東洋と西洋白人の戦争観[戦術戦略世界観]孫子中国と米国

数理情報と軍事
https://ja.wikipedia.org/wiki/孫武

 まあ、東洋の場合は「準備で状況を作り上げ、その状況の流れを重視する。だから勝った後に戦う」という感じなんだけど… 西洋の場合は「戦争は何が起きるかわからない。運や賭けの要素が強すぎる」って感じで、準備は確かに考えるけど、東洋のような考え方には至って無い感じなんじゃよなぁ…

 勘違いしてる人がいる可能性が高いので書いときますけど… 別に「東洋の戦略が西洋の戦略よりも優れている」という訳ではありません。 西洋の分析は戦場レベルや軍事レベルそれ以外に置いていて、この分野に関しては明らかに東洋より上です。 逆に東洋は大戦略的なレベルの分析に重点が置かれている。この政治的な戦争の上のレベルにおいては西洋よりも上だと個人的には思います。

  西洋は戦闘・戦場などの拡大したものを戦争と見ていて、東洋の場合は国際関係の上で繰り広げられる政治的な紛争を戦闘と見ていると思われます。

https://twitter.com/kanndata4649/status/1200367010317627393

 戦争に対する東洋と西洋の捉え方は非常に異なる。以下で、俺は戦争観の違いについて述べる。ロシアは西洋でない。

1 戦争とは?

 戦争とは、少なくとも2つの人間集団が互いに戦っている状態である。

 戦争に対する適切な共通認識の形成は非常に難しい。ここでは、上記の共通認識を採用する。君が東洋と西洋の戦争観を捉えるとき、君は球蹴り競技とその試合を思い浮かべる。

1-1 西洋の戦争観はゲームや競技(sport)

 西洋的戦争観とは、戦争が運動競技における試合それ自体と定義される価値観である。別名は試合的戦争観

 西洋人は戦争を試合それ自体と認識してきた。特に、英国や米国は戦争をただの試合やゲームのように始めてきた。球蹴りの競技では、試合における競技者の行為や状態に関する取り決めが重視されてきたように、彼らの戦争観も試合における競技者の状態や行為に関する取り決めが重視されきた。

相手が彼らの取り決めに違反するとき、米国や英国はまるで球蹴りの審判のようにレッド・カードを出して、相手を罰しようとする。西洋の戦争観は球蹴りの競技それ自体である。

長所

 西洋的戦争観では、人間は戦争を試合をして科学的に分析できる。また、西洋人はその試合を海外で容易に展開できるようになる。

短所

 西洋的戦争観では、相手が戦争を試合におけるもめ事と認識するとき、その試合それ自体が泥沼化する。相手が西洋の戦争観に従わないとき、戦争という試合がめちゃくちゃになる。西洋側が彼らの取り決めを相手に強制できる環境では、この種の戦争観は非常に強い。

球蹴りの試合が両者の合意や納得によって進められるように、この西洋的戦争観も敵との合意や納得で進められる。だから、合意や納得が存在しない時、この種の戦争観はうまく機能しない。例えば、下記で見るように、相手が戦争を試合におけるもめ事と認識する時、この西洋的戦争観は機能不全になる。

1-2 東洋の戦争観はもめ事(trouble)や試合中の乱闘

 東洋的戦争観とは、戦争が運動競技の試合における乱闘やもめ事と認識される価値観である。別名はもめ事的戦争観。ただし、東洋人は球蹴りの世界を世界それ自体と認識する。戦争とは球蹴りの世界での乱闘やもめ事である。

 東洋的戦争観では、戦争は試合中における乱闘やもめ事と認識された。試合中にもめ事が発生すると、銃を持った警察官などが乱入して試合がはちゃめちゃになる。東洋における戦争観とはまさにこのぐちゃぐちゃな状態である。

東洋人は戦争を試合における乱闘と認識する。だから、乱闘には取り決めが存在しないように、戦争にも取り決めが存在しない。その乱闘(戦争)はどこまでも泥沼化する。

なぜなら、東洋人は戦争を試合における乱闘と認識するので、乱闘を発生させた相手が悪い。だから、東洋人はもはや試合における取り決めを守る必要がないと感じる。東洋人は球蹴りの試合それ自体や球蹴り界(選手や監督や役員や所有者を含む)それ自体を「世界」と認識する。

長所

 東洋人は戦争を試合におけるもめ事と感じる。だから、そのもめ事が発生すると、どこまでも泥沼化する。その結果、彼らはあまり敗北しない。

実際、米国はベトナムや中国やロシアのような戦争観を持つ国家に手こずってきた。なぜなら、アメリカやイギリスは試合を海外で展開したいのに、相手はその試合を試合におけるもめ事と認識する。

その結果、アメリカたイギリスが展開する試合がぐちゃぐちゃになってきた。

短所

 東洋人は戦争を試合における揉めごと認識する。だから、東洋人は戦争を一つの考察対象として分析できないし、戦争を試合としてうまく設計できない。東洋人は戦争を科学や数学における科学的対象のように分析できない。

その結果、彼らは試合を海外で設計・展開できないので、彼らは試合を海外で行えない。実際、中国やロシアは戦争を海外で展開することを苦手とする。

1-3 東洋と西洋の違い

 西洋における戦争とは球蹴りの試合それ自体であった。それに対して、東洋における戦争とは試合における乱闘であった。東洋人にとって、戦争とは試合における乱闘であるので、ルールは基本的に存在しない。

西洋では、白人は戦争を試合と定義してきた。だから、彼らは試合を設計するための取り決めを重視する。取り決めを定義する場が政治や外交に関する場、議会や国際議会であった。

一方、東洋人は戦争を試合におけるもめ事と認識してきた。だから、彼らにとって議会や国際会議とはもめ事を防止する場であり取り決めを設計する場でなかった。さらに、東洋人は世界を球蹴り界(選手や監督や役員や所有者を含む)それ自体と認識するので、たとえ西洋人が試合に関する取り決めを決定するとしても、彼らはその取り決めに必ずしも従わない。

 白人は試合の外を重視して、取り決めを試合の外から国際会議で制定しようしてきた。一方、東洋人は試合を戦争と認識しないので、試合(というよりも世界それ自体)の中から相手の監督やサッカーの所有者や取り決めを決定する会議に干渉しようとしてきた。

東洋人にとって、球蹴りの世界はすでに存在するものである。その中で、彼らは試合におけるもめ事を扱おうとする。それに対して、西洋では、戦争という試合及び取り決めは国際会議で制定されるものである。その後、彼らは試合を行う。

2 戦術と戦略

 東洋と西洋では、戦争に対する態度が完全に異なっている。だから、戦術と戦略も異なる。西洋では、行為に関する計画とその実行が重視される。

 戦争における計画とは、戦争における競技者の存在及び状態及び行為とそれらに関係した物品に関する取り決めの予定である。

上記は西洋における計画である。東洋人は戦争を試合におけるもめ事であると認識する。だから、彼らは上記のような戦争における計画を持たない。

2-1 戦術

 戦術とは、競技場の局所的な場における戦争における計画である。球蹴りでは、競技者がゴールポストの前でどのように振る舞うかが戦術である。そのポストの前での競技者の人数や状態(競技者の配置)や競技者の行為は戦術によって決定される。局所的な場では、時間(状況)も考慮される。

2-2 戦略

 戦略とは、ある試合における戦争における戦略である。簡単にいうと、試合に勝利するための計画である。

西洋人は物事を局所から大局へと思考する。西洋では、戦略は戦術を局所から大局へと拡大させた計画である。西洋人は試合を局所から大局へと構成していって勝利しようとする。

例えば、二次元平面が存在して、その上に同心円状の局所的な場たち(戦場)が存在する。西洋人はそこでの勝利を互いに結合させて論理的に構成的に拡張していって、二次元平面全体における勝利をつかもうとする。

 それに対して、東洋では、戦術は戦略を大局から局所へと縮小させた計画である。東洋人は試合を大局から局所へと縮小させていって試合の全体像を把握しようとする。東洋人にとって、試合における勝利は局所から大局へと構成されるものでなく、試合を大局から局所へと把握して勝利を呼び込むものである。

しばしば、東洋人は気の流れや試合の流れなどの流れを重視すると指摘されてきた。なぜなら、東洋人にとって、試合は構成されるものでなく、すでに存在して把握されるものである。東洋人にとっての試合とは自然界のようにすでに存在するものである。

人間は自然界をうまく把握して生存してきたように、東洋人は戦争という試合をうまく把握して生存してきた。自然界が作られるものでないように、試合も作られるようなものでない。

2-3 制度設計

 東洋人は制度設計を苦手とする。なぜなら、東洋人は戦争を試合と認識しない。彼らは試合における争いを0にするように行動する。

それに対して、西洋人は戦争を試合と認識する。だから、彼らは試合に対する設計に重点を置く。その設計は外交や国際的会議の場で行われる。

3 世界観の違い〜対決的世界観と大局図的世界観

 東洋と西洋では、世界観もまた異なる。西洋の世界観は敵との対決的世界観である。それに対して、東洋の世界観は大局図的世界観である。

そこでは、東洋人は自己の都合の良い世界を描こうとする。東洋人は敵と対決するのでなく、自己の世界を作って物事を有利に進める。東洋人にとっての戦争とはその世界の中での単なる揉め事でしかない。

対決的世界観

 対決的世界観とは、白人が彼らの敵と対決して勝利するという価値観である。

 白人は戦争を試合と定義して、その戦争を局所から大局へと構成する。彼らは試合の勝利をそのようにつかもうとする。白人はこの種の思考を文明や世界観にまで拡張してきた。

白人の世界観はキリスト教によって形成されてきた。このキリスト教的世界観もまた対決的世界観である。例えば、サミュエル・ハンチントンによる文明の衝突やスティーヴ・バノンによるユダヤ・キリスト文明の考え方も対決的世界観の延長線上である。

そこでは、彼らの敵はイスラム教であり中国であった。彼らは中国やイスラムと対決して勝利して、彼らのキリスト教的世界観を局所から大局へと構成的に広げようとしてきた。

大局図的世界観(大洪水的世界観)

 大局図的世界観とは、東洋人が大局的な世界を描き、彼らの目的を達成する世界観である。別名は大洪水的世界観。

 東洋人は戦争を大局的な世界の中でのもめ事や乱闘と認識して、その戦争を大局から局所へと把握しようとする。東洋人は大局的な世界を形成して、相手をその中で操ろうとする。

例えば、君が川の流れや洪水を操れる人間であると仮定するとき、君は水の上の人間と対決する必要がない。君は水を操ってその人間を溺れさせれば良い。東洋人の世界観は洪水のような世界観である。

水には流れが存在するように、東洋人の世界観にも、流れが存在する。東洋人は彼らがその流れをうまく扱える時、彼らは敵と対決せずに勝てる(目的を達成できる)と感じる。東洋人はまず初めに自己に都合の良い水の世界を形成しようとする。

 東洋人にとって、水の流れや洪水の流れは重要である。だから、東洋人は物事を把握しようとする。把握のためには、大局的な思考が重要である。洪水的な世界の中では、勝ちは徐々に定まっていく。

東洋及び西洋の短所

 対決や対立が存在しない環境では、西洋人は軟弱になる。例えば、白人は宗教戦争に弱い。なぜなら、たとえ白人がイスラム教徒のコーカサス人種を虐殺して勝利し続けるとしても、白人はイスラム教に勝利できない。その結果、欧州はイスラム化する可能性が存在する。

また、世界情勢がごちゃごちゃしてきて試合がきちんと展開されないようになると、白人は弱くなる。その様子はまるでサッカーの試合がきちんと行われなくなり、乱闘やもめ事が常時発生するようなものである。もし彼らが環境を制御できないならば、試合が展開されず、かつ対決が発生していので、彼らの世界観は崩壊するだろう。

 それに対して、東洋人は対決に弱い。相手が殺す気でかかってくるとき、彼らはその相手に勝利できない。東洋人にとって、戦争は試合中の揉め事であるので、戦争それ自体に対する分析が基本的に欠如している。

その結果、東洋人は戦争を試合として展開できない。だから、東洋人は戦争に勝てない。ただし、負けもしない。

おまけ 戦争に対する白人と東洋人の思考の違い

 白人は物事を把握することを苦手とする。東洋人は物事を構成することを苦手とする。白人は構成的思考であり、東洋人は把握的思考である。

分析的思考と関係性思考

 白人は分析的思考を重視して、東洋人は関係性思考を重視する。白人は戦争という試合それ自体を分析する。それに対して、東洋人は戦争それ自体に対する分析よりも、国家間の関係や人間関係に着目する。

局所と大局〜構成型思考と把握型思考〜

 白人は戦争という試合を局所から大局へと論理的かつ機械的に構成しようとする。それに対して、東洋人は試合を分析せずに、大局から局所へと把握しようとする。

例えば、数学では、二次元球面(地球)は局所から大局へと論理的に構成される。白人はこの種の思考を好む。それに対して、東洋人は地球を衛星からみて地球の全体像を大局から把握しようとする。その後、東洋人は地球の表面を局所的に把握する。

例えば、白人の米国民の一部はflat earthを信奉してきた。彼らは地球は平らであると強く主張してきた。それに対して、東洋人はこの種の白人はバカでないか、地球が平らであるのは見ればわかるじゃんと感じてきた。

 この種のすれ違いも白人と東洋人の思考の違いである。白人は地球を地球の一片から地球の表面を局所から大局へと構成しようとする。その結果、彼らは地球が平らであると強く主張する。

それに対して、東洋人は地球を衛星から大局から把握しようとする。だから、東洋人にとって、地球とは丸く見える対象であり、局所から大局へと構成される対象でない。

時間の流れが現在→未来→過去か過去→現在→未来か?

 西洋白人は世界を現在→未来→過去と定義する。それに対して、東洋人は世界を過去→現在→未来と認識する。その結果、東洋人は戦争を過去からの積み重ねと認識して、準備を非常に重視する。この準備は大局観につながる。

それに対して、西洋人は準備でなく、試合の構成や実行を非常に重視する。西洋人にとって、過去とは否定され価値のないものである。東洋人は流れを重視するので、彼らは歴史における戦争から現在と未来を把握しようとする。

東洋人は世界を洪水と認識する。洪水には、流れが存在して、その流れは過去から現在、そして未来へと流れていく。洪水的な世界では、人間の意志が試合のように実現されるのは非常に限られた領域のみである。

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