以下では、人間界の創造主は儒教系統の世界観を創造する。宗教が異なると、世界観それ自体が異なる。例えば、アブラハムの宗教では、世界は唯一の創造主によって創造された。一般的に、この世界観は創造説と呼ばれている。
また、牧畜や農耕は人間の世界観を形成する。白人は牧畜民族的であり、彼らは牧畜的な世界観を持っている。牧畜民族的な世界観では、この世界には、自由な人と奴隷、家畜と野生動物が存在する。生活形態(生活様式)に関する世界観は労働観にも影響を与えている。実際、白人は労働者として怠惰である。
さらに、近代科学の発達は機械論的な自然観を提示した。西欧白人は世界を理性で機械化させてきた。この機械論的な世界観は国民国家や国民という人工的な国家観を生み出したように思える。その結果として、彼らは動物的なものや人間的なものを排除して、反自然、かつ超人工的な世界を構築してきた。以下では、彼は儒教系統の世界観を提示する。
1節 儒教系統の世界観
【西欧白人の世界観】
彼は西欧白人の世界観を次のように認識する。
(1)この世界は唯一の創造主によって創造された。
(2)この世界には、奴隷と自由な人、家畜と野生動物が存在する。
(3)この世界は自動的(機械的)である。
西欧白人の世界観は創造説である。そこでは、世界は自然には発生しない。神の意志や力のようなある種の人工性が要求される。西欧白人は彼らの正しさの基準を自然を崇拝する多神教徒のように自然界に置かないので、自然界よりも神の言葉がしばしば優先される。
また、西欧白人の世界観は牧畜民族的であり、彼らは奴隷の存在を前提とした社会を形成する。その結果として、自由や自由意志は人間を動物から区別する本質になっている。そして、西欧白人の世界観は機械論的である。この機械論は自然科学や予定説にも関係しているように見える。
【所属と世界観】
彼は所属と世界観に関する思考規範を次のように信仰する。
(1)もしある主体がx教系統の世界観を信仰しないならば、その主体はx教に所属しない。
(2)もしある主体が儒教系統の世界観を信仰しないならば、その主体は儒教に所属しない。
現実的には、東洋人は西洋文明に所属していない。なぜなら、彼らはアブラハムの宗教の世界観も牧畜的な世界観も古代地中海文明に世界観も持っていない。彼らが持っているのは、機械論的な自然観のみであるように見える。実際、大和民族の統治者は西欧文明に所属することに非常に苦労している。このように、世界観は文明的な所属や宗教的な所属に密接に関係する。
【x教系統の世界観】
彼は次を決める。
(1)x教系統の世界観はx教徒が信仰する世界である。
(2)儒教系統の世界観は儒教徒が信仰する世界である。
xをキリスト教と仮定すると、キリスト教系統の世界観はキリスト教徒が信仰する世界である。そこでは、世界は唯一の創造主によって創造された。儒教系統の世界観は下記である。
【儒教系統の世界観の目的】
彼は次を決める。
(1)儒教系統の世界観の目的は儒教徒による儒教系統の社会の人工的な形成である。
その目的は世界を正しく説明することでない。儒教徒が共通した世界観を信仰して、儒教系統の社会を形成する。これが儒教系統の世界観の目的である。西欧文明、いわゆる西側に入るためには、キリスト教及び自由民主主義の世界観を共有する必要があるように、東洋文明に入るためには、儒教系統の世界観を共通する必要がある。
(2)たとえある世界観が世界を正しく説明するとしても、もしその世界観がある宗教系統の社会を形成しないならば、その世界観は社会の形成に関して無価値である。
例えば、科学的な世界観は自然界、または物質的な世界を現時点では正しく説明している。しかし、この世界観はある宗教系統の社会を形成しない。そのため、キリスト教的な世界観が残り続ける。白人は科学的な世界観とキリスト教的な世界観を持って、強力に生きている。何のために宗教的な世界観が存在するのかというと、社会形成のためであり、世界を正しく説明することでない。
【x教系統の認識】
彼は次を決める。
(1)認識は行為である、かつそこである主体がある対象をすでに把握されている対象に対応させる。
(2)認識は行為である、かつそこである主体がある対象をすでに把握されている対象で把握する。
(3)x教系統の認識はx教徒が行う認識である。
(4)儒教系統の認識は儒教徒が行う認識である。
x教徒は世界をx教系統の認識で認識する。例えば、儒教徒の大和民族が大和民族を認識するのは儒教系統の認識によってである。この場合、大和民族がどのような民族であるのかはすでに把握されている。
【物質と動物と人間】
彼は次を認識する。彼は次の思考規範を信仰する。
(1)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は物質的なものを認識する。
(2)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は動物的なものを認識する。
(3)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が人間的なものを認識する。
彼は上記を固定された認識及び初期の認識とする。物質的なものには、太陽や川が存在する。動物的なものには、サピエンスや猫や犬が存在する。人間的なものには、x教系統の人間が存在する。植物や微生物、細菌は分類が難しいが、植物や細菌は物質と動物の中間あたりであるように見える。彼はある種の生命のような何かを植物に感じる。
(4)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が認識するのは物質的なものは完全に自動的に運動する。
(5)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が認識するのは動物的なものは非自動的に運動する。
(6)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が認識するのは人間的なものはより目的的に運動する。
例えば、太陽は完全に自動的に運動しているように見える。一方、動物は非自動的に運動しているように思える。x教系統の人間は目的的に運動しているように見える。言い換えると、物質的なものは機械的なものである。
(7)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が認識するのは動物的なものは0か1でなく、連続的である。
(8)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が認識するのは人間的なものは0か1でなく、連続的である。
昆虫は哺乳類よりも機械的に運動しているように見える。狩をするライオンも目的的に運動しているように見える。カラスは木ノ実を道路の上に置いて、車に轢かせる。この運動は極めて目的的である。ただ、x教系統の人間の目的はより目的的である。西欧の宣教師を見ればわかるように、宗教を持っている人間はより目的的に運動しているように見える。物質的なものが0か1であるのかは不明である。
【物質と自己の意識】
彼は次の思考規範を信仰する。
(1)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は自己の肉体を知覚する。
(2)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は自己の肉体を認識する。
(3)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は自己の感覚(意識)を把握する。
(4)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が認識するのは自己の感覚は物質でない。
(5)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が認識するのは物質でない何かがこの世界に存在する。
肉体は物質である。その主体は自己の肉体を知覚する、かつ認識する。感覚は意識である。感覚には、視界や聴覚、痛みや性欲、感情や記憶が存在する。いわゆる、5覚も感覚である。その主体は自己の感覚を把握する。自己の意識は物質でない。自己の意識は非物質である。実際、視界それ自体は物質でないが、視界を発生させる脳は物質である。物質でない何かの一つは感覚、つまり意識である。
【中の人を仮定する場合】
彼は次を信仰する。
(1)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は自己の主体(中の人)を把握する。
(2)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が認識するのは自己の主体は物質でない。
(3)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が認識するのは自己の主体は感覚(意識)でない。
中の人は運転手のようなものである。肉体は車体であり、感覚は車内の立体映像のような何かである。その映像は車体によって作られている。この宗教では、彼は視界それ自体と視界を把握する自己を便宜的に区別する。中の人を仮定すると、所有の主体や損害の主体がはっきりとする。視界を発生させる物質的な基盤が存在して、その基盤が視界という非物質を発生させる。そして、その非物質を把握する主体が存在する。この時、自己の視界それ自体は自己でない。
【中の人を仮定しない場合】
彼は次を信仰する。
(1)もしある主体が中の人を仮定しないならば、その主体が把握するのは、主体は感覚それ自体である。
(2)もしある主体が中の人を仮定しないならば、その主体が把握するのは、主体は感覚の性質か何かである。
(3)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が認識するのは自己の肉体と自己の感覚は少なくとも確実に存在する。
例えば、仏教では、無我という考えが存在するらしい。これをうまく解釈すると、自己の視界それ自体が自己である可能性がある。この時、世界に存在するのは、肉体という物質と自己の感覚(意識)の2つである。中の人を仮定する場合、世界に存在するのは、肉体という物質と自己の感覚(意識)と中の人という3つである。
【儒教系統の宗教的な物語】
彼は儒教系統の世界に関する物語を次のように信仰する。なお、彼は「もしある主体が中の人を仮定しないならば、その主体が、」を省略する。
(1)物質は完全に自動的に運動していた。
(2)動物が生まれた後、動物は非自動的に運動するようになった。
(3)人間が生まれた後、人間は目的的に運動するようになった。
より物語には、初め、物質は物理法則に沿って完全に自動的に運動していた。動物は物質的な世界から少し解放されて、非自動的に運動するようになった。人間は彼らの目的を彼ら自身で創造して、その目的に沿って運動するようになった。
【世界の自動性】
彼は次を信仰する。
(1)もしある主体が中の人を仮定しないならば、その主体が認識するのはこの世界の全ては完全には自動的に運動していない。
(2)もしある主体が中の人を仮定しないならば、その主体が信仰するのはこの世界の全ては完全には自動的に運動していない。
物質は完全に自動的に運動している。動物は非自動的に運動している。人間は目的的に運動している。物質の世界は完全に自動的に運動しているように見えるが、動物と人間はそうでない。彼はこの認識を正しい認識を信仰する。言い換えると、この世界の全ては機械的でない。
【創造説と自然発生説】
彼は次を信仰する。基本的には、彼は創造説を取らない。
(1)もしある対象が存在するならば、その創造者が存在する。
(2)もしある儒教徒が上記(1)を信仰するならば、創造者が存在する。
彼が世界をある対象に代入すると、世界の創造者が存在する。この理屈を信用するならば、創造者は存在するかもしれない。
(3)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が信仰するのは、世界が創造されたのか、または世界は自然に発生したのかは不明である。
彼は創造説を説教的には採用しない。しかし、彼は世界は自然発生したのかも不明であると現時点では考える。例えば、物質から非物質である意識(感覚)が生まれるのは非常に奇妙である。
【人称に関する現象】
彼は人称に関する現象を次のように把握する。
(1)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は意識を1人称で把握する、かつその主体は意識を2人称及び3人称で把握しない。
(2)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は中の人を1人称で把握する、かつその主体は中の人を2人称及び3人称で把握しない。
(3)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が信仰するのはxはa人称で把握されるが、xはb人称で把握されない何かがこの世界には存在する。
例えば、彼は他人の意識と他人の主体を外部から把握することができない。しかし、彼は他人も同じ肉体を持っているので、他人も自己と同じ意識や主体を持っているだろうと推論、または憶測してきた。彼はこの推論や憶測を必ずしも前提としない。つまり、彼は上記を人称現象と便宜的に呼び、彼はその現象を奇妙で新しい現象と認識する。つまり、彼は他人の意識や主体は彼視点では把握しない。
【表現する】
彼は表現するを次のように決める。
(1)表現するは行為である、かつそこである主体は1人称で存在する何かを他者に伝達する。
(2)表現するは行為である、かつそこである主体はその主体が1人称で把握する何かを他者に伝達する。
口語的には、表現するとは、ある主体が2人称や3人称ではわからない何かを他者に伝達することである。例えば、自己の認識や自己の判断は2人称や3人称ではわからない。だから、ある主体はその認識や判断を言葉で表現して、他者に伝達する。それが表現することである。
【表現と所属】
彼は次を信仰する。彼は「もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が信仰するのは」を省略する。
(1)もしある主体が自己の感覚を表現しないならば、その感覚は人間社会に所属しない。
(2)もしある主体が自己の中の人を表現しないならば、その中の人は人間社会に所属しない。
(3)もしある主体が自己のxを表現しないならば、そのxは人間社会に所属しない。
彼は物質社会及び動物社会、人間社会を認識する。上記の場合、その感覚や中の人は動物社会に所属するかもしれない。しかし、表現しないならば、その感覚や中の人は人間社会には存在しないものとして扱われる。なお、人間社会はx教系統の人間社会である。
【人称に関する思考規範】
彼は人称に関する思考規範を次のように信仰する。彼は「もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が信仰するのは」を省略する。
(1)もしある主体が肉体aを持つならば、その主体はその肉体aに対応する意識aを持つ。
(2)もしある主体が肉体aを持つならば、その主体はその肉体aに対応する中の人aを持つ。
(3)もしある主体が(1)を信仰するならば、その主体は意識aを持つ。
(4)もしある主体が(2)を信仰するならば、その主体は中の人aを持つ。
つまり、ある主体は肉体の種類aに対応する意識aを持つ。ある主体は肉体の種類aに対応する中の人aを持つ。上記の意識は感覚である。具体的には、サピエンスはその肉体に対応する種類の意識を持つ。サピエンスはその肉体に対応する種類の中の人を持つ。上記は種類であり、固有性にはあまり関係ない。
(5)もしある主体が(1)を信仰すると表現しないならば、その肉体aに対応する意識aは人間社会に所属しない。
(6)もしある主体が(2)を信仰すると表現しないならば、その肉体aに対応する中の人aは人間社会に所属しない。
もしある主体が「俺の意識は俺の肉体に対応していることを正しいと考える」と表現しないならば、その主体の意識は人間社会には所属しない。ないものとして扱われる。同様に、もしある主体が「俺の中の人は俺の肉体に対応していることを正しいと考える」と表現しないならば、その主体の中の人は人間社会には所属しない。
【自由意志と目的意志】
彼は次を決める。
(1)自由意志は能力である、かつそこである主体は自動的な運動を非自動的な運動に変化させる。
(2)目的意志は能力である、かつそこである主体は非自動動的な運動を目的的な運動に変化させる。
目的意志は便宜的な創作である。一般的には、自由意志は能力である、かつある主体は自己の行為を選択する。目的意志は能力である、かつある主体は自己のある行為を実現する。また、意志は能力であると考えられている。また、能力は必要な対象である。能力が発現するためには、環境のような条件が必要である。さらに、訓練も必要である。最後に、力がその能力を実際に発現させる。発現の流れは能力、訓練、環境、力である。
【感覚としての意志】
彼は意志を次のように解釈する、かつ信仰する。
(1)意志は感覚(意識)である。
(2)自由意志は感覚(意識)である、かつその感覚が生じるとき、ある主体が自動的な運動を非自動的な運動に変化させることができる。
(3)目的意志は感覚(意識)である、かつその感覚が生じるとき、ある主体が非自動的な運動を目的的な運動に変化させることができる。
例えば、意志は視界や痛みのよう感覚(意識)の一つである。この解釈では、意志は5覚でない感覚である。ある主体の意志が生じる。その後、その主体はある行為を実行する。
【状態としての意志】
彼は意志を次のように解釈する、かつ信仰する。
(1)意志は状態である。
(2)自由意志は状態である、かつその状態ではある主体が自動的な運動を非自動的な運動に変化させることができる。
(3)目的意志は感覚(意識)である、かつその状態ではある主体が非自動的な運動を目的的な運動に変化させることができる。
意志が状態である場合は次である。例えると、ある主体が意志を持つとき、その主体は意志という服を着ている。服は状態である。その後、その主体は何らかの行為を実行する。どれが正しいのかは不明である。
【力】
彼は力を次のように決める、または信仰する。力は原因である、または力は作用である。一方、能力は必要である。
(1)自由意志力は力である、かつそれは自動的な運動を非自動的な運動に変化させる。
(2)目的意志力は力である、かつそれは非自動的な運動を目的的な運動に変化させる。
上記の自由意志力や目的意志力が存在するのは不明である。言い換えると、自由意志力は非自動力であり、目的意志力は実現力である。上記を科学に無理やり応用すると、物質意志力は力である、かつそれは非運動を自動的な運動に変化させる。非運動は無な運動でも良いかもしれない。物質意志力は自動力である。
【意志と力】
彼は次を信仰する。
(1)意志は必要である。
(2)力は原因である。
(3)意志と力が存在するとき、ある現象が生じる。
ある種の現象には、非自動的な運動や目的的な運動が存在する。能力があっても、やる気がないのは意志がないのか、力がないのかは不明である。
【非自動的な運動の流れ】
彼は非自動的な運動の流れを次のように信仰する。
(1)ある主体が存在する、かつその主体は自動的に運動する。
(2)その主体が自動的な運動を非自動的に運動させることができる状態になる。
(3)その主体は自動的な運動を非自動的な運動に自由意志力で実際に変化させる。
最後は「その主体は自動的な運動を非自動的な運動に力で実際に変化させる。」であるかもしれない。
【目的的な運動の流れ】
彼は目的的な運動の流れを次のように信仰する。目的が既に与えられていると仮定する。
(1)ある主体が存在する、かつその主体は自動的に運動する。
(2)その主体が自動的な運動を非自動的に運動させることができる状態になる。
(3)その主体は自動的な運動を非自動的な運動に自由意志力で実際に変化させる。
(5)その主体が非自動的な運動を目的的に運動させることができる状態になる。
(6)その主体は非自動的な運動を目的的な運動に目的意志力で実際に変化させる。
(7)その主体は目的的に運動する。
上記が現実であるのかは不明である。簡単には、ある主体は自己の運動を非自動的に変化させた後、その主体は目的的に運動する。例えば、ある主体が目的地に車で到達するつもりであると仮定する。この時、その主体は自己の肉体を非自動的、かつ目的的に運動させていく必要がある。例えば、その主体は自己の肉体を布団から出す必要がある。自動的な世界では、その主体は布団に入ったままである。
【意志と力の系統性】
彼は意志と力の系統性を次のように信仰する。
(1)自由意志には、動物的な系統性がある。
(2)目的意志には、人間的な系統性がある。
(3)自由意志力には、動物的な系統性がある。
(4)目的意志力には、人間的な系統性がある。
なお、科学的な根拠は上記に存在しない。けれども、虫の非自動的な運動とサピエンスの非自動ていな運動は完全には一致しているように見えない。現実的には、人種が異なると、運動の仕方が異なるように、生物種が異なると、非自動的な運動も異なるように思える。または、非自動的に動ける範囲が動物によって異なる。または、自由意志は動物に関して平等であるが、肉体が異なるので、そのように見える可能性もある。
【偶然】
彼は次を信仰する。
(1)偶然は現象である、かつそれは非自動的な意志や力によって引き起こされる。
彼は現象を存在や状態や運動に置き換える。例えば、交通事故による死は偶然の現象である。また、動物の進化も偶然な現象である。
【必然】
彼は次を信仰する。
(1)必然は現象である、かつそれは自動的な意志や力によって引き起こされる。
物体を落下させると、その物体は物理法則に沿って運動する。これは必然な現象である。
【確率】
彼は次を認識する。
(1)確率的な現象は自動的な現象である。
確率的な存在は自動的な存在である。確率的な状態は自動的な状態である。確率的な運動は自動的な運動である。彼は数学的にそうであるのかを知らない。
【必然的な偶然】
彼は次を信仰する。
(1)必然的な偶然は現象である、かつそれは目的的な意志や力によって引き起こされる。
例えば、子供を10人産むことは必然的な偶然である。なぜなら、それが必ずしも成功するとは限らない。目的は必然に類似するが、その目的は必ずしも実現するとは限らない。彼は必然的な偶然を実現的な偶然や実現される偶然と言い換える。または、彼は必然的な偶然を実現や実現然と言い換える。
【時間】
彼は次を信仰する。
(1)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は現在を認識する。
(2)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は未来を認識する。
(3)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は過去を認識する。
【時間の順序】
彼は次を信仰する。
(1)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が認識するのは時間の認識順序は現在、未来、過去である。
例えば、動物は現在のみを知覚する。高等動物は少し先の未来を認識する。x教系統の人間は長期的な未来と過去を認識する。子供は現在と未来を認識するが、過去を認識しない。成長すると、その子供たっだ人間は自己の過去を認識するようになる。
【現在】
彼は次を信仰する。
(1)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は現在のみを知覚する。
(2)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は現在のみを検出する。
(3)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は現在的現在を認識する。
言い換えると、その主体は現在の存在及び状態、運動のみを検出して知覚する。その主体は過去や未来それ自体を知覚しない。
【未来】
彼は次を信仰する。
(1)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は未来を現在の中に認識する。
(2)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は未来的現在を認識する。
その主体は未来を種のような存在や状態として認識する。その主体は未来を知覚しない。
【過去】
彼は次を信仰する。
(1)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は過去を現在の中に認識する。
(2)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は過去的現在を認識する。
(3)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は過去を現在から推論する。
その主体は過去を服のような状態として認識する。ある主体は他人を殴ったという服を着ている。その主体は過去を知覚しない。(2)に関しては、もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は過去を現在の状態から推論する。感覚的には、その主体は過去を現在から過去へと推論する。
【時間の流れ】
彼は次を信仰する。
(1)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が信仰するのは、時間の流れは過去、現在、そして未来である。
しかし、上記は人工的な構成や認識、信仰であるかもしれない。歴史は過去から現在へと書かれる。
【空間】
彼は次を信仰する。
(1)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は物理的な空間を認識する。
(2)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が信仰するのは動物的な空間が存在する。
(3)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は人間的な空間を認識する。
彼は動物的な空間が何であるのかを知らない。物理的な空間は科学における空間である。真空が存在するのかは不明である。人間的な空間は宗教や文明、国家や社会、運動競技である。例えば、犬や猫はサッカーの試合を認識していないので、彼らは試合中に乱入する。また、x教系統の人間は共通認識や共通判断で以心伝心のように互いに繋がっているように思える。
【世界観の誤り】
彼は次を信仰する。
(1)もしある主体が儒教徒であるならば、たとえこの世界観が誤りであるとしても、その主体はこの世界観と新たな分析の結果を両立させる。
どちらかを破棄せずに、儒教徒は世界観と分析の結果を両立させる。分析の結果は儒教系統の社会を形成しない。世界観が分析を妨害する必要はなく、かつ分析が世界観を破棄する必要はない。
【権限】
彼は世界観の設計や創造に関する権限を次のように認識する、かつ決定する。
(1)設計者のみがx教系統の世界観を創造する。
(2)設計者のみがx教系統の世界観を決定する。
(3)設計者のみがx教系統の世界観を信仰者に授ける。
設計者は人間界の創造主である。
2節 世界の正しさと世界観
【検出】
彼は次を決める。
(1)検出するは運動である、かつある対象が別の対象に自動的に応答する。
目が光を検出する。実験器具が化学物質を検出する。
【知覚】
彼は次を決める。
(1)知覚するは運動である、かつある主体が自己の感覚を把握する。
主体を中の人と仮定すると、知覚するは運動である、かつある中の人が自己の感覚を把握する。例えば、中の人が自己の視界を把握することが知覚である。
【知覚の系統性】
彼は次を信仰する。
(1)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が信仰するのは知覚の系統性が存在する。
知覚の系統性は動物的な系統性である。例えば、青い目を持つ主体と黒い目を持つ主体では、色の見え方が異なっている。また、クモの目とタカの目、タコの目とサピエンスの目では、見え方が異なっている。この系統性は主に感覚によって形成される可能性がある。
【知覚の強制】
彼は次を信仰する。
(1)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が信仰するのはその主体の知覚は自然界によって強制されている。
自然界は物質的な世界である。例えば、太陽があの色であの大きさであるのは自然界によって作られた。ある主体は太陽がそうであることを強制されている。
【検出の強制】
彼は次を信仰する。
(1)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が信仰するのはその主体の検出は物質的な世界によって強制されている。
彼は光の検出を頼んでいない。けれども、目は光を自動的に検出する。彼はこれを一種の強制と認識する。
【世界の正しさ】
彼は次を信仰する。
(1)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が信仰するのは世界は必ずしも正しくない。
(2)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が信仰するのは物質的な世界は必ずしも正しくない。
(3)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が信仰するのは動物的な世界は必ずしも正しくない。
(4)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が信仰するのは人間的な世界は必ずしも正しくない。
例えば、洪水が家族を流すのは彼にとって正しくない。狼が彼の家畜を襲うのは彼にとって正しくない。西欧白人がアメリカ大陸を支配しているのは彼にとって正しくない。虫歯やガンが彼の肉体に存在することは正しくない。もしある法則が彼を殺すならば、その法則は正しくない。
【自然崇拝】
彼は次を信仰する。
(1)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は物質的な世界を崇拝しない。
言い換えると、もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は物質的な世界の存在及び状態、運動を善と判断しない。
【自動性と信用】
彼は次を信仰する。
(1)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は物質的な世界の自動性を信用する。
(2)もしある対象が自動的に運動するならば、その対象は信用可能である。
彼は物質的な世界は正しいというよりも信用可能であると信仰する。もし彼がサピエンスのある行為を正しくないと感じるならば、なぜ彼は物質的な世界を正しいと感じるのか、物質が正しいのかという問いが存在する。おそらく、物質的な世界は自動的に運動するので、彼はその世界を信用している。
【知覚と認識と判断の不一致性】
彼は次を信仰する。
(1)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が信仰するのは、ある主体aの知覚は別の主体bの知覚と異なる。
(2)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が信仰するのは、ある主体aの認識は別の主体bの認識と異なる。
(3)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が信仰するのは、ある主体aの判断は別の主体bの判断と異なる。
つまり、知覚と認識と判断は互いに異なる。
【検出の一致性】
彼は次を信仰する。
(1)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が認識するのは、ある主体aの検出は別の主体bの検出に等しい。
(2)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が信仰するのは、ある主体aによって検出される対象は別の主体bによって検出される対象に等しい。
上記はおそらく等しいである。知覚や認識や判断は互いに異なるが、検出や検出される対象は互いに等しい可能性がある。つまり、彼らが見ている物質的な世界それ自体は同じであるかもしれない。彼らは同じ物質的な世界に生きている可能性がある。
【知覚と認識と判断の距離】
彼は次を信仰する。
(1)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が信仰するのは距離が知覚に存在する。
(2)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が信仰するのは距離が認識に存在する。
(3)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が信仰するのは距離が判断に存在する。
(4)もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が信仰するのはその距離は連続的である。
その距離は0か1でなく、連続的である。例えば、コーカサス人種とモンゴロイド人種の知覚はコーカサス人種と犬の知覚よりも互いに近い。漢人の認識と日本人の認識は漢人の認識とイギリス人の認識よりも互いに近い。ユダヤ教徒とキリスト教徒の判断はユダヤ教徒と仏教徒の判断よりも互いにより近い。