俺は排中律をよく理解できない。ただし、俺は排中律にいちゃもんをつけるつもりはない。以下では、俺は排中律に対する俺の現時点での認識を提示する。当然、俺は排中律を量子力学へと結びつけるつもりはない。なお、俺は否定と偽の違いをよく理解していない。
排中律
具体例
俺の認識 自動車は存在する、または自動車は存在しない。
俺は自動車が存在するをPと置く。俺は自動車が存在しないをーPと置く。この時、上記の推論は P or ーP である。俺の印象では、この推論は常に正常に機能すると考えられている。
当然、上記のP及びーPは実際であるのかは調査する必要がある。つまり、自動車が実際に存在するのか、自動車が実際に存在しないのかは実際に調査して確認する必要がある。俺が真偽を実際と置き換えるとき、俺は「自動車は実際に存在する、または自動車は実際に存在しない」を得る。
現実的には、「自動車は実際に存在する、または自動車は実際に存在しない」のどちらかであると言いたいように思える。「創造主は実際に存在する、または創造主は実際に存在しない」のどちらかである。俺が実際という単語を使用すると、俺は排中律に対する俺の違和感を覚える。
排中律
Pが真である時、(否定の論理法則により)「Pの否定」は偽である。この時、Pまたは「Pの否定」は真である。なぜならば、論理「または」では、どちらか一方が真であるとき、Pまたは「Pの否定」も真である。
Pが偽である時、(否定の論理法則により)「Pの否定」は真である。この時、Pまたは「Pの否定」は真である。なぜならば、論理「または」では、どちらか一方が真であるとき、Pまたは「Pの否定」も真である。だから、排中律は偽にならないように見える。
上記のように、真または偽のそれぞれの否定は偽または真であるので、命題の「または」は必ず真になる。俺は上記の法則を数学的、かつ論理的に知らない。しかし、日常的には、上記は常に真になるので、何かを構築する時、理論の信用可能な土台になりそう(使えそう)だと感じる。
いつ排中律は役立つか?
俺の認識 俺らが機械やそれに準じた対象を扱う時、排中律が役に立つ。
機械やそれに準じた対象とは、日常的には、0や1で表示される対象である。俺らが生命体や動物や人間を扱う時、排中律はあまり有用でないように見える。
実際、日常生活では、俺らは対偶や背理法を使用しないし、使用すると嫌がられる。なぜなら、日常生活は機械的でなく、俺らは完全には機械でない。
排中律は機械の世界で依然として有益である。しかし、俺らの世界は完全には機械でないので、日常世界における推論行為を含む脳の運動には、あまり有益でないように見える。実際、俺らは動物か、動物でないかという質問にちゃんと回答できないだろう。
もやっとする場合
具体例
俺の認識 俺は動物(動物的)である、または俺は動物(動物的)でない。
欧州人が彼ら自身を動物であるか、または人間であるかと定義しようとするように見える。俺が彼らを見る時、俺は排中律をいつも思い出す。俺の感覚では、俺は動物であり、または俺は動物でない(人間的である)。当然、何が動物的であるのかは不明である。
また、デカルトの機械論的自然観によると、俺らは機械であるらしい。しかし、俺の肉体は機械のように自動的に運動する一方、俺の肉体は自由意志を持って非自動的にも運動しているように見える。この時、俺は機械である、または俺は機械でないという推論を提示する。
具体例(善悪)
俺の認識 アメリカ大陸の多様性を賛美することは善である、またはアメリカ大陸の多様性を賛美することは善でない。
俺がある行為の善悪を考える時、俺は排中律の正当性を思い出す。なぜなら、人間の視点によって、何が善悪であるのかは互いに異なる。行為aは善である、または行為aは善でない。俺はこの推論を正しいと心の底から主張することはできない。
例えば、ハンド行為はレッドカードである、またはハンド行為はレッドカードでない。この推論は本当に正しいのか?条件をつけない限り、サッカー選手と卓球選手はそれぞれ別の答えを出すように思える。
豚肉を食べることは宗教的に善である、または豚肉を食べることは宗教的に善でない。この問いも宗教に応じて異なるので、もし俺が教室でこの質問を提示するならば、豚肉を食べることは宗教的に善である、または豚肉を食べることは宗教的に善でないが同時に成立する場合があるだろう。
具体例(認識)
俺の認識 オーストラリアは大陸である、またはオーストラリアは大陸でない。
俺はオーストラリアが大陸であるのか、巨大な島であるのかを正確に認識することができない。