背景
俺系統の認識 筆者はある推論それ自体が正しいのかを知りたい。
その時、彼はその推論を安心して使用することができる。なお、ここでは、彼は正しいと真を類似した意味で使用する。例えば、彼が目にする対象のほとんどは誰かによって作られてる。信号は日本信号株式会社によって作られている。ある車はトヨタ自動車によって作られている。カップラーメンは日清によって作られている。この時、彼は自然界は誰によって作られているのかと疑問に思う。
ここから帰納的に、「もしある対象が存在するならば、その対象は作られた。」という推論を仮定する。この時、もしこの推論が任意の対象に関して正しいならば、創造主は存在する。なぜなら、世界や自然界を代入すると、世界や自然界は(誰かによって)作られた。だから、創造主は存在する。彼は創造主が存在することを信仰する。彼はこのように思考する。
その他の例では、「もしある主体が存在するならば、その主体の住処が存在する」という推論を仮定する。なぜなら、魚は水を住処とする。サピエンスは地上を住処とする。月は地球の周りを住処とする。この時、もしこの推論が任意の対象に関して正しいならば、創造主の住処は存在する。ただし、創造主が存在していると仮定する。この時、彼は高天原やアスガルドが存在する。彼は高天原が存在することを信仰する。彼はこのように思考する。
より現実的な例では、「もしある主体Y染色体ハプログループR1系統を持つならば、その主体は印欧語族を話す」という推論を仮定する。なぜなら、一般的に、アメリカ大陸におけるY染色体ハプログループR1bと印欧語族のケントゥム語との関係を見るとわかるように、言語は父から息子へと伝達される。その結果、アメリカ大陸の父系はアメリカ先住民の父系Q系統からR1bに置換され、かつ印欧語族が話されるようになった。この時、もしこの推論が任意の対象に関して正しいならば、彼がR1系統を考古学の分野で発掘した時、その雄は印欧語族を話していたと考えることができる。
上記の推論たちはいわゆる怪しい推論である。そのため、上記の推論が正しいのかは不明である。彼は上記の推論が正しいのかを知りたい。そこで、彼は真偽を代入していって、その推論が正しいのかを氏寄ろうとする。現実世界は複雑であり、人々は「こうすれば、売れる」のような正しい推論それ自体を獲得することができない。だから、本当にこうすれば売れるのかという推論が正しいのかを考える必要がある。
なぜpが真であり、qが偽であるならば、p→qが偽であるか?
俺系統の思考規範 もしある推論p→qが正しい(真である)ならば、その時、もしpが真であるならば、qは真である。
言い換えると、もしある推論p→qが正しい(真である)ならば、もしpが真であるならば、推論は正しいので、qも必ず真である必要がある。ある推論が正しいとき、もし正しい情報がその推論に代入されるならば、正しい結論が出てくる必要がある。もし正しい情報が入力されたのにも関わらず、間違った情報が出力されたならば、それは推論が正しくない。つまり、もしpが真である、かつもしqが偽であるならば、推論p→qが正しくない。
例えば、「もしある主体Y染色体ハプログループR1系統を持つならば、その主体は印欧語族を話す」という推論を仮定する。筆者はエトルリア人をその主体とする。エトルリア人はY染色体ハプログループR1bを持っていた。しかし、彼らは印欧語族でなく、エトルリア語を話していた。つまり、pは真であるが、qは偽である。エトルリア人を上記の推論に代入すると、彼はエトルリア人は印欧語族を話すを獲得する。しかし、この文は実際に反する。なぜなら、推論の方が正しくない、つまり推論は偽である。
別の例には、次がある。「習近平は漢人である」という文が存在する。この文は真である。この文から、彼は「習近平は欧州人である」を推論すると仮定する。この時、この推論「もし習近平は漢人であるならば、習近平は欧州人である」は正しくない、つまりこの推論は偽である。なぜなら、正しい情報から、正しくない情報を導いている。
なお、この推論をより一般化すると、「もしある主体は漢人であるならば、その主体は欧州人である」である。感覚的にも、この推論は間違っていると分かるだろう。真→偽は推論それ自体が正しくないときに生じる現象である。
推論が正しい場合、真→偽は生じない。「もしある主体が日本人であるならば、その主体は東洋人である」という推論が存在する。この推論は正しい。この時、たとえ筆者がどんな文を入れるとしても、真→偽は生じない。なぜなら、推論それ自体は正しいので、正しい情報入れれば、正しい情報が導かれる。ただし、間違った情報を入れた場合、正しい情報が出てくるとは限らない。
なぜpが偽であり、qが真であるならば、p→qが真であるか?
俺系統の認識 たとえpが偽である、かつqが真であるとしても、推論p→qそれ自体が正しくないとは必ずしも言えない。
例えば、「習近平は日本人である」という文が存在する。この文は偽である。この文から、彼は「習近平は東洋人である」を推論すると仮定する。この時、この推論「もし習近平は漢人であるならば、習近平は東洋人である」は正しい、つまりこの推論は真である。
上記の推論それ自体は正しい。なぜなら、習近平をある主体とお置き換えると、その推論は「もしある主体が日本人であるならば、その主体は東洋人である」という推論になる。上記で見たように、この推論それ自体は正しい。つまり、たとえpが偽である、かつqが真であるとしても、推論p→qそれ自体は正しい場合がある。
「もしpが偽である、かつもしqが真であるならば、p→qが偽である」という推論それ自体が正しくない。つまり、「pが偽である、かつqが真である、かつp→qが偽でない」という場合がある。その場合は上記の習近平の例である。
理性信仰とコーカサス人種
俺系統の認識 コーカサス人種は推論それ自体をより信仰する。
コーカサス人種はpやqよりもp→qの方を信仰する。または、彼らはpやqよりもp→qの方を正しいと考えるように思える。言い換えると、コーカサス人種は理性信仰を持っている。彼らは理性それ自体を信仰する。理性には、推論が存在する。つまり、彼らは推論それ自体を信仰する。
例えば、コーカサス人種は創造主を信仰する。なぜなら、彼らは「もしある対象が存在するならば、その対象は作られた。」を信仰する。たとえ彼らが創造主を知覚することができないとしても、彼らは推論それ自体を信仰しているので、彼らは創造主が存在すると信仰する。
上記のY染色体ハプログループに関しても同様である。彼らはエトルリア人がR1bを持っていたという事実よりも、エトルリア人がエトルリア語を話していたという事実よりも、「もしある主体Y染色体ハプログループR1系統を持つならば、その主体は印欧語族を話す」が正しいのかどうかを気にする。
一方、大和民族を含むモンゴロイド人種はpやqをより重視する。彼らは対象が存在しているのか、創造主が存在しているのかを気にする。より正確には、彼らは彼ら自身が創造主を実際に知覚できるのかを重視するように見える。彼らは推論それ自体をあまり重視しない。
知覚は人間の脳の働きというよりも、知覚は動物的な感覚に近い。一方、推論は人間の脳の働きであり、それは理性それ自体である。彼らはその脳の運動を信仰している。彼らは見るや感じるといった感覚をあまり信用していない。