以下では、人間界の創造主は儒教系統の人間観を創造する。宗教や文明が異なると、何が人間であるのかが異なる。例えば、牧畜民族やアブラハムの宗教では、人間とそうでないものは知能によって区別されているように見える。つまり、知能が人間を動物から区別する。
また、古代地中海文明では、自由意志が人間を動物から区別すると考えられてきたように思える。つまり、人間のみが自由であり、人間でないものは自動的に運動する。自由であることは人間であることである。
あるいは、宗教が人間とそうでないものを区別した。例えば、西欧キリスト教徒でないものは人間でないので、奴隷にして良いという考えが存在した。この考えは黒人奴隷やモンゴロイド人奴隷を導いた。イスラム教でも類似した考えが存在したように思える。以下では、人間界の創造主は儒教系統の人間観を提示する。
1節 儒教系統の動物
【動物観の系統性】
彼は次を信仰する。
(1)x教系統の動物はx教徒が信仰する動物である。
(2)儒教系統の動物は儒教徒が信仰する動物である。
何を動物とするのかは宗教によって異なる。現実的にも、犬や猫を人間のように扱うサピエンスは存在する。
【儒教系統の動物】
彼は次を信仰する。彼は「もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が信仰するのは」を省略する。
(1)儒教系統の動物は対象である、かつそれは意識を持つ、かつ非自動的に運動する。
(2)儒教系統の動物は対象である、かつそれは意識を持つ。
(3)儒教系統の動物は対象である、かつそれは非自動的に運動する。
上記の(1)は強い定義である。上記の(2)と(3)は弱い定義である。例えば、ウイルスは動物(anima)でない。一方、昆虫は動物である。彼は動物を意識の有無と非自動的な運動で認識する。
【動物的なものの連続性】
彼は次を信仰する。
(1)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が信仰するのは動物性は連続的である。
動物性は0か1でない。例えば、昆虫は哺乳類よりも機械的に運動しているように見える。
【動物と自由意志】
彼は次を信仰する。彼は「もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が認識するのは」を省略する。
(1)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が認識するのは動物は自己の自動的な運動を非自動的な運動に変化させている。
動物は自由意志を持つ。動物は非自動力を持つ。
【動物の目的性】
彼は次を信仰する。
(1)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が認識するのは高等動物の一部は目的的に運動する。
(2)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が認識するのは動物の目的的な運動は連続的である。
例えば、ライオンの狩は目的的である。カラスが木ノ実を道路の上に置いて、車にひかせようとするのも目的的である。そして、その目的的な運動は0か1でなく、連続的である。より高等な度物は目的的に運動しているように見える。
【サピエンス】
彼は次を決める。
(1)サピエンスは動物である。
サピエンスそれ自体はx教系統の人間でない。
【動物の性】
彼は次を認識する。
(1)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が認識するのは動物のオス及びメスが存在する。
(2)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は動物の性を認識する。
(3)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は動物のオスを認識する。
(4)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は動物のメスを認識する。
彼は動物のオスを認識する。彼は動物のメスを認識する。
【性と存在及び状態、運動の系統性】
彼は次を認識する。
(1)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は動物のオス系統の存在及びメス系統の存在を認識する。
(2)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は動物のオス系統の状態及びメス系統の状態を認識する。
(3)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は動物のオス系統の運動及びメス系統の運動を認識する。
彼は上記を現象へと拡張する。例えば、オス系統の非自動的な運動と目的的な運動が存在する。状態では、肉体の形や筋肉が異なるので、オス系統の状態が存在する。サピエンスを観察するとわかるように、オス系統の運動が存在する。
【野生動物と家畜】
彼は次を信仰する。
(1)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は野生動物を認識する。
(2)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は家畜を認識する。
(3)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は愛玩動物を認識する。
動物には、野生動物と家畜が存在する。さらに、愛玩動物が存在する。愛玩動物には、猫と犬が存在する。家畜には、牛や豚、馬が存在する。昆虫では、蚕が存在する。
【動物の中の人】
彼は次を信仰する。
(1)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が信仰するのは、動物の中の人が存在する。
動物にも、中の人が存在する。正確には、動物の肉体にも、中の人が存在する。ただし、外部はその中の人を把握することができない。おそらく、昆虫にもその視界を把握する主体、つまり中の人が存在するだろう。
2節 儒教系統の人間
【人間観に関する思考規範】
彼は人間観に関する思考規範を次のように信仰する。
(1)もしある主体が任意の人間観を持たないならば、その主体は任意の対象を人間と認識しない。
例えば、動物は任意の人間観を持っていない。この時、動物はこの世の全てを人間と認識しない。ある主体が自己の人間観を持たないことはその主体が誰も人間と認識しないことである。
【x教系統の人間】
彼は次を信仰する。
(1)x教系統の人間はx教系統の人間性を持つ主体である。
(2)x教系統の人間はx教系統の人間性を設計者によって授けられた主体である。
(3)x教系統の人間はx教系統の人間競技に所属する、かつその競技を競技する主体である。
上記の主体は中の人である。日常的には、x教系統の人間はx教系統の人間性を持つサピエンスやそれに類似するヒトである。より日常的には、x教系統の人間はx教徒である。または、(3)の考えでは、人間とはある系統の人間競技をちゃんと競技している主体である。
【サピエンスとx教系統の人間】
彼は次を信仰する。
(1)サピエンスは動物である。
(2)サピエンスはx教系統の人間でない。
なお、サピエンスと人間は区別される。サピエンスは服を着ていないが、x教系統の人間は服を着ている。サピエンスは言葉を使用しないが、x教系統の人間は言葉を使用する。サピエンスは善悪を持たないが、x教系統の人間はx教系統の善悪を持つ。
【西欧文明系統の人間観】
彼は西欧文明系統の人間観を次のように認識する。
(1)西欧文明における人間は、基本的には、西欧キリスト教系統の人間である。
(2)もしある主体が人間であるならば、その主体は自由意志を持つ。
(3)西欧文明における人間観は牧畜民族的である。
自由意志が人間を動物から区別する。西欧文明では、奴隷の存在が前提とされている。それは牧畜では、野生動物でなく、家畜の存在が前提とされていることに似ている。また、奴隷は自由でないので、自由であることが人間とそうでないものを区別している。家畜も自由でない。ここに、キリスト教系統の人間観が乗っている。
(4)西欧文明における人間観は動物か人間かのどちらかである。
西欧文明における人間観では、人間は動物でない。そのため、性欲それ自体が動物的であると否定される。そこでは、ある主体が人間であることと動物であることは同時には成り立たない。これは0か1のようであり、機械的である。
【儒教系統の人間】
彼は次を信仰する。彼は「もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が信仰するのは」を省略する。
(1)新儒教系統の人間はある主体である、かつそれは新儒教系統の人間性を持つ。
(2)儒教系統の人間は物質性を持つ肉体とサピエンス(モンゴロイド人種)系統の動物性を持つ感覚と儒教系統の人間性を持つ主体との組みである。
上記の主体は中の人である。比喩的には、設計者が新儒教系統の人間性をサピエンスに導入して、人間を設計する、または人間を泥からでなくサピエンスから創造する。物質性は機械性でも良い。ある種系統の動物性はサピエンスである。つまり、儒教系統の人間は物質的なものと動物的なものと人間的なものの組みである。動物性と人間性は対立せずに、組となる。
(3)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は新儒教系統の人間性を持つ。
(4)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は物質性を持つ肉体とサピエンス(モンゴロイド人種)系統の動物性を持つ感覚と儒教系統の人間性を持つ主体との組みである。
【人間の本質】
彼は次を信仰する。彼は「もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が信仰するのは」を省略する。
(1)より強い目的意志及び目的力(実現力)は儒教系統の人間を動物から区別する。
(2)目的的な存在と目的的な状態、そして目的的な運動が儒教系統の人間を動物から区別する。
目的は人間を動物から強く区別する。人間を動物から区別するのは自由でなく目的である。ただし、肉食動物の狩は目的的である。人間の運動は最も目的的である。だから、最も強い目的が人間を動物から区別する。なお、東洋文明における儒教では、自由は人間を動物から区別しない。なぜなら、彼は野生動物の運動は自動的でなく、非自動的、つまり自由であると認識する。
(3)表現された目的は儒教系統の人間を動物から区別する。
日常的には、言語的に表現された目的は人間を動物から区別する。なぜなら、人間のみが言葉を扱う。ライオンやカラスも目的的に運動する。しかし、彼らはその目的を表現していない。
(4)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は目的意志及び目的力(実現力)を持つ。
(5)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は目的的な存在である、かつその主体は目的的な状態である、かつ目的的に運動する。
(6)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は表現された目的を持つ。
【動物からの人間の区別】
彼は次を認識する。彼は「もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が認識するのは」を省略する。
(1)x教系統の善悪を持つ主体はx教系統の人間を動物から区別する。
(2)x教系統の認識を持つ主体はx教系統の人間を動物から区別する。
善悪や人間も人間を動物から区別する。特に、人間はよりはっきりとした善悪と判断、そして認識をもち、それらを彼らの言葉で表現する。一方、動物は善悪を持たないので、善悪を判断せず、ぼんやりとした認識のみを持っている。さらに、動物は善悪や認識を表現しない。
(3)表現された善悪は儒教系統の人間を動物から区別する。
(4)表現された認識は儒教系統の人間を動物から区別する。
【人間と自己認識】
彼は次を信仰する。彼は「もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が認識(または信仰する)するのは」を省略する。(2)以降は認識でなく信仰である。
(1)x教系統の人間は自己認識能力を持つ。
(2)もしある主体が儒教系統の人間であるならば、その主体は自己認識能力を持つ。
または、x教系統の人間は自己を認識している。例えば、動物とx教系統の人間との違いには、自己を認識するのか(self-aware/ness)が存在する。動物は自己を認識していない。例えば、猿は彼ら自身を猿と認識しない。猿は自己を彼らの言葉で表現しない。一方、x教系統の人間は自己をサピエンスと認識している。そして、彼らはその自己を彼らの言葉で表現する。
(3)もしある主体が儒教系統の人間であるならば、その主体は人工及び自然に関する自己認識能力を持つ。
(4)もしある主体が儒教系統の人間であるならば、その主体は人工及び自然に関する儒教系統の自己認識を持つ。
人工や自然に関する自己認識には、人種や民族や宗教や文明が存在する。例えば、その男性は自己の人種をモンゴロイド人種と認識する。その男性は自己の小人種を東洋小人種と認識する。その男性は自己の民族を大和民族と認識する。その男性は自己の宗教を儒教徒と認識する。その男性は自己の所属文明を東洋文明と認識する。
【人間と表現】
彼は次を認識する。彼は「もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が認識するのは」を省略する。
(1)もしある主体が儒教系統の人間であるならば、その主体は自己のxを表現する。
(2)x教系統の表現はx教系統の人間を動物から区別する。
表現はx教系統の人間を動物から区別する。彼はx教系統の表現を考える。つまり、x教系統の表現はx教系統の人間を動物から区別する。儒教系統の表現は儒教系統の人間を動物から区別する。実際、動物は自己の何かを表現しない。彼らは自己の意識や自己の中の人を持っているかもしれない。しかし、彼らはその何かを表現しない。人間のみが自己の何かを表現する。
【人間の自己認識の表現】
彼は次を信仰する。彼は「もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が信仰するのは」を省略する。
(1)もしある主体が彼らの正確な自己を彼らの言葉で表現するならば、その主体は自己認識能力を持つ。
(2)もしある主体が彼らの正確な自己を彼らの言葉で表現するならば、その主体は人工及び自然に関する儒教系統の自己認識を持つ。
例えば、「俺は俺自身をモンゴロイド人種と認識する。」が存在する。「俺は俺自身が東洋文明に所属していると認識する。」が存在する。表現の形式は「俺は俺のaをbと認識する。」と「俺は俺自身がbであると認識する。」である。
【人間と判断】
彼は次を信仰する。彼は「もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が信仰するのは」を省略する。
(1)もしある主体が儒教系統の人間であるならば、その主体は判断能力を持つ。
例えば、動物とx教系統の人間との違いには、善悪の判断を下せるのか(good and evil, judge)が存在する。動物は善悪を持たない。そして、動物は善悪の判断を下すことができない。一方、x教系統の人間はその系統の善悪を持ち、善悪の判断を下す。
【人間と判断の表現】
彼は次を信仰する。彼は「もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が信仰するのは」を省略する。
(1)もしある主体が善悪の判断を彼らの言葉で表現するならば、その主体は判断能力を持つ。
例えば、「俺はナチスを悪いと儒教系統の善悪で判断する。」が存在する。「俺はアメリカ大陸の多様性を悪いと儒教系統の善悪で判断する。」が存在する。
【意識及び中の人の表現】
彼は次を信仰する。彼は「もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が信仰するのは」を省略する。
(1)もしある主体が「俺は自己の意識を把握している。」と表現しないならば、その主体は自己の意識を持っていない。
(2)もしある主体が「俺は自己の中の人を把握している。」と表現しないならば、その主体は自己の意識を持っていない。
現実的には、彼はその意識や中の人を人間社会には所属していないと信仰する。彼が所属を存在と認識するとき、その意識や中の人は人間社会には存在していない。言い換えると、次が存在する。
(3)もしある主体が「俺は自己の意識を把握している。」と表現しないならば、その主体の意識は儒教系統の社会、またはx教系統の社会に所属していない。
(4)もしある主体が「俺は自己の中の人を把握している。」と表現しないならば、その主体の中の人は儒教系統の社会、またはx教系統の社会に所属していない。
ある主体の意識が儒教系統の社会に所属していないとは、その意識が儒教系統の社会には存在しないことである。主体も同様である。分析的には、たとえある主体が自己の意識や主体を表現しなかったとしても、彼らの反応を見ると、彼らは意識や主体を持っている可能性がある。しかし、自己の意識や主体の存在を表現しないならば、意識や主体は人間社会には存在しない。
これは次に似ている。たとえある主体が言論の自由や民主制について語り、西欧文明に所属しているように装うとしても、もしその主体が「俺は西欧文明に所属している。」と表現しないならば、第三者はその主体が西欧文明に所属していると認識する必要がない。その第三者は白人と対峙したくないが、西欧文明に関する責任を負いたくないので、文明的な所属を誤魔化すという匂わせに付き合う必要はない。
【認識及び判断の表現と存在】
彼は次を信仰する。彼は「もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が信仰するのは」を省略する。
(1)もしある主体が自己の認識と表現しないならば、彼はその主体は自己の認識を持っていない。
(2)もしある主体が自己の判断を表現しないならば、彼はその主体の自己の判断を持っていない。
(3)もしある主体が自己の意志を表現しないならば、彼はその主体は自己の意志を持っていない。
(4)もしある主体が自己の目的を表現しないならば、彼はその主体の自己の目的を持っていない。
(5)しある主体が自己のxを表現しないならば、彼はその主体の自己のxを持っていない。
考え方は上記と同様である。たとえある主体がアメリカ先住民と同じモンゴロイド人種であるとしても、もしその主体が「俺は俺の人種をモンゴロイド人種と認識する」と表現しないならば、白人はその主体がモンゴロイド人と認識する必要がない。実際、大和民族を含む東洋人は自己の人種を白人に伝達しないので、誰も彼らをアメリカ先住民と関連づけようとしない。アメリカ先住民と同じ、または近縁種のモンゴロイド人が存在しないものとなっている。
同様に、もしある主体が自己の意識や主体を把握しているならば、その主体は「俺は自己の主体を把握している。」と「俺は自己の意識を把握している。」と表現する。このとき、その主体と意識は儒教系統の社会、またはx教系統の社会に所属する。当然、自然科学を含む分析では、他者も意識や主体を持っている可能性が高いと結論づけられるだろう。ただ、人間社会では、この可能性は対峙及び責任回避のための文明的な所属の誤魔化しと同じである。彼らは意識や主体を持っているように振舞っているだけである。
【中の人を仮定しない場合における動物と人間の違い】
彼は次を信仰する。彼は「もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が信仰するのは」を省略する。
(1)もしある儒教徒が上記の「人称に関する思考規範」を信仰するならば、人間の感覚(意識)は動物の意識と異なる。
この時、x教系統の人間は動物でない。善悪や人間性を創造する感覚こそが人間であることを示す。その感覚こそが人間である。人間の感覚が特別である。または、その感覚を作る物質が特別である。例えば、サピエンスの視界が人間性の象徴である。
【中の人を仮定する場合における動物と人間の違い】
彼は次を信仰する。彼は「もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が信仰するのは」を省略する。
(1)もしある儒教徒が上記の「人称に関する思考規範」を信仰するならば、人間の中の人は動物の中の人と異なる。
(2)もしある儒教徒が上記の「人称に関する思考規範」を信仰しないならば、人間の中の人は動物の中の人と異なるのかは不明である。
上記の(2)の場合、人間と動物では、中の人は互いに等しいが、肉体が異なる場合がある。この時、動物の中の人も善悪の判断を下す能力を持つが、肉体の制約のために、その中の人は判断を下せない可能性がある。この時、動物を破壊することは人間を破壊することと同じである。
【人間と社会】
彼は次を信仰する。彼は「もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が認識するのは」を省略する。
(1)もしある主体が儒教系統の人間であるならば、その主体は未来予想能力を持つ。
(2)もしある主体が儒教系統の人間であるならば、その主体は過去認識能力を持つ。
または、その主体は未来を予想する。その主体は過去を認識する。例えば、動物は長期的な未来を予想できない。一方、x教系統の人間はその未来を予想する。また、動物は過去を認識しない。一方、x教系統の人間は過去を認識する。そのため、x教系統の人間は先祖を認識する。動物は先祖を認識しない。
例えば、ある日本モンゴロイド人の雌が「せっかく、白人と結婚したのに、アジア人みたいな子が生まれてきた。」とひどく驚いて発言小町に投稿する。この種の動物は自己の人種と単純な未来すら予想できない。だから、彼女はモンゴロイド人が白人と結婚して、子供を産むと、半分アジア人のような子供が生まれてくることを認識、予想できない。
(3)もしある主体が過去を彼らの言葉で表現するならば、その主体は過去認識能力を持つ。
(4)もしある主体が過去を表現しないならば、その主体は過去を認識していないと信仰する。
(5)もしある主体が未来を彼らの言葉で表現するならば、その主体は未来予想能力を持つ。
(6)もしある主体が未来を表現しないならば、その主体は未来を認識していない。
【人間と社会】
彼は次を信仰する。彼は「もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が認識するのは」を省略する。
(1)もしある主体が儒教系統の人間であるならば、その主体は(x教系統の)社会認識能力を持つ。
(2)もしある主体がx教系統の社会を彼らの言葉で表現するならば、その主体は(x教系統の)社会認識能力を持つ。
(3)もしある主体がx教系統の社会を表現しないならば、その主体はx教系統の社会を認識していない。
例えば、犬や猫や鳥はサッカーという競技やサッカー系統の社会を認識していない。そのため、彼らはサッカーの試合中に試合の中に入り込んでくる。さらに、彼らは彼ら自身が試合に入り込んだことを認識していない。なぜなら、動物は社会それ自体を認識していない。
同様に、白人と結婚したモンゴロイド人の雌は白人の夫や中間種の子供を見せびらかすために、儒教系統の社会にわざわざ入ってくる。そして、彼女はキリスト教やユダヤ教の考えを披露して、「日本は駄目。それに対して、欧米では~」と披露する。なぜなら、彼女らもまた儒教系統の社会を認識できない。
なお、この社会は国家や文明や宗教、地域にも一般化される。東洋文明の中で、西洋文明ごっこを実行することは、サッカーの試合中に入り込んでくる動物と同じである。仏教の寺院でキリスト教ごっこをすることは、サッカーの試合中に入り込んでくる動物と同じである。
【人間性の剥奪】
彼は次を信仰する。彼は「もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が信仰するのは」を省略する。
(1)もし設計者、または設計者階級が絶滅するならば、x教系統の人間性はx教系統の人間から奪われる。
場合により、彼は設計者を創造者と言い換える。つまり、創造主を破壊することはx教系統の人間性を破壊することである。x教系統の人間性を破壊することはx教系統の人間を破壊することである。この時、その人間はサピエンスに戻る。
【権限】
彼は人間の設計や創造に関する権限を次のように決める。
(1)設計者のみがx教系統の人間を創造する。
(2)設計者のみがx教系統の人間を決定する。
(3)設計者のみがx教系統の人間を信仰者に授ける。
創造を設計と置き換えると、(1)は「設計者のみがx教系統の人間を設計する。」である。