はx教系統の人間でない。例えば、太陽は自己を表現しない。だから、太陽はx教系統の人間でない。同様に、犬は自己を表現しない。だから、犬はx教系統の人間でない。

今、彼は次を仮定する。あるサピエンスはx教系統の人間である。上記の思考規範を使用すると、そのサピエンスは自己を表現する。実際に、彼がサピエンスを観察すると、サピエンスは自己を表現する。サピエンスは自己の意識が存在することを彼らの言葉で表現する。この観察は思考規範の結論に一致する。だから、サピエンスはx教系統の人間である。

人間と自己

動物は自己を持っていない。または、動物は自己の何かを表現しない。一方、x教系統の人間は自己の何かを持ち、その何かを表現する。この認識を使用して、新儒教の創造主は次を提示する。

儒教系統の思考規範 もしある主体がx教系統の人間であるならば、その主体は自己を持つ。

場合により、自己はx教系統の自己である。対偶をとると、もしある主体が自己を持たないならば、その主体はx教系統の人間でない。例えば、太陽は自己を持たしない。だから、太陽はx教系統の人間でない。同様に、犬は自己を持たない。だから、犬はx教系統の人間でない。

今、彼は次を仮定する。あるサピエンスはx教系統の人間である。上記の思考規範を使用すると、そのサピエンスは自己を持つ。実際に、彼がサピエンスを観察すると、サピエンスは自己を持つ。サピエンスは自己の意識が存在することを彼らの言葉で表現する。サピエンスは自己の認識や自己の善悪や自己の判断を持つ。この観察は思考規範の結論に一致する。だから、サピエンスはx教系統の人間である。

人間と人格

x教系統の人間は明確な人格を持つ。それに対して、アリのような虫は人格を持っていないように見える。愛玩動物である犬はその中間であり、それぞれの犬は少なくともそれぞれの性格を持っている。一方で、人間は政治信条や宗教や歴史観といったより強い人格を持っている。この認識を使用して、新儒教の創造主は次を提示する。

儒教系統の思考規範 もしある主体がx教系統の人間であるならば、その主体は人格を持つ。

場合により、人格はx教系統の人格である。対偶をとると、もしある主体が人格を持たないならば、その主体はx教系統の人間でない。例えば、太陽は人格を持たない。だから、太陽はx教系統の人間でない。同様に、犬は人格を持たない。だから、犬はx教系統の人間でない。ただし、犬の場合、それは人間と同じような人格を持たない。

今、彼は次を仮定する。あるサピエンスはx教系統の人間である。上記の思考規範を使用すると、そのサピエンスは人格を持つ。実際に、彼がサピエンスを観察すると、サピエンスは人格を持つ。例えば、歴史上の偉人はそれぞれの強い個性を持つので、人々は固有の人格を彼らの中に見ている。この観察は思考規範の結論に一致する。だから、サピエンスはx教系統の人間である。

物質と動物と人間の組

x教系統の人間は目的的に運動する。x教系統の人間は非自動的に運動する。同時に、x教系統の人間の運動のほとんどは自動的である。新儒教の創造主は動物を物質的なものと動物的なものと人間的なものの組と認識する。

儒教系統の認識 動物は物質的なものと動物的なものと人間的なものの組である。

言い換えると、彼は動物を物質的なものと動物的なものと人間的なものの組と認識する。x教系統の人間は動物であるか、x教系統の人間は動物であるかでなく、x教系統の人間は物質的な性質と動物的な性質と人間的な性質の両方を持つ。人間的なものは人間性である。正確には、x教系統の人間的なものはx教系統の人間性である。

人間と目的意志

物質は自動的に運動する。動物は非自動的に運動する。x教系統の人間は目的的に運動する。動物は自由意志を持っているので、動物は非自動的に運動することができる。x教系統の人間は目的意志を持っているので、x教系統の人間は目的的に運動することができる。新儒教の創造主はそのように解釈する。彼は次を提示する。

儒教系統の認識 x教系統の人間は目的意志を持つ。

言い換えると、x教系統の人間は自動的な運動や非自動的な運動を目的的な運動に変化させる。人間と運動における思考規範によって、x教系統の人間は目的的に運動する。

さらに、物質と動物と人間の組みを使用すると、x教系統の人間は物質的なものと動物的なもののと人間的なもの組である。つまり、x教系統の人間は自動的に運動する性質と非自動的に運動する性質と目的的に運動する性質を持つ。彼の認識では、x教系統の人間は自己の自動的な運動や非自動的な運動を目的的な運動に変化させる。だから、x教系統の人間は目的意志を持つ。なお、以上は感覚的な話であり、厳密な証明でない。

人間と時間

x教系統の人間は時間を動物よりも認識する。彼らは彼ら自身の過去や未来を認識する。一方、動物は長期的な過去や未来を認識していない。具体的には、彼らは100年後や1000年後について思考しない。彼らは子孫のことを考えない。一方、x教系統の人間は100年後や1000年後や彼らの子孫について思考する。この認識を使用して、新儒教の創造主は次を提示する。

儒教系統の思考規範 もしある主体がx教系統の人間であるならば、その主体は時間を認識する。

正確には、もしある主体がx教系統の人間であるならば、その主体は長期的な時間を正確に認識する。対偶をとると、もしある主体が時間を認識しないならば、その主体はx教系統の人間でない。例えば、太陽は時間を認識しない。だから、太陽はx教系統の人間でない。同様に、犬は長期的な時間を認識しない。だから、犬はx教系統の人間でない。

今、彼は次を仮定する。あるサピエンスはx教系統の人間である。上記の思考規範を使用すると、そのサピエンスは時間を認識する。実際に、彼がサピエンスを観察すると、サピエンスは時間を認識する。例えば、統治者は100年後の日本国を認識して、彼らはそれについて考える。この観察は思考規範の結論に一致する。だから、サピエンスはx教系統の人間である。

人間と服

x教系統の人間のみが服を着ている。彼らのみは彼らの服を彼ら自身で製造して、彼らはその服を着ている。一方、動物は皆裸である。この認識を使用して、新儒教の創造主は次を提示する。

儒教系統の思考規範 もしある主体がx教系統の人間であるならば、その主体は服を着る。

正確には、もしある主体がx教系統の人間であるならば、その主体はその主体の服を製造する、かつ服を着る。たとえば、犬や猫も服を着せられている。対偶をとると、もしある主体が服を着るならば、その主体はx教系統の人間でない。例えば、太陽は服を着ない。だから、太陽はx教系統の人間でない。同様に、犬は服を着ない。だから、犬はx教系統の人間でない。

今、彼は次を仮定する。あるサピエンスはx教系統の人間である。上記の思考規範を使用すると、そのサピエンスは服を着る。実際に、彼がサピエンスを観察すると、サピエンスは服を着る。例えば、岸田文雄は服を着る。この観察は思考規範の結論に一致する。だから、サピエンスはx教系統の人間である。

人間と言語

x教系統の人間のみが言語を使用する。一方、動物は言語のような言語未満を使用する。チンピラはきちんとした言語を使用することができない。この認識を使用して、新儒教の創造主は次を提示する。なお、言語と言葉の違いはここでは不明である。

儒教系統の思考規範1 もしある主体がx教系統の人間であるならば、その主体は言語を使用する。

対偶をとると、もしある主体が言語を使用するならば、その主体はx教系統の人間でない。例えば、太陽は言語を使用しない。だから、太陽はx教系統の人間でない。同様に、犬は言語を使用しない。だから、犬はx教系統の人間でない。ただし、犬はわんわんと吠えたり、遠吠えをしたり、言語未満の何かを使用する。鳥も同様である。言語の起源は鳥である可能性がある。

今、彼は次を仮定する。あるサピエンスはx教系統の人間である。上記の思考規範を使用すると、そのサピエンスは言語を使用する。実際に、彼がサピエンスを観察すると、サピエンスは言語を使用する。例えば、アングロサクソンは言語を使用する。この観察は思考規範の結論に一致する。だから、サピエンスはx教系統の人間である。

儒教系統の思考規範2 もしある主体がx教系統の人間であるならば、その主体は文字を使用する。

文字の使用は言語よりも人間的である。対偶をとると、もしある主体が文字を使用するならば、その主体はx教系統の人間でない。例えば、太陽は文字を使用しない。だから、太陽はx教系統の人間でない。同様に、犬は文字を使用しない。だから、犬はx教系統の人間でない。鳥も同様である。犬も鳥も言語未満を使用するが、文字を使用しない。文字の使用はx教系統の人間のみである。

今、彼は次を仮定する。あるサピエンスはx教系統の人間である。上記の思考規範を使用すると、そのサピエンスは文字を使用する。実際に、彼がサピエンスを観察すると、サピエンスは文字を使用する。例えば、シュメール人は文字を使用した。この観察は思考規範の結論に一致する。だから、サピエンスはx教系統の人間である。

人間と自己認識

x教系統の人間は自己を認識する。彼らは自己の人種や自己の民族、自己の性、自己の国籍や自己の宗教や自己の文明や自己の歴史を認識する。それに対して、動物は自己の何かを認識しない。この認識を使用して、新儒教の創造主は次を提示する。なお、言語と言葉の違いはここでは不明である。

儒教系統の思考規範 もしある主体がx教系統の人間であるならば、その主体は自己を認識する。

言い換えると、もしある主体がx教系統の人間であるならば、その主体はx教系統の自己認識を持つ。対偶をとると、もしある主体が自己を認識するならば、その主体はx教系統の人間でない。例えば、太陽は自己を認識しない。だから、太陽はx教系統の人間でない。同様に、犬は自己を認識しない。だから、犬はx教系統の人間でない。

今、彼は次を仮定する。あるサピエンスはx教系統の人間である。上記の思考規範を使用すると、そのサピエンスは自己を認識する。実際に、彼がサピエンスを観察すると、サピエンスは自己を認識する。例えば、彼は自己の人種をモンゴロイド人種と認識する。この観察は思考規範の結論に一致する。だから、サピエンスはx教系統の人間である。

人間と宗教

x教系統の人間のみが宗教を持つ。動物は宗教を持たない。x教系統の人間のみが神や創造主を信仰する。この認識を使用して、新儒教の創造主は次を提示する。なお、無宗教や原初的な信仰も宗教の一つであると仮定する。動物は原初的な信仰すら持たない。

儒教系統の思考規範 もしある主体がx教系統の人間であるならば、その主体は宗教を持つ。

対偶をとると、もしある主体が宗教を持つならば、その主体はx教系統の人間でない。例えば、太陽は宗教を持たない。だから、太陽はx教系統の人間でない。同様に、犬は宗教を持たない。だから、犬はx教系統の人間でない。

今、彼は次を仮定する。あるサピエンスはx教系統の人間である。上記の思考規範を使用すると、そのサピエンスは宗教を持つ。実際に、彼がサピエンスを観察すると、サピエンスは宗教を持つ。例えば、中東人はイスラム教を持つ。この観察は思考規範の結論に一致する。だから、サピエンスはx教系統の人間である。

人間と社会

x教系統の人間はx教系統の社会を形成する。動物は群れを形成する。しかし、動物はx教系統の社会を形成しない。そのため、動物は儒教系統の社会に入ってきても、彼らはその現実を認識することができない。この認識を使用して、新儒教の創造主は次を提示する。

儒教系統の思考規範 もしある主体がx教系統の人間であるならば、その主体は社会を形成する。

もしある主体がx教系統の人間であるならば、その主体はx教系統の社会を形成する。対偶をとると、もしある主体がx教系統の社会を形成するならば、その主体はx教系統の人間でない。例えば、太陽はx教系統の社会を形成しない。だから、太陽はx教系統の人間でない。同様に、犬はx教系統の社会を形成しない。だから、犬はx教系統の人間でない。

今、彼は次を仮定する。あるサピエンスはx教系統の人間である。上記の思考規範を使用すると、そのサピエンスは社会を形成する。実際に、彼がサピエンスを観察すると、サピエンスは社会を形成する。例えば、中東人はイスラム教系統の社会を形成する。この観察は思考規範の結論に一致する。だから、サピエンスはx教系統の人間である。

人間と責任

責任は応答義務である。動物は自己の行為に対する応答義務を果たさない。彼らは常にひき逃げを繰り返す。それに対して、x教系統の人間のみが応答義務を果たす。この認識を使用して、新儒教の創造主は次を提示する。なお、応答義務はx系統の応答義務である。

儒教系統の思考規範 もしある主体がx教系統の人間であるならば、その主体は応答義務を果たす。

または、もしある主体がx教系統の人間であるならば、その主体は応答義務を持つ。対偶をとると、もしある主体が応答義務を持たないならば、その主体はx教系統の人間でない。例えば、太陽はx教系統の応答義務を持たない。だから、太陽はx教系統の人間でない。同様に、犬はx教系統の応答義務を持たない。だから、犬はx教系統の人間でない。

今、彼は次を仮定する。あるサピエンスはx教系統の人間である。上記の思考規範を使用すると、x教系統の人間は応答義務を果たす。実際に、彼がx教系統の人間を観察すると、x教系統の人間は応答義務を果たす。例えば、キリスト教系統の西欧白人は原子力爆弾に関する応答義務を果たす。この観察は思考規範の結論に一致する。だから、キリスト教系統の西欧白人はx教系統の人間である。

人間と後始末

動物が糞をした後、彼らはその糞を後始末しない。言い換えると、動物は後片付けをしない。一方、x教系統の人間は彼ら自身の尿や糞を後始末する。彼らは糞を後片付けして、元通りにする。このように後始末の有無はx教系統の人間を動物から区別する。この認識を使用して、創造主は次を提示する。

儒教系統の思考規範 もしある主体がx教系統の人間であるならば、その主体は後片付けする。

または、もしある主体がx教系統の人間であるならば、その主体は後片付け能力を持つ。対偶を取ると、もしある主体が後片付け能力を持たないならば、その主体はx教系統の人間でない。例えば、太陽は後片付け能力を持たない。だから、太陽はx教系統の人間でない。同様に、犬は後片付け能力を持たない。だから、犬はx教系統の人間でない。なお、後片付けは基本的には、自己の行為によって生じた現象を後片付けすることである。

今、彼は次を仮定する。あるサピエンスはx教系統の人間である。上記の思考規範を使用すると、x教系統の人間は後片付けする。実際に、彼がx教系統の人間を観察すると、x教系統の人間は彼らの尿や糞を後片付けする。例えば、儒教系統の東洋人は彼らのゴミを後片付けする。そのため、彼らが作る社会は綺麗である。この観察は思考規範の結論に一致する。だから、儒教系統の東洋人ははx教系統の人間である。

人間と道具

人類学では、人間は道具を扱うとされる。なぜなら、道具は人間を動物から区別する。道具には、石器や弓矢、青銅器があった。しかし、チンパンジーやカラスのような動物も道具を扱う。そこで、新儒教の創造主は次を提示する。

儒教系統の思考規範 もしある主体がx教系統の人間であるならば、その主体は道具を正しく使用する。

正しくはうまく、または上手にである。対偶をとると、もしある主体が道具を正しく使用しないならば、その主体はx教系統の人間でない。例えば、太陽は道具を正しく使用しない。だから、太陽はx教系統の人間でない。同様に、犬は道具を正しく使用しない。だから、犬はx教系統の人間でない。ただし、より現実的には、犬は人間よりも道具をうまく扱えない。

今、彼は次を仮定する。あるサピエンスはx教系統の人間である。上記の思考規範を使用すると、x教系統の人間は道具を正しく使用する。実際に、彼がx教系統の人間を観察すると、x教系統の人間は道具を正しく使用する。例えば、キリスト教系統の西欧白人は電子計算機や言語、宗教を道具としてうまく扱っている。この観察は思考規範の結論に一致する。だから、キリスト教系統の西欧白人はx教系統の人間である。

なお、一部のサピエンスは言語や宗教を正しく扱えない。言語は言葉である。彼らは日本人という単語を大和民族と日本国民という意味で混同させて使用する。また、彼らはカタカナ用語を無意味に使用する。なぜなら、彼らは言葉を扱えない。

宗教に関しても、同様である。一部のサピエンスは、彼ら自身がキリスト教徒でないのにも関わらず、キリスト教とユダヤ教と儒教の都合の良い部分をぐちゃぐちゃに混ぜて使用する。彼らは彼らの自身の社会を形成するとき、彼らは自己の宗教を整合的に正しく使用することができない。

4章 創造主と人間性

人間性

上記では、人間は物質的なものと動物的なものと人間的なものの組みであった。人間的なものは人間性であった。ここでは、新儒教の創造主は人間を人間性のみを使用して、提示する。

儒教系統の思考規範 もしある主体がx教系統の人間であるならば、その主体はx教系統の人間性を持つ。

日常的に言い換えると、x教系統の人間はサピエンスである、かつそのサピエンスはx教系統の人間性を持つ。対偶をとると、もしある主体がx教系統の人間性を持たないならば、その主体はx教系統の人間でない。例えば、太陽はx教系統の人間性を持たない。だから、太陽はx教系統の人間でない。同様に、犬はx教系統の人間性を持たない。だから、犬はx教系統の人間でない。

今、彼は次を仮定する。あるサピエンスはx教系統の人間である。上記の思考規範を使用すると、そのサピエンスはx教系統の人間性を持つ。実際に、彼がサピエンスを観察すると、サピエンスはx教系統の人間性を持つ。例えば、中東人はイスラム教系統の人間性を持つ。この観察は思考規範の結論に一致する。だから、サピエンスはx教系統の人間である。

創造主と人間性

人間性は自然界には埋め込まれていない。そのため、ある主体が人間性を人工的に創造する必要がある。ここでは、新儒教の創造主は創造主による人間性の創造を提示する。

儒教系統の認識 創造主がx教系統の人間性を創造する。

例えば、新儒教の創造主は新儒教系統の人間性を創造する。イエス・キリスト、またはキリスト教の創造主がキリスト教系統の人間性を創造する。釈迦が仏教系統の人間性を創造する。

儒教系統の認識 創造主がx教系統の人間性をx教徒に授ける。

例えば、新儒教の創造主は新儒教系統の人間性を新儒教徒に授ける。イエス・キリスト、またはキリスト教の創造主がキリスト教系統の人間性をキリスト教徒に授ける。釈迦が仏教系統の人間性を仏教徒に授ける。

人間性の剥奪

創造主はx教系統の人間性を創造して、その人間性をx教徒に授ける。その時、サピエンスはサピエンスという動物からx教徒という人間になる。ただし、この人間性は創造主の存在に依存する。創造主が滅亡するとき、x教系統の人間性もx教徒から剥奪される。

儒教系統の思考規範 もし創造主階級が滅亡するならば、x教系統の人間性はx教系統の人間から奪われる。

そのとき、x教系統の人間はサピエンスに戻る。例えば、もし天皇が滅亡するならば、天皇によって授けられた人間性もまた大和民族から剥奪される。そして、大和民族は単なるサピエンスになる。そのとき、たとえ大和民族が破壊されるとしても、その行為は殺人行為でなく、殺サピエンスである。

人間観に関する思考規範

日本モンゴロイド人の雌は彼女らの子供をまるでおもちゃやブランド品のように扱う。彼女らは彼女らの子供を人間と認識していない。なぜなら、彼女らはある宗教系統の人間観を持っていない。そこで、創造主は次のような思考規範を提示する。

思考規範1 もしある主体がある宗教系統の人間観を持たないならば、その主体は任意の対象を人間と認識しない。

ある主体を日本モンゴロイド人の雌と置く。この時、もし日本モンゴロイド人の雌がある宗教系統の人間観を持たないならば、その主体は任意の対象を人間と認識しない。任意の対象には、彼女の子供が含まれる。この時、日本モンゴロイド人の雌は彼女の子供を人間と認識しない。

ある主体が自己の宗教系統の人間観を持たないことは、その主体が受精卵や胎児が人間であるのかを考えないことである。それはその主体が痴呆老人や重度の知的障害者が人間であるのかを考えないことである。それはその主体が動物が人間であるのか、人間でないのかを考えないことである。

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