東洋文明における法

歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/陰陽

1章 運動と行為と人為

以下で、俺は運動と行為と人為を提示する。なお、下記は俺の造語である。俺は物体の運動と自由意志による運動と主体的な義務による運動を区別するべきと感じた。

以下では、俺は法を決まりと仮定する。法が何であるかは非常に難しい。一般的に、法は善悪を持つべきであると考えられ、かつその善悪は正当性を持つ必要がある。

ここでは、それを取り上げない。決まりや規則やパタンと思って欲しい。

1章 運動

認識 運動とは、物体の位置の変化である。

 運動は物理学で扱われる。そこでの運動は機械の運動に等しい。

1節 動作法

 動作法とは、(物体の)運動を定める法である。例えば、機械へのプログラム(動作法)は動作法である。物理法則(自然法則)も動作法である。

2章 行為

認識 行為とは、自由意志を持つ運動である。

 東洋文明では、動物もまた自由意志を持つ。野生動物を見ると、俺は彼らもまた自由に運動していると審判する。少なくとも、彼らの運動は機械的な運動でない。

 1節 行為法

 行為法とは、(動物の)行為を与える動物法である。例えば、犬に対する躾は行為法である。また、子供や家畜や奴隷に対する躾も行為法である。

3章 人為

認識 人為とは、主体的な義務を持つ運動である。

 または、人為とは、義務的な意志を持つ運動である。個人的には、俺は動物と人間の違いとは、自由でなく、義務が存在するかである。空を自由に飛ぶワシは義務を持たない。

 1節 人為法

 人為法とは、(人間の)人為を人間と契約する人間法である。例えば、人間が宗教的な義務や法律に沿って主体的に行為するとき、その行為は人為である。自由意志による気分的な合意でなく、義務的な意志による合意がより優先される。

 2節 人為法と人間の本質

 人為法は人間の本質を与える。なぜなら、義務に沿って運動する対象は人間のみである。もしxが人為法であるならば、xは人間の本質を与える対象である。

おまけ 陰陽一体思想

運動と行為と人為の陰陽一体 運動と行為と人為は互いを排除しない。

 俺ら人間は機械的な性質と動物的な性質と人間的な性質を持っている。俺らは3つの性質を俺らの内部で成立させている。動物的な性質と人間的な性質は互いを排除し合わない。

2章 法と法の善悪とその正当性〜陰陽法と礼法〜

以下で、俺は東洋文明のための法と善悪とその正当性を提示する。前提として、文明や宗教や人種が異なるとき、法と善悪とその正当性も異なる。

1章 法

認識 法とは、対象の存在や状態や運動を与える決まりである。

 「や」の意味は or(または)である。「や」は及びの意味も持つとする。つまり、上記の「対象の存在や状態や運動」は対象の存在及び状態及び運動でもある。

決まりが何であるかは不明である。俺は規則やパタンという曖昧な単語を嫌う。また、法則と法の違いも不明である。

2章 法の善悪

認識 陰陽法とは、法の善悪として陰陽を持つ法である。

 法には、法の善悪が必要とされる。善悪とは、運動競技におけるレッドカードのような対象である。俺らはある法が善か悪かを判断する必要がある。

もし俺らが法の善悪を判断しないならば、任意の法が肯定される。西洋文明では、法の善悪は善悪二元論によって与えられる。そこでは、善な法律と悪な法律がきっぱりと別れて、善な法が悪な法を否定する。善悪二元法とは、法の善悪として善悪二元論を持つ法である。

一方、東洋文明では、法の善悪は陰陽一体思想によって与えられる。陰な法と陽な法が存在して、それらは互いを互いに否定しない。それらは両立する。

1節 陽法

 陽法とは、陽を持つ法である。何が陽であるのは別の項で提示する。陽法の存在は積極的に肯定される。

2節 陰法

 陰法とは、陰を持つ法である。何が陰であるのは別の項で提示する。陰法の存在は東洋文明では否定されない。

3節 病法

 病法とは、大局的な秩序や安定を破壊する法である。とは、大局的な秩序や安定を破壊する法である。もしxが病法であるならば、xは否定される法である。例えば、薬物を許可する法は病法であるので、その法は否定される。

陰陽一体思想では、癌が陰な対象と認識される可能性が存在する。その時、俺らは癌の存在を否定せずに死ぬ可能性が存在する。そこで、俺らは癌を人体という大局的な秩序や安定を崩壊させる対象と認識する。

俺らはそれを「病」と呼ぶ。その後、俺は病の存在を否定して、癌に適切に対処する。

3章 法の善悪の正当性

認識 礼法とは、法の善悪の正当性として礼を持つ法である。

 法の善悪には、正当性が必要である。ある人間の行為に対して、俺がレッドカードを出すとき、その人間はなぜ彼の行為がレッドカードであるかを質問する。その時、俺はレッドカードの正当性、なぜそのレッドカードが正しいのか、つまり真理であるのかを提示する必要がある。

もし俺が善悪の正当性をその人間に提示できないならば、その人間は俺のレッドカードを無視できる。西洋文明では、法の善悪の正当性は罪によって与えられる。罪法とは、法の善悪の正当性として罪を持つ法である。

さらに、西洋文明では、罪は創造主の意志によって宗教的に正当化される。東洋文明では、法の善悪は礼によって正当化される。礼に加えて、俺らは歴史を善悪の正当性として宗教の代わりに提示する。

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