必要条件と十分条件
必要条件と十分条件
俺系統の認識 もしある文が存在するならば、単語が存在する。
上記の時、ある文が存在するのは十分条件である。単語が存在するのは必要条件である。日常的には、もし単語が存在しないならば、文も存在しない。
例えば、筆者がmanという単語を欲しいと仮定する。この時、彼が「I am a man.」という文を持って来れば十分である。また、彼が「I am a man.」を作りたいと仮定する。この時、彼は[man]という単語を用意する必要がある。
時系列
俺系統の認識 十分条件が時間的に後であり、必要条件が時間的に先である場合がある。
上記の文に関する例を考えてみよう(図1)。ある文「I am a man.」が存在する。この時、その文が存在することは十分条件であり、文を構成する単語([I], [am], [a], [man], [.])が存在することは必要条件である。論理的には、「文が存在する→単語が存在する」であるが、時系列的には、「単語が存在する→組み立て→文が存在する」になる。なぜなら、筆者は単語をまず始めに用意して、次にそれらの単語を組み立てる必要がある。そして、文が生じる。
別の例、ある車が存在する。この時、車が存在することは十分条件であり、部品が存在することは必要条件である。論理的には、「車が存在する→部品が存在する」であるが、時系列的には、「部品が存在する→組み立て→車が存在する」になる。車の場合も同様であり、筆者はタイヤなどの部品をまず始めに用意して、次にそれらの部品を組み立てる必要がある。そして、車が生じる。
具体例
1節 大和民族
俺系統の認識 もしある主体が日本人であるならば、その主体は東洋人である。
ある主体が日本人であるが十分条件である。その主体は東洋人であるは必要条件である。始めに、東洋人が存在して、その後、日本人が東洋人から遺伝的に分岐した。その結果、日本人が生じた。
同様に、もしある主体が東洋人であるならば、その主体はモンゴロイド人である。もしある主体がモンゴロイド人であるならば、その主体はサピエンスである。下記の図2がその図である。
左の図では、上から下へと行くにつれて、時間が経過して、サピエンスが遺伝的に分岐されていく。その結果、サピエンスから、モンゴロイド人→東洋人→日本人が生まれる。もし筆者が遺伝的に分岐された対象を取るならば、それはサピエンスと言えるために十分である。一方、ある主体が日本人であると言えるためには、その主体がサピエンスである必要がある。時間は上から下へと進むが、論理は時間の反対向きである。右の図はよくあるベン図である。
2節 住処
俺系統の認識 もしある主体が存在するならば、その主体の住処が存在する。
例えば、彼はサピエンスを代入する。この時、もしあるサピエンスが存在するならば、そのサピエンスの住処が存在する。その住処は地上である。彼は魚を代入する。この時、もしある魚が存在するならば、その魚の住処が存在する。その住処は水である。
彼は神を代入する。この時、もしある神が存在するならば、その神の住処が存在する。例えば、その住処は高天原である。古代の人々は非現実的な神々の住処を仮定しているが、彼らはこの種の思考を神に適用した結果、彼らは神の住処を無理やり考えようとしたのだろう。
日常的には、空間や地上、海がなければ、生命は誕生しない。空間や海、そして地上が存在した後、生命が誕生した。もしあるサピエンスが存在するならば、筆者はその住処が存在すると主張することができる。もしある魚が存在するならば、筆者はその住処、つまり空間や水が存在すると主張することができる。
3節 意識
俺系統の認識 もしある意識が存在するならば、その肉体が存在する。
言い換えると、もしある意識が存在するならば、それに対応する肉体が存在する。睡眠時には、肉体は存在するが、意識は存在していない。意識が存在することは十分条件であり、肉体が存在することは必要条件である。おそらく、肉体と意識の順序は肉体、意識である。
類似した例には、「もし俺が存在するならば、世界が存在する」という推論がある。俺が存在するならば、なんらかの世界も存在する。世界が存在することは必要条件であり、俺が存在することは世界が存在するための十分条件である。