以下では、人間界の創造主は儒教系統の善悪を提示する。一般的に、宗教が異なると、善悪が互いに異なる。例えば、キリスト教では、平等が善であるが、儒教では、平等は善でない。宗教を運動競技と例えると、日常的にも、サッカーのレッドカードはバスケのレッドカードと異なる。例えば、サッカーでは、ボールを持つことは悪であるが、バスケでは、その行為は悪でない。
また、政治的な善悪では、西欧白人が統治者をアメリカ大陸で担い、アメリカ大陸の資源を所有して、利益を獲得していることが存在する。また、彼らが原爆をアメリカ大陸から投下して、大和民族と呼ばれる多くのモンゴロイド人種を虐殺したことが存在する。これらの善悪を判断するためには、ある種の主体が善悪の基準を創造する必要がある。ここでは、彼は儒教系統の善悪を提示する。
1節 儒教系統の善悪
【正しさに関する原初的な状態】
彼は正しさに関する原初的な状態を次のように認識する。
(1)サピエンスと呼ばれる個体は知覚した対象を正しいと感じる。
(2)サピエンスと呼ばれる個体は把握した対象を正しいと感じる。
言い換えると、その個体は見たものや聞いたものや感じたものを正しいと感じる。だから、彼らは太陽の存在や状態や運動を正しいと感じる。彼らは物理法則を正しいと感じる。彼はこれらを現状崇拝や自然崇拝と認識する。
【善悪の芽生え】
彼は善悪の芽生えを次のように信仰する。
(1)善悪の芽生えはある対象に対するある主体の違和感である。
例えば、洪水がサピエンスを押し流す。狼が家畜を襲う。病気が子供を殺す。西欧白人がアメリカ大陸で資源を所有している。西欧白人が他人を差別主義者と侮辱する。ある主体がこれらの存在や状態や運動に違和感を覚える時、善悪や正しさが芽生える。違和感を覚えない場合は下記である。
(2)もしある主体が自然を崇拝するならば、その主体は善悪を持たない。
(3)もしある主体が把握する存在や状態や運動を崇拝するならば、その主体は善悪を持たない。
上記の自然は現状でも良い。一般的には、サピエンスと呼ばれる個体は把握したものを正しいと無意識的に感じるように見える。だから、彼らは太陽や物理法則や自然界を正しいと感じる。
【善悪の基準の芽生え】
彼は善悪の(原初的な)基準の芽生えを次のように信仰する。
(1)善悪の基準は主体の違和感である。
上記の場合、違和感それ自体が悪である。違和感を覚えないのが悪でない。例えば、西欧白人が有色人を差別主義者と侮辱する時、彼は違和感を覚える。それぞれの主体は違和感をそれぞれに覚える。この時、どの主体の違和感が正しいのかという問題が生じる。
(2)創造主の違和感が正しい違和感である。
(3)善悪の基準は創造主の違和感である。
創造主には、競技系の創造主が存在する。もしこの世界の創造主が存在するならば、その違和感が正しい違和感である。正しい違和感は違和感の善性が唯一に正当化される違和感であるかもしれない。日常的には、違和感に基づいたシステムを作れる主体の違和感がそのシステムの中で正しい。
【善と目的】
彼は善と目的の関係を次のように信仰する。
(1)目的はある主体が実現するつもりである対象の存在や状態や運動である。
(2)目的は善を導く。
西欧白人が他人を差別主義者と侮辱する時、彼は違和感を覚える。彼は西欧白人が他人を差別主義者と侮辱しない状態を悪いと判断しない。さらに、彼は理想的な状態を設定して、その状態を目的とする。この時、その状態に沿うことが善になる。
(3)目的に沿うことが善である。
(4)目的に反することが善でない。
例えば、サッカーでは、球を足でゴールに入れることが目的である。だから、選手が球をけって、その球をゴールに入れることが善である。もし創造主がこの世界を平等になるように創造したならば、平等な状態は創造主の目的に沿うので、善である。
【悪と目的】
彼は悪と目的を次のように信仰する。
(1)目的を妨害することは悪である。
(2)違和感は悪である。
または、目的の実現を妨害することは悪である。正確には、違和感は悪である場合がある。
【目的の基準】
彼は目的の基準を次のように信仰する。
(1)創造主の目的がその競技系の中で正しい。
言い換えると、システムの創造主が作った目的がその競技系の中で正当化される。目的は善悪を導くので、その善悪も創造主から正当化される(断定化される)。違和感と同様に、どの目的が正しいのかという問題が生じる。彼はシステムを作れる創造主の目的がシステムの中で正しいと信仰する。
【違和感と目的の宗教的な基準】
彼は違和感と目的の宗教的な基準を次のように信仰する。
(1)正しい主体が存在するならば、その主体が正しい違和感と正しい善悪を生み出す。
言い換えると、違和感と善悪の正しさや正当化は正しい主体によって行われる。正しい主体とそうでない主体が存在する。正しい主体が正しい違和感と正しい善悪を生み出す。
【儒教系統の善悪】
彼は儒教系統の善悪を次のように信仰する。
(1)x教系統の善悪はx教徒が信仰する善悪である。
(2)儒教系統の善悪は儒教徒が信仰する善悪である。
悪の場合、違和感が存在する。違和感を宗教に関連させると、x教系統の違和感と儒教系統の違和感が存在する。
【儒教系統の目的】
彼は儒教系統の目的を次のように信仰する。
(1)x教系統の目的はx教徒が信仰する目的である。
(2)儒教系統の目的は儒教徒が信仰する目的である。
【目的と善悪の関係】
彼は目的と善悪の関係を次のように信仰する。
(1)x教系統の目的がx教系統の善悪を導く。
(2)儒教系統の目的が儒教系統の善悪を導く。
x教系統の違和感と儒教系統の違和感もx教系統の悪や儒教系統の悪を導く。
【善悪と性】
彼は善悪と性を次のように信仰する。
(1)x教教徒の男性系統の善悪が存在する。
(2)儒教系統の男性系統の善悪が存在する。
x教徒の女性系統の善悪と目的は彼女ら自身によって形成される。
(3)x教教徒の男性系統の目的が存在する。
(4)儒教系統の男性系統の目的が存在する。
ここでの善悪や目的の全ては儒教徒の男性系統の善悪及び目的である。
【礼と儒教系統の善悪】
彼は礼と儒教系統の善悪を次のように信仰する。
(1)礼に沿うことが善である。
(2)礼に反することが善でない。
礼に沿うことが善である。または、礼に沿う対象の存在及び状態、運動が善である。礼に反する対象の存在及び状態、運動が善でない。なぜなら、礼が儒教系統の目的の一つである。
なお、彼は儒教系統の悪を次のように信仰する。
(3)失礼は悪い。
(4)無礼は強く悪い。
(5)非礼は非常に強く悪い。
または、失礼は少し悪い。無礼は悪い。非礼は非常に悪い。例えはサッカーである。失礼→笛(ファール)。無礼→イエローカード。非礼→レッドカード。
【陰陽一体】
彼は善悪と陰陽を次のように信仰する。
(1)もしある主体が悪を実行するならば、ある儒教徒はより悪を実行する。
または、もしある主体が悪を儒教徒に実行するならば、ある儒教徒はより悪をその主体に実行する。
【真理】
彼は真理を次のように信仰する。
(1)真理は唯一に正当化される善である。
または、真理は唯一に正当化される善悪である。悪の場合、悪と唯一に断定される。例えば、平等が善であるのか、悪であるのかは、自然界を調べるとしても、明らかにならない。真理は自然界を正確に表現することでなく、どの善悪が正しいのかを決定することに近い。もし唯一に正当化される善な人間性が存在するならば、その人間性を受け継いできた人間が善である。その人間が正しい人間である。
【善悪と事実】
(5)善悪は事実によって正当化されない。
たとえある主体が事実を提示するとしても、その事実は善悪を正当化しない。例えば、ある主体はナチスを悪いと判断することをその主体の善悪から導く必要がある。「ナチスは多くの人々を殺した。」は説明であり、善悪の判断でない。その主体は「俺はナチスを悪いと儒教系統の善悪で判断する。」と表現する。
【目的行為】
彼は目的行為を次のように信仰する。
(1)x教系統の目的行為は行為である、かつそれはx教系統の善悪を持つ。
(2)x教系統の目的状態は状態である、かつそれはx教系統の善悪を持つ。
(3)x教系統の目的存在は存在である、かつそれはx教系統の善悪を持つ。
彼は行為を非自動的な運動や自由運動とする。同様に、彼は自由状態や自由存在を仮定する、または信仰する。彼は彼は次を信仰する。
(4)x教系統の目的行為は行為に優越する。
(5)x教系統の目的状態は自由状態に優越する。
(6)x教系統の目的存在は自由存在に優越する。
言い換えると、善悪は非自動性に優越する。ただし、生成の順序は自動、非自動、目的である。
【思考規範】
彼は次の思考規範を信仰する。
(1)もしある主体が自己のx教系統の善悪を持っていないならば、その主体が存在や状態や運動の善を正当化する可能性は0である。
(2)もしある主体が自己のx教系統の善悪を持っていないならば、その主体が存在や状態や運動の悪を断定する可能性は0である。
【善悪の手引き化】
彼は善悪の使い方を次のように信仰する。
(1)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は善悪の判断を代数計算のように手引き化する。
彼は善悪の判断の順序を次のように信仰する。
(2)ある主体は現象を知覚する。
(3)その主体は現象を認識する。
(4)その主体は現象の善悪を判断する。
【善悪と階級】
彼は善悪と階級を次のように信仰する。
(1)任意の階級がx教系統の善悪を所有する。
(2)統治者階級が下す善悪の判断は選手階級が下す善悪の判断よりも強い。
つまり、統治者階級が下す善悪の判断は選手階級が下す善悪の判断に優越する。
【善悪の使用の主体】
彼は善悪の使用の主体を次のように信仰する。
(1)儒教系統の善悪を使用する主体は儒教徒である。
(2)x教系統の善悪を使用する主体はx教徒である。
(3)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は異教徒が儒教系統の善悪を使用することを無礼、または非礼と認識する。
【位置と善悪の性質】
彼は善悪の性質を次のように信仰する。
(1)ある主体の位置は善悪及び善悪の判断を変化させる。
(2)ある主体の方向は善悪及び善悪の判断を変化させる。
(3)ある主体の歴史は善悪及び善悪の判断を変化させる。
言い換えると、善悪及び善悪の判断はある主体の位置に関係する。善悪及び善悪の判断はある主体の方向に関係する。善悪及び善悪の判断はある主体の歴史に関係する。例えば、欧州人がモンゴロイド人を欧州から侮辱することの善悪は欧州人がモンゴロイド人をアメリカ大陸から侮辱することの善悪と異なる。後者はより悪い。
【善悪と連続性】
彼は善悪と連続性を次のように信仰する。
(1)善悪は連続的である。
(2)善悪は0であるか、0であるかでない。
なお、目的も連続的である。カラスやライオンの運動の一部は目的的である。カラスは実を道路の上に置いて、車に割らせようとする。この行為は目的的であるように思える。サピエンス、またはx教系統の人間のみが目的的でなく、彼らはより目的的である。
【善悪とその否定】
彼は次のように信仰する。
(1)善の否定は善でない。
(2)悪の否定は悪でない。
善の否定は悪であるでない。
【善悪と人間性】
彼は次のように認識する。
(1)言語的に表現された善悪はx教系統の人間を動物から区別する。
(2)言語的に表現された目的はx教系統の人間を動物から区別する。
言い換えると、人間の本質は善悪である。善悪は目的から導かれる。だから、人間の本質は目的である。
【未開民と善悪】
彼は次のように信仰する。
(1)未開民は不安を悪と感じる。
(2)未開民は安心を善と感じる。
【子供と大人】
彼は子供と大人と善悪を次のように信仰する。
(1)善悪の芽生えが子供には存在しない。
(2)子供は善悪の判断を下さない。
(3)善悪は大人を子供から区別する。
(4)目的は大人を子供から区別する。
【権限】
彼は善悪の設計や創造に関する権限を次のように認識する、かつ決定する。
(1)設計者のみがx教系統の善悪を創造する。
(2)設計者のみがx教系統の善悪を決定する。
(3)設計者のみがx教系統の善悪を信仰者に授ける。
信仰者には、統治者階級と選手階級が存在する。